森
続く数日の間、彼等は一気に西に向かった。
途中の町で馬と馬車を買い、三騎の騎馬と、一台の馬車の一団となっている。
騎乗しているのはシャルディ、ザフィーリ、ランドリーク。
馬車の御者はアルメティ。
彼女は御者もこなすらしい。
馬車にはライムジーアとシアが乗っている。
ライムジーアを探し当てようと血相を変えて地方を歩き回っている密偵や、騎兵隊を避けるために、夜中に馬を走らせることもしばしばあった。
「思ったほど時間は稼げなかったようですね」
危うく商人の格好をした密偵らしき者たちとすれ違いそうになったあとで、ザフィーリが苦々しく言った。
「いや、これは時間稼ぎが役に立っていないわけではなくて、命令を出している人が末端の部下を全く信用していないってだけの話だよ」
下っ端がちゃんと働いているかと不安なので、むやみやたらと配下の者を動かしているのだ。とにかく数は動員している。だが、それだけで効率というものを考えていない。
「あー、いえ。役に立っていないなどとは言いませんが」
・・・思ってはいただろ?
そう思わないでもないが、ザフィーリを困らせても得るものはない。
ツッコむのは我慢する。
ともかく僕等は、いつでも隠れたり逃げたりできるよう心の準備をしながら、そのまま前進した。
幸いなことに捜しまわっている連中は、この辺りにいるはずだとの確信があって動いているわけではなかった。
上から、「お前たちの担当エリアはここだ」と言われて送り出され、その場所で警戒する任務を与えられているだけなのだ。
なので、あまり必死さというものが感じられない。
だからといって油断をしていたわけではない。
あえて言うならば、人生最高の幸運が、僕らの敵の頭上で輝いたのだ。
藪から、あるいは木立の後ろから武装した一団が現れた。突然降ってわいたように姿を現し、僕らを取り囲んだ。
錆の浮いた装備品の数々が、敵の正体を沈黙の上に伝えてくれている。
・・・傭兵だ。
それも、自分に誇りを持っているような生粋の傭兵というわけではなく。どこかの国の敗残兵が食うためになったような傭兵だ。
モスティアたちのように曲がりなりにも皇妃の配下となったのとも、ペレグリナのように自分たちの裁量で山賊になったのとも違う。
誇りも、矜持もない。
金という餌をちらつかせられれば、どこへでも行く、誰にでも尻尾を振る猟犬の群れ。
品格的にはクズだが、能力的にいえば実戦経験豊富で優秀。
攻撃してくる気配はないが、直しの入った胸当てをつけ、短い投げ槍をこちらに構えながらじっと立っている。
ザフィーリは呪いの言葉を漏らし、シャルディは馬の手綱をぐいっと絞った。
「寄らねぇほうが身のためだぜ」
シャルディは槍を低く垂らしつつ、傭兵に声をかけた。
「無茶はしないで下さいよ」
ザフィーリがすかさず戒めた。
「どうしたもんかね、ザフィーリよ?」
シャルディは呑気な調子で訊ねた。
「あわせてみたって百人まではいねぇようだ。やっつけちまわねぇか?」
周囲を囲む傭兵を眺めてそんなことを言う。
「あなたとは近いうちに二、三のことについてじっくり話さなければいけないようですね。まぁ、それが手っ取り早いのも事実ではありますが・・・シャルディ、どう思います? 彼らに逃げるチャンスを与えるべきでしょうか?」
「慈悲深い提案をしてくれるじゃねぇか」
シャルディは爬虫類ならではのニヒルな笑みとともに賛意を示した。
間もなく、道を少しいったあたりで、騎馬部隊が薄暗い木立の中から進み出てきた。
隊長は大柄な男で、銀の縁取りを付けた青いマントを着ていた。銀は腐食して白くなっていたし、青いマントは色落ちして水色で斑だったが。
乗っている馬は上等な栗毛の雄馬で、勢いよく踊り跳ねながら蹄で地面に積もった湿っぽい木の葉をかき乱している。
「私は実に運がいいらしい。本当に出くわしたりはしないだろう、そう思って鹿狩りでもしようと森の中に居たところ、あなた方を発見しましてね」
彼は馬を前進させながら言った。
ザフィーリはそんな彼を冷ややかに凝視した。
「運はいいのでしょう。ただし、『不』が付くのではないでしょうか?」
「認めていただいて喜ばしいですな、レディ」
斑模様のマント男が横柄な口調で言った。
「ところで、あなたがたはライムジーア皇子の供をしているとお見受けしたが」
「そのようですね。だとしたらなんなのですか?」
ザフィーリは居丈高に問いをぶつけた。
