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蚤の市


 ラバルート州を出た僕たちは、今度こそタブロタル目指して西へ進むつもりだった。

 ザフィーリの部下が面白そうな情報を掴んで報せに来るまでは。

 「東のボゴールの町で蚤の市が開かれていますよ」

 知らせてくれたのはザフィーリの部下の中にあって副長を務める二人のうちの一人、シャハラルという女騎士だ。

 ライムジーアとも長い付き合いで、互いに相手をよく知っている。

 蚤の市が開かれていることを知らせてきたのも、そのおかげだ。

 ただの護衛兵であれば敵がいるとの警告以外で、わざわざ駆け付けては来ないだろうが、彼女はライムジーアが興味を持つだろうと知っていて報せに来たのだから。

 目的地とは逆方向だと知っているのに。

 「寄っていきますか?」

 寄っていくんでしょ?

 そう言っているとしか聞こえない口調でザフィーリが聞いてくる。

 「寄ることにしよう。僕の所在地は皇妃側の人間にバレているっぽいんんだし、たぶん監視網が敷かれているはずだ。人ごみに紛れた方が安全かもしれない」

 もちろん言い訳だが、間違ってもいない。

 ペレグリナに警告を受けていた。

 何者かに、ライムジーア一行の捕捉を依頼されたと告げられている。

 つまり、ライムジーアたち一行の動向をかなりの確度で把握している者がいる、そう考えるべきだった。

 そうでなければ、先回りして現地の勢力に声をかけることなどできるわけがない。

 「あー。・・・ええ、そうかもしれませんね」

 ザフィーリは、優しく言い訳の部分を聞き流して手綱を引いた。

 行き先が変わったのだ。

 蚤の市はボゴールの町から少し南に下った街道と燐州に続く山道が交差するあたりに広がっていた。周囲1キロはありそうな広さにわたって青、黄色、赤のテントや太い縞模様の大天幕が並んでいる。

 灰褐色の平野の中に忽然と現れた賑やかな色合いの町とでも表現したいような光景だ。

 今にも降り出しそうな空の下で間断なく吹き付ける風が、鮮やかな色の旗を勢いよくはためかせている。

 「ここでしばらく商売でもするか」

 長い丘を下って市に向かう途中で、馬車の窓から眺めながらライムジーアが呟くように言った。

 「逃走中の人間が、こんなところで商売を始めるとは思わないだろう」

 目線を遠くから近くへと移す。

 泥にまみれた六人の乞食が道端でわびしそうにしゃがみ込んで、両手を伸ばしていた。

 昔は外套だったらしいぼろを頭からかぶっているので、年齢も性別もわからない。

 他に何もできないから乞食なのだろうか?

 楽をしたくて乞食でいることを選んだのだろうか?