「捕虜となっていただく。その少年を目が飛び出るような値段で買ってくださる高貴な方がおられるのでね」
「ほうほう。なるほど、なるほど。素晴らしい計画だ。ただ、ちっちゃな穴が一つあいてるようだがね」
シャルディは掴んでいた槍をかたわらの木に用心深くたてかけながら言った。
「なんのことだ?」
「わからんか。オメェさんが見落としてんのはな。無謀にも俺の武器が届くところに来てしまったということよ。オメェさんの頭はもうなくなったも同然。頭をなくした男には金なんていくらあっても意味などあるめぇと思うんだがな」
リザードマンの長い舌が、威嚇する蛇のように斑マントの男へ向かって伸びた。
斑マントは不安そうにリザードマンを見つめた。だが、なにかに気付いた顔をすると、意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「君たちにそんな真似はできない」
彼は確たる根拠もなしに言った。
「君たちは人数が少なすぎる」
「それぐらいの考えしか持てないとは、あなたは愚かな男ですね」
あなた『は』。
他に欠点が多いとしても、ペレグリナには相手の実力を認める度量があった。モスティアには礼儀と誠実さがあった。
この男には尊大さしかない。
王者の友たる資格を持たない男だ。
ザフィーリは、何気ない顔で楯についた紐をぎゅっと締め、鞘の中で剣を緩めた。
いざ戦闘。となったら即座に斬りかかれるように。
「一人も逃がさずに殺すか捕まえるかできる?」
仲間内でしか聞こえない小さな声が、ザフィーリの背中に届いた。
「全員が決死の覚悟で攻撃してくるなら、可能です。ですが、形勢が不利と踏んだら逃げるような輩を一人も逃がさずというのは難しいですね」
口をあまり動かさず、皇子にだけ聞こえる声でザフィーリは答えを返した。
すると、背後からあり得ない音がした。
馬車の扉が開く音だ。
思わず振り返って確認したい衝動にかられ、ザフィーリは必死に自分を引き留めた。目の前の敵から目を離すわけにはいかない。
足音が近づいてくる。
聞きなれた皇子の足音。そのすぐ後ろにこれまた聞きなれたメイドの足音が皇子にぴったりと張り付いてついてきている。
「どうやら、歯向かうのは無謀ということらしいな」
すぐ後ろから、皇子の声がする。
・・・ザフィーリは小さく溜息を吐いた。
皇子のこの声はよく知っている。
なにか突拍子もないことをしでかす前に良く出す声音だ。
今度は何を始める気なのだろう?
ザフィーリたちは敵の様子に目を光らせながら、皇子の言動にも注意を払わねばならなくなった。
「そのようだな。悪く思わんでくれよ、皇子様。個人的な怨みはない、だが、わたしは己の利益を守らねばならんのだ」
「もちろんそうだろう。で、一つ質問させてほしいんだが・・・僕の命、君たちの雇い主はいくらで買い取ってくれるのかな? 自分の値段ぐらい知っておきたいのだが」
無邪気、そう言いたくなるような軽い言葉が投げかけられる。
・・・楽しんでいる。
皇子の供を長年やっていた者たちの間で、共通の認識が共有された。
「ああ、それは気になるだろうな。教えてやろう」
皇子が下手に出たことで、優越感を刺激されたのか、傭兵の隊長は気分がよさそうな声と、心なしか弾む口調で答えた。
「金貨五百枚だ。小さな町なら、そっくり買い取れるほどの額になるな」
アルメティの十倍。
高いか安いかと言えば・・・微妙な金額だった。
ザフィーリたちを倒す手間を考えると、少々安いかもしれない。
だが、彼にはかなりの額に見えるらしい。
・・・部下にも分配しないといけない、という事実を無視しているからだな。
ライムジーアは、そう分析した。
「それは、君と雇主との契約か? それとも、どこかに僕を連れていくと誰にでも支払われるものなのかな?」
純粋に好奇心から、そう聞こえる口調を作って、ライムジーアは問い掛けた。
「マズウィル・ヒルだ。そこの教会に連れて行けば、もらえる手はずになってる」
「なるほど、なるほど」
楽しげな声で、ライムジーアは敵はもちろん、仲間たちをも視線で一撫でした。
「僕をめぐってこれだけの人間が動くわけだね。僕の仲間たちは僕を傷つけさせないために、君たちは金貨五百枚の引換券として僕を捕らえるために」
クスクスと笑ってすらいる皇子に、仲間たちは小さく溜息を吐いた。
何かしでかそうとしている。
「つまり、こうだな?」
わざと、もったいぶる口調で、ライムジーアは言葉をゆっくりと口から打ち出していく。
なにを言いだすんだ?
仲間たちは静かに身構えた。
「僕を人質にすれば、僕の仲間たちは動けなくなる。君たちはそれが誰であれ、僕をマズウィル・ヒルの教会に引きずっていけば金貨五百枚がもらえる、と?」
息を呑む音がした。
ザフィーリだ。
低い口笛が鳴った。
シャルディ。
深い溜息は、ランドリークだ。
理解できたのだ。
皇子の考えが。
「いけ!」
低く命令が飛んだ。
同時に、シャルディが馬の腹を蹴って飛び出した。
ポンッ、と軽い音がして名も知らぬ隊長の首が飛ぶ。
ザフィーリも前に出ていた。
馬を操り一歩で間合いを詰めさせると、手近な傭兵を斬り捨てる。振り下ろした長剣を戻す動きで、その右横にいた傭兵を逆袈裟斬り、倒れる傭兵の背後にいた男の胸に鋭い突きをひとつ。
ほとんど一瞬で三人を斬り捨てた。
命令を発したライムジーアは、シアとともに目を見開いて固まっているアルメティを御者台から引きずり下ろして、三人で馬車の中へと避難した。
ようやく事態が動いたことを理解して後ろから押し迫ってくる歩兵と馬車のあいだには、ランドリークが馬で割り込んだ。
不用意に馬車へと駆け寄った三人の歩兵が騎馬に跳ね飛ばされて動かなくなり、思わず足を止めた二人が瞬く間に斬り伏せられる。
騎兵は、歩兵に囲まれてしまうと戦力が極端に落ちる。
助走をつけての突進ができなくなるからだ。だが、馬車が後ろにあることでランドリークは歩兵に囲ませることなく、駆けまわった。
包囲しようとはかる歩兵の一角に突進して弾き飛ばし、斬り伏せて崩す。その間に別の一角が接近を試みれば、直ちに馬首をそちらに向けて突進する。
「ば、ばらばらになるな! とにかく誰かが皇子を確保すりゃ勝てるんだ!」
傭兵の中から声が上がった。
『僕を人質にすれば、僕の仲間たちは動けなくなる』。
皇子の言葉だ。
自分を囮にして、敵を引き付けるための言葉だ。
傭兵たちも、その程度のことはわかっている。
だが、人数は自分たちが多い。一人でも皇子のもとに送り込めれば勝てる。金貨五百枚に手が届く。そうと知っていて、逃げだすことはできなかった。
傭兵隊はもう隊として成り立たない。
隊長はすでに死に、何人もの味方も失っているのだ。
再起は不能。
ここで金を手に入れなければ、明日から即刻路頭に迷う。どこかの傭兵隊で使ってもらえればいいが、敗残兵は買い叩かれるのが普通だ。安い金で、一番危ない役を押し付けられて死ぬ運命が待つだろう。
彼等が生き延びるためには、何としても金貨五百枚を手に入れなくてはならない。
彼等は必死になって馬車への接近を試みた。
そして、気が付いたとき、彼等は馬車を囲んだ状態で、シャルディ、ザフィーリ、ランドリークに取り囲まれてしまっていた。
もはや、逃げ場はない。
・・・終わったな。
あとは、降伏させてザフィーリの部下に引き渡す。仲間として受け入れるか奴隷とするかは検討する必要があるだろうが。何にしても、戦いは終わる。
ライムジーアは、一息入れようとしていた。
その背後で、アルメティのあえぎが聞こえ、すぐに振り向いた。背中から這い上がるような恐怖を感じながら見たものは、馬車の木壁を突き破って入り込んだ刀身の先が、アルメティの肉感溢れる身体から抜けるところだった。
自棄になった傭兵が付きいれたサーベルが、不運にもアルメティの腹部に突き立っていたのだ。
氷のような冷静さで、シアが布を取り出して傷口に押し当てた。刺繍入りの白いハンカチが瞬く間に赤黒く染まっていく。
「くっ・・・」
奥歯を噛み締めたライムジーアは、馬車の窓を開けて叫んだ。
「即座に全滅させろ! 遊ぶな!」
その命令が耳に入ると、シャルディとザフィーリの力と、何より速度が格段に増した。
彼等とて、遊びながら戦っていたわけでは決してない。
ただ、普段のライムジーアが出す命令は『逃げる者は追うな、歯向かうものには可能な限り降伏の機会を与えよ』だ。だから、降伏する気になるのを待ちつつ剣を交えるのが癖になっていて、今回もそうしていたのだ。
それなのに、『全滅させろ』との命令。
驚くと同時に解き放たれた感覚がある。
降伏するかもしれない、と常に引き気味で戦わねばならなかったのが全面的に前に出ていいとなれば、こんな楽なことはない。