 農村の乞食なら前者だろうが、こういうところにいるのは後者の可能性もある。

 前者なら拾って行くのも手だが・・・そう考えていると。

 「・・・あの人たち、密偵です。少なくとも、乞食じゃありません」

 肩越しに、ライムジーアの見ているものを一瞥したシアが、静かに囁いた。

 「なぜそう思うの?」

 さっと顔を引っ込めて、聞いてみる。

 「手が綺麗すぎますし、フードから出てる髪も先が裂けていません。纏っているぼろも、揉んだり踏んだりしてくしゃくしゃにしただけの新品です」

 ・・・なるほど。

 プロのメイドの目には、本当に古くなったぼろなのか急造のぼろなのかの違いがはっきり見極められるもののようだ。

 「・・・よし。シア、服を交換しよう」

 「はい?」

 「君は今から、僕の身代わりを演じているメイド。僕は、数合わせでどこかから拾われてきた子供になる。僕たちを囮だと思わせるんだ」

 密偵というのが何を見張るためのものかはわからないが、もし自分たちを探しているのなら、これで混乱させられるはずだ。

 「あ、そういうことですか」

 一つうなずくと、シアは急いで服を脱ぎ始めた。

 ライムジーアも服を脱ぎ、互いの服を交換した。

 二人の背格好はほぼ同じなので、これは問題ない。

 そのあとで、シアはライムジーアにメイクを施して女性に仕立て上げた。

 「さて、あとは・・・」

 ライムジーアは馬車の中の荷物をかき回し始めた。

 皇子用の服やシアの化粧道具の隙間に素早く腕を突っ込むたびに、馬車の床に高価な小物が山のように積み重なっていった。

 「シウダットで穀物を売ったあとで買っておいてよかった」

 鼻歌混じりに、座席の隙間から布袋と大量の布を取り出して、商品を包んでは袋に入れていく。

 手慣れた様子がうかがえた。

 馬車を市の入り口に止め、ライムジーア皇子様になったシアと馬車をランドリークとシャルディが護衛する。

 皇子様は外に出ず、馬車で待つ態勢だ。

 メイド服姿のライムジーアがザフィーリと馬車を離れ、物陰でライヒトゥーム・レグリゾに早変わりして、市へと繰り出す。

 これで、万が一見張られているとしても、どれが皇子なのか、そもそも皇子はここにいるのかいないのか。混乱をきたすはずだとライムジーアは確信していた。

 ・・・僕の顔を完全に記憶している人間はそう多くない。似ている誰か、なのか本人なのか、はっきり断定できる人間はこんなところまで来るはずがない。

 結局断定はできず、思い切った行動に出にくい状況を作り出せる。

 もし、実際に見張られているのだとすれば、この混乱の間に何かしらの手を打てばいい。

 「さて、始めようかな」

 ライムジーアは黒いベルベットの帽子を粋な角度に被った。

 それから宝物のぎっしり詰まった袋を持つと、ザフィーリを従え、ボゴールの蚤の市の只中に入っていった。

 テント一つ一つを端から回り始める。

 宝石のついた短剣を仕入れ値の倍で売り、綺麗な絹の染め物を値切って買う。

 銀のゴブレットを二割増しの金額で立て続けに二個売って、値段の付け方を間違えたに違いないカット前の宝石を八個買った。

 そんな感じで売り手になり、買い手に回り、場合によっては交換し、交換ついでに情報を仕入れるといった具合で市を回る。。

 そして午後も半ばになるころには、シウダットで買った品物を全部売りつくしてしまっていた。財布には今やぎっしりと中身が詰まってジャラジャラと音を立てていて、肩に負っている袋は相変わらず重いまま、中身はすっかり入れ替わっていた。