剣戟の音が止むまで、長くはかからなかった。
「こっちだ」
窓から中を覗き込んだシャルディが厳しい口調で呼んだ。
駆けつけたランドリークにも手伝わせて、アルメティを外に運び出す。
すでにザフィーリが地面に布を布いており、シャルディは荷物の中から薬草の小さな包みと包帯を出しているところだった。
「火がいりますね。今すぐに」
森とはいえ、少し前に降った雨に濡れて湿っている枝やら枯葉やらを見回してシアが決然と言った。
アルメティの呼吸は浅くて、ひどく速かった。顔色は死人のように白く、足はもはや自分では立てないほど震えていた。
ライムジーアは彼女を支えながら、みぞおちのあたりが恐怖にうずくのを感じていた。ランドリークが、もう一方の腕を取り、ライムジーアとともに両脇で半分ずつ支えながら、ザフィ―リが敷いた布のところまで彼女を連れて行った。
そのすぐ横に、シアが枯れ木やら枯草やらを積んでいるが、どれも湿っているのが一目でわかった。
・・・火なんてつくんだろうか?
誰もがそう思ってみていたが、シアは火打石を使って一発で火を着けてのけた。魔法かと疑う見事さだ。
魔法か、といえばシアはどこからともなく切れ味のよさそうなナイフを取り出すと、彼女はアルメティの赤い服をわき腹に沿って素早く引き裂き、剣を突き込まれた無残な傷を露わにした。
「治療に入ります。見ていて気持ちの良いものではありません。皇子様は馬車の方に戻っていてください」
「い、いや、だけど・・・」
「それとも、そこでご鑑賞なさいますか? 裸にひん剥かれたアルメティが白い腹をよじってのたうち回り、あえぐのを?」
「ぅ・・・わ、わかった。馬車に引っ込んでる」
ライムジーアが馬車に引っ込むと、容赦のない治療が行われたらしかった。
耳をつんざく悲鳴が立て続けに起こり、アルメティがすさまじい勢いで呪詛と罵倒を叫ぶのが聞こえた。
あまりに凄まじいので、ライムジーアなどは思わず安心してしまったほどだった。あれだけ叫べるなら元気かも、と。
もちろん、それは命を削る叫びであるはずで、ちっとも安心できるものなのではなかったが。
永遠に続くのではないかと思い始めたころになって、絶叫は不意に消えた。
最悪の想像をしてしまうことを全力で阻止していると、疲れ切り憔悴したシアが馬車に戻ってきた。
ザフィ―リも一緒だ。
「一命はとりとめました。ですが、しばらくは絶対に安静です」
深刻な顔で、シアが報告してくる。
「それは仕方がないな。でも・・・」
「はい。こんなところにいつまでもいるわけにはいきません。さいわい、傭兵たちは一人残らず始末できたようなので、すぐに別の隊が駆けつけてくるということもないと思いますけど」
困り果てた表情で、ザフィ―リも報告した。
俯けられた顔、その中で目が何かしら危険な揺らめきを見せている。
ライムジーアの足を引っ張るようなら、たとえ皇子に逆らってでも自分がとどめを、とでも考えているのではないだろうか。
多分そうなのだろう。
「何とか、馬車で運べるようにはできないか?」
せめてそれができれば、少なくとも道端に留まるという危険だけは避けることができる。
「・・・そう、ですね・・・きつく固定すれば。・・・ですが、数日中には安静に休ませることのできる場所に居なくてはなりません。しかも、そのあと二、三か月は養生が必要です」
「・・・わかった。明日の朝早くに移動する。シアがアルメティと馬車に乗れ、僕が御者をする」
帝都で商人をしていたのだ。
御者もちゃんとできる。
普段しないのは、シアとザフィ―リが気を使ってうるさいからだ。
「・・・わ、わかりました」
ザフィ―リが不承不承に頭を下げて引き下がると、シアもわずかに血の付いた服を着替えて出て行った。
夕食の支度を始めるのだ。
全て任せきりだなぁ、と自分の役立たず具合を嘆きたくなるが、これでも一応皇族。身分制度がガチガチに定まっている世界で、部下の仕事に手を出すことは侮辱になる。
『お前の仕事は信用ならないから、俺がする』と言っているように解釈されてしまう。
なので、ライムジーアは自分もできるからと言って、そうホイホイと手を出すわけにはいかないのだった。
それから数日間は、それまで以上に神経質になって移動した。
森を抜けて林を進み、野原を通って。
周囲に一人の人間もいないことを確認しながら。
アルメティをどこか安全な場所に預けるか、回復するかしない限り絶対に戦闘行為に走るわけにはいかない。
それでも、ようやくとある丘の頂上に立つことができた。
そこからは、大陸でもっとも古く深い森を見下ろすことができた。
木々は盛りを過ぎた夏の日差しを、少しでも多く吸収しようと葉を広げている。
「あの森に入ってしまえば、もう安全だ」
少なからずホッとして、ライムジーアはみんなに言った。
安全だからこそ、彼は一行をここに連れて来たのだ。
予定を大幅に変えて南へ南へと移動したのも、このためだった。
「本当に大丈夫なのですか?」
ザフィ―リは不安そうだ。
「条約があるからね。帝国の軍勢があの森に入ることはあり得ない」
太鼓判を押すライムジーアに、ザフィ―リは少し言いにくそうに口を開いた。
「ですが・・・」
うつむいた顔からの上目、いつもの騎士然とした姿とはギャップを感じさせる表情に、ちょっと――意訳・かなり――ドキドキしてしまう。
「・・・ああ、そうか。そっちじゃなくあっちに不安を持っているんだね」
帝国ではなく、森の方を指して言うとザフィ―リは拗ねた子供のような顔でうなずいた。
「大丈夫だよ。僕は『盟友の友』なんだから」
「それは、もちろん存じておりますけど」
「僕を信じて。さぁ、ひと息に入ってしまおう」
ライムジーアたちは前方に広がる森を目指し、アルメティの体に負担がかからない程度の全速力で丘を駆け下りた。
野原から森林地帯に移り変わる際には、必ずその兆候として、藪の縁がある。だが、ここにそのような兆候はなく、いきなり森が始まっている。
ライムジーアがその木立の下に一行を誘導すると、とつぜん屋内に入り込んだような、明白な変化が感じられた。
森そのものは、信じがたいほど古色蒼然としている。
林床は苔に覆われ、ひんやりしていて、下生はほとんどない。
立ち並ぶ巨木のために、入り込んだ人間は自分が驚くほど矮小な存在だったと気づかされて、ある意味打ちのめされることになる。
奇妙な静けさが漂っているようにも感じられた。
辺りはひっそりと静まり返っていて、ときおり昆虫の羽音や頭の上の方から小鳥の歌声が聞こえてくる。
「妙ですな」
ランドリークが辺りを見回しながら言った。
「樵が入った形跡がどこにもない」
「そりゃそうだ。実際、入ったことなんかない。いや、入った者はいるかもしれないな。生きては帰れなかっただろうけど」
「・・・それでよく、『大丈夫』と言えますなぁ」
「僕は『盟友の友』なんだよ。正しい扱い方を知っていれば、『彼女たち』は優しいよ」
そう断言するライムジーアの語調には、多分に私情が入っていた。
前世世界でも、淡い憧憬を寄せていた存在に対しての敬意だ。
「扱い方・・・ですかい。水でもまけばいいんで?」
「喜んではもらえるだろうな。量にもよるけど・・・。そうじゃなくて! 火だよ。焚き火はなるべく小さく、使うのは料理のときだけ。あとは斧も隠しておいた方がいい」
森の中の、誰が通っているものかわからないが、整備された道を進んでいく。
やがて、円形に切り開かれたような場所に出た。
土の下に大きな岩があって、木々が根を張るのを邪魔しているようだ。
「ここで待つとしよう」
「待つ、ですと?」
「そう。この森の主が僕たちを見つけて、接触してくるまでね」
ライムジーアの指示で、テントを張る位置を決めると一行はすぐに野営の支度にとりかかった。今となっては、お定まりの作業なので、銘々が自分の仕事を片付けていく。
もちろん、それはライムジーアも同様だ。
仕事をしなくてはならない、のではなくて誰かがやらないといけないが後回しになっている軽作業をする、効率の問題だ。
で、何をするのかと言えば薪拾いだった。
何日か前に降った雨のせいで、辺りはまだ湿っていて、乾いた薪を見つけるのは容易ではない。
あちこち歩きまわって、倒れた木の下や張り出した岩の下から枝を引っ張り出した。
木々は黙って彼を見ていたが、なんとなく敵意を感じもする。『彼女たち』の領域にいるのだということがひしひしと感じられた。
このあたりは、いわば『彼女たち』の家の玄関だ。
勝手に他人が玄関に入っているような状態なのだから、不審に思われるのは当然だろう。
「なにをしてるの?」
頭の上から軽やかな声が聞こえてきた。
どうやら、待つまでもなかったようだ。
少しホッとしながら、声のした方をさっと見上げた。
ライムジーアの頭のすぐ上に大きな枝が張り出していて、そこに少女が一人立っていた。少女はベルトのついたチュニックを着て、サンダルを履いていた。
髪は瑞々しい新緑色で、灰色の瞳には好奇の光りが宿っている。
そして、かすかに緑がかった白い肌が彼女の正体を知らせてくれていた。
『ドリュアド』。森の精霊の眷属にして帝国にとっては『盟友』と呼ぶ異種族の一つだ。
かつて、敵対しようとした国は全て滅ぼされている。故に、帝国皇帝がまだ王だったときに、『盟友』たちの領域には一切手を出さないとの盟約を結ぶことと協力を申し込んだ。
『盟友』はその申し出を『是』として、帝国のすることには不干渉を貫いている。
彼女は左手に弓を持ち、右手に持った矢をピンと張りつめた弦に当てていた。
矢の先は真っ直ぐライムジーアを狙っている。
「薪を集めているんだよ」
ライムジーアは彼女の質問に答えた。
「なんのために?」
「料理をするのに焚火が必要なんだ」
「焚火ですって?」
彼女は顔を強張らせて、危うく弓を引くところだった。
「ここでは焚火は禁止されているのよ」
少女はいかめしい口調で言った。
「小さいやつだよ」
「ここで火を起こしたら、殺されても文句は言えないのよ。知ってた?」
少女が威嚇するように言った。
それなのに、ライムジーアは小さく微笑んで見せた。
「実は知っているんだ。殺す場合にはフクーラ・ジュンレル女王の裁可が必要なこともね。まずは僕たちを女王のところまで連れていくべきじゃない?」
「あなた・・・何者? 女王のフルネームを知っている人間なんていないはずだわ」
驚愕に目を見開いたドリュアドは、明らかに警戒の目を向けてきていた。
「何者か、それを名乗るのも女王に対してだけでいいはずだよ。君が女王になるつもりなら・・・名乗ろうか?」
「け、結構よ」
慌てたのか、怒鳴るような声音だ。
その声に驚いたのだろう。
わらわらと四人のドリュアドが姿を現した。
木立の間から滲み出るように現れた彼女たちは一様に小柄で、茜色や黄金色など様々な色をした髪は、秋の木の葉のようだ。
「どうしたの? ツィトローネ?」
最初のドリュアドに声をかけながら出てきた彼女たちは、ライムジーアをジロジロと眺めながら、クスクス笑ったり、ぺちゃくちゃおしゃべりしたりしている。
「こいつ、薪を集めてるんですって、焚火のためによ」
「火ですって?」
あとから来たドリュアドの何人かがあえぐように言って、ライムジーアに非難の眼差しを向けた。
「仲間たちは向うだ」
ライムジーアはそれには応えず、サッサと歩き出した。
森の中をテントに向かって歩いていく。
テントのある空き地に到着した彼女たちを待っていたのは、武器を手に物々しい雰囲気を醸し出すシャルディとザフィーリだった。
落ち着き払って、ライムジーアが武器を下ろすように合図をすると、のそのそと武器を下げる。下げはしても、目に宿った警戒は薄まりもせずにドリュアドに向けられていた。
広場の中央にはライムジーアの忠告に従って最低限の大きさで燃える焚火があり、そのすぐ横では土の上に何枚も敷物を重ねて敷いた上にアルメティを寝かせてシアが包帯を取り換えてやっているところだった。
「けが人がいるじゃないの!」
最初に出会ったドリュアド――ツィトローネという名前らしい――が叫んだ。
大急ぎで駆けよると、巻きなおされようとしていた包帯を解いた。
患部に目を凝らして顔をしかめ、腰に吊るしていたらしい小さな布袋から黄色い粉を指ですくい、傷口に降りかけ始める。
「あ!」
シアが悲鳴を上げて、襲い掛かろうとするのを間一髪でライムジーアが捕まえた。
「大丈夫だ。任せていい」
そっと言い聞かせる。
シアはちょっと驚いたようだが、彼女にとってライムジーアの言葉は絶対だ。
皇子の言葉に従い、シアは患者をドリュアドに任せてお湯を沸かし始めた。ライムジーアにコーヒーを淹れるために。
「あなたたち! いったいどういうつもりなの?! あんな怪我人を連れて旅をするなんて!」
ツィトローネが怒鳴りつけてきたのは、そのコーヒーを飲み終える寸前だった。
カップを口につけてあおっていたライムジーアは、もう少しで吐き出すところだった。盛大にむせる。
「そ、それも女王にあったら話すよ」
むせて、咳き込みながら、ライムジーアが言う。
新緑色の髪をしたドリュアドは口を尖らせながら地面を踏みつけるようにして、森の木立のところに固まっている仲間のところに合流していった。
火が近いからか、木のある所から離れるのが不安なのか、彼女たちはそこから近付いてこようとしなかったのだ。
「彼女たちは子供なのですか?」
ザフィ―リがライムジーアに聞いた。
「そう見えるけど、見かけによらず歳は重ねているよ。ドリュアドは自分の木と同じくらい長く生きるからね。実はすごく年寄なんだ」
年寄なんだ、というところで声を潜めてライムジーアは微笑んだ。
「警備か見回り、ということですよね? 通常、そういうのは男がするものなのではないかと思うのですが・・・?」
「ああ・・・。ドリュアドに男・・・『オス』はいないんだよ」
「え? あ、では、どうやって・・・つまり、その・・・」
ザフィ―リは口ごもり、耳まで赤くした。
「人間の男を捕まえるんだよ。旅人が多いんだけどね。昔は精魂尽き果てて死ぬまで放さないなんてこともあったけど、最近は数か月かけてすべてのドリュアドが満足すると解放されるらしい」
解放されると言っても、命が助かるだけと言う噂はある。
なにしろドリュアドの性行為は激しくはないが執拗に続くとか。彼女たちとの性行為にどっぷりつかると、人間の女では満足できなくなるようだ。
なので、解放された男が、まだ若者であった場合。解放されても数年と経たないうちに森に戻り、短くも熱い人生を送って森の肥やしになるそうな。
「ああ、そうなのですか」
ザフィ―リはやんわりとその話題をやり過ごした。
アルメティに包帯を巻きなおすと、彼等は小川から汲んできた水で用心深く焚火を消し、馬に鞍を付けると森の中へと出発した。
ツィトローネがご機嫌斜めでいるせいか、森の中の風は妙に寒々しく感じられた。
まさに、余所者に対する風当たり、といったものを感じてしまう。
ライムジーアたちが森の中央にある広大な広場に到着する頃には、日がすでに沈みかけていた。
広場の真ん中には巨大な菩提樹が一本立っているのだが、その木はあまりに巨大だったので、ライムジーアなどは思わず木の形をしたビルかと思ったほどだった。
それはもちろん、ありもしない妄想だが、ある意味では正しいかもしれない。
菩提樹の苔むした幹には、あちこちに洞が開いていて、どの洞からもドリュアドが顔を出していた。もしかしたら、その洞に住んでいるのかもしれない。だとしたら、ビルではなくてもアパートかマンションみたいなものだろう。
巨大な木の巨大な枝、そのあちこちにドリュアドが腰かけている。
「皇子様」
ザフィ―リが声をかけて目顔で、ある一点を指し示した。
菩提樹の根元に、ひときわ輝くようなドリュアドが立って出迎えてくれている。
他のドリュアドがチュニックのような動きやすい服なのに対し、彼女だけは夜会にでも出ようというかのようなイブニングドレスを着ていた。
さらさらと腰まで流れる緑混じりの銀髪、涼やかなエメラルドの瞳。
儚げで、なにか作り物のような不自然なほどの美しさがある。
「あらあら、お城の外で会える日が来るとは思わなかったわね」
悪戯っぽい笑顔で、そのドリュアドは優雅にお辞儀をした。
「実は僕も驚いているよ。まだ生きてる事実にね」
ライムジーアが肩をすくめて見せる。
二人は互いに歩み寄って、柔らかく抱きしめあった。
「じょ、女王様?!」
ツィトローネが叫んだ。
「そいつと知り合いなのですか?!」
「あら? 名乗らなかったの?」
「女王陛下に挨拶する前でしたのでね」
すっとぼけて、ライムジーアはニヤリと笑った。
「そんな古いしきたり、作った私でさえ忘れていたわ」
呆れた顔で、女王は首を振った。
「この方はライムジーア・エン・カイラドル。ラインベリオ帝国皇帝の一子にして帝位継承権18位の皇子様よ。そして、私も含めた異種族の団体『帝国の盟友』が初めて全会一致で決めた『帝国側の窓口』、そして皇帝に『盟友の友』の称号を与えられた人物でもある。当然、私にとっても友人よ。そのつもりで敬意を払いなさい、ツィトローネ」
居住まいを正した女王が厳かに告げると、周囲にいたすべてのドリュアドが、敬意を示すための作法――右手で左の乳房を軽く握って握った右手を左手の掌で叩く――で礼を示した。
「下がって、お客様たちのための宴の用意をなさい。わたくしは皇子様と少しお話がありますから」
「わ、わかりました」
驚愕の表情のまま、ツィトローネは頭を下げて走り去った。
他のドリュアドが、同じように頭を下げてあとを追いかけていく。
「・・・なんの話をしていたんだったかしら?」
右手の人差し指で顎を叩きながら、女王が遠い目をした。
「僕がまだ生きているのが不思議だっていう話ですよ」
「ああ! そうそう、それはね。あなたのお義母様が、人知れずあなたを殺すために捜索を公開していないからよ。正規軍が動いていないってわけね」
・・・ああ、そういうことか。
父帝に策謀を知られるわけにはいかないから、皇帝の管轄下にいる帝国の正規軍を使えないのだ。
流れの傭兵しか使えないということか。
どうりで、包囲網が穴だらけなわけだ。
・・・て、ちょっとまて。
「どこからそんな情報を手に入れているんですか?」
「ふふ。『盟友』同士の情報網があるのよ」
意味深な笑みを浮かべる女王。
何人か心当たりがあるライムジーアは思わず頭を抱えた。
・・・『盟友』が絡むと、秘密も何もあったものじゃないな。
「それで? ここには何をしに来たの? 挨拶して夕食を食べるのが目的なわけじゃないんでしょう?」
「ああ。仲間が一人怪我をした。追っ手をかわして旅を続けるのが無理なくらいのね。だから、治療と元気になるまでの保護を頼もうと思って」
ドリュアドの女王は悩ましげに溜息を吐いた。
「駄目かい?」
「・・・そのけが人はオスじゃないのでしょうね?」
ひどく残念そうだ。
「もちろん」
「だと思ったわ」
ドリュアドが用意してくれた宴席は、女性陣には好評だったが男性・・・特にリザードマンには味気なさ過ぎていた。
数十種類の木の実と、ドライフルーツ、果実ジュースに蜂蜜酒というメニューだったからだ。
ちなみに、蜂蜜酒は人間の男を捕まえたときに大量に使用されるのでたくさん貯蔵されている。前世世界でも結婚した後の一か月を子作りに励むため、滋養のある蜂蜜酒とともに夫婦して小屋に籠る習慣が古代にはあったとか。
一か月間、子孫繁栄の願いを込めて親戚中から贈られる蜂蜜酒を飲みながら、子作りに励むため、周囲には甘い空気が漂う蜂蜜の月・・・ハニ―ムーン。そこから、結婚式後のハネムーンの由来になったという説があった気がする。
「ところで、あなた、これからどうするつもりなの?」
女王が、口をすぼめてドライフルーツにしたマンゴーをしゃぶりながら聞いた。
「最終的には帝国のはずれに自治権を持った国を作るのが目標です」
「わたしたちのように?」
「そういうことになります。そのために今は力を高めようとしているわけでして」
難しいのはわかっている。
だが、そうでもしない限り安住の地はない。
いつもいつも暗殺者の影におびえ、宮殿に押し込められる人生を送るのが嫌なら自立するしかない。
「いばらの道ね」
「覚悟の上です」
女王の目が、真っ直ぐにライムジーアを見る。
ライムジーアも真っ直ぐに見つめ返した。
「いいでしょう。ケガ人は預かります。ただし、傷が治るまでよ。傷が癒え次第、あなたのところに届けますからね」
「僕がどこにいても?」
「ええ、どこに居ようとわたしたちの目からは逃れられないわよ」
「なるほど」
・・・つまり、僕も監視下にある、ということだ。
ちょっとうれしいかも。
見守られているということなのだから。