 帝都の目抜き通り、前世世界でいえば銀座の一等地で三年間も商売をしていたのは伊達じゃない。こんな田舎の市に出張ってくるような商売人なんて、どうということはない。

 ・・・と言いたいところなのだが。

 ライムジーアは浮かない顔をしていた。

 素晴らしく美しい、小さな茶色のガラス瓶を手のひらで転がしている。

 象牙の表紙を付けた高名な詩人の詩集二冊と引き換えに手に入れたものなのだが・・・。

 「勝ったんだか負けたんだか」

 ライムジーアは不機嫌そうにそう言った。

 「なぜですか? ずいぶんと儲かったように見えますが?」

 「これにどれだけの価値があるかわからないんだよ。商人としては致命的だ」

 「そうなのですか、では、なぜ交換したのですか?」

 「価値がわからないという致命的な弱みを見せたくなかったんだよ」

 「誰かに売ってしまえばよいのではありませんか?」

 「価値がわからないのにどうやって売る? 高い値を付けたら誰も乗ってこないだろうし、安くし過ぎれば笑い者になる」

 馬車に戻っても、ライムジーアはまだ不機嫌なままでいた。

 だが、すぐ隣にシアが座っているという事実に気が付くと、にっこり微笑んだ。

 「親愛なる方、大したものではございませんが、あなたへの敬意の印としてこれをお受け取りください」

 大袈裟なお辞儀をして、両手で件の小瓶を差し出した。

 シアは嬉しさと疑惑の入り混じった奇妙な顔をしていた。

彼女は小さな瓶を受け取り、ぴったりしまった栓を用心深く抜いた。

 それから、優雅な動作で手首の内側を栓にあてがうと、その手首を顔のところに持っていき香りをかいだ。

 「まぁ、皇子様」

 彼女は嬉しそうな声を上げた。

 「皇子にふさわしい贈り物です」

 ライムジーアは笑顔をわずかに曇らせると、彼女が本気なのか、あるいはふざけているのか見極めようとした。

 やがて溜息をもらすと、諦めたように座席に腰を落ち着けて服の胸元をくつろげた。

 少し、休憩を入れたかったのだ。

 シアは香水の香りがほのかに漂う馬車の窓から、そっと外の様子に目を向けた。が、外を見た途端、喉を詰まらせて身を引いた。

 「どうしたの?」

 ライムジーアが訊いた。

 「市の入り口にいた者たちがいます」

 「どれどれ」

 そっと窓に近づいて、ライムジーアもシアと一緒に外に目を向けた。

 確かに人が六人いる。

 だが、様子がまるで違っていた。

 まず、ぼろをまとっていない。

 どころか、安物ではあっても新品のチュニックとズボンを着けている。

 「えっと・・・あれがあのときの乞食だって?」

 とてもそうは見えない、とライムジーアはシアに顔を向けた。

 シアは真顔でうなずいた。

 「服は替えられますが、手と耳の形は変えられません」

 「な、なるほど」

 何がどう違うのか、わからないが。シアには今見えている六人と、市の入り口にいた六人の乞食は同一人物だとの確信があることは分かった。

 ということは、やはり見張られているということか。

 「ザフィーリ、もう一度出かけるよ」

 帽子をかぶり直して、馬車を降りたライムジーアはザフィーリを伴って再び市に出向いた。いくつかのテントを回り、ある交渉を行う。

 そして・・・。

 「うん。いいじゃないか」

 市の端っこにある目立たないテントを覗いて、ライムジーアは満足げな顔をした。

 とある商人と交渉をして、彼が商品置き場として持っていたテントを買い取ったのだ。

 中に放り込まれている売れ残りのガラクタも込みで。

 「ランドリークたちのところに行って、ここに移動させてくれ。馬車もね」

 「ここを拠点にするおつもりなのですか?」

 「うん。しばらくの間ね」

 そう言って、ザフィーリをテントから追い出したライムジーアは、目についたガラクタをテントの端に転がされていた荷車にポンポンと積み込んだ。

 ザフィーリが戻ってきたときには、テント内のガラクタは全て荷車に詰まれ、テニスコート半面分は面積のある大きなテントの中はすっかり空っぽになっていた。

 「よし。ランドリーク、荷車を頼む。ザフィーリは護衛ね。シャルディとシアはテントから顔も出さずに閉じこもっていてくれ」

 「寝てろってことなら、そうさせてもらいやすぜ」

 「わ、私、掃除しておきます!」

 リザードンはテントの入り口付近にゴロリと横になり、メイドはどこから出したの謎だが、箒を片手に掃除を始めた。

 ライムジーアは先刻の戦利品の入った袋を担ぎ金貨のぎっしり入った財布を懐にしまい込むと、ザフィーリとランドリークを従え、まるで戦場に乗り込むような勇み足でボゴールの蚤の市に突撃を敢行した。

 今回の商売はさすがに手強かった。

 なにしろ商品がガラクタなのだ。売れるわけがない。それを、ライムジーアは先刻の戦利品との合わせ売りで、どんどんと売捌き始めた。

 少しでも賢い商人が、彼を見るなり身を隠すようになるのに時間はかからなかった。

 市に店を構える商人、その誰もが彼の前では兜を脱いだ。

 気が付くと、彼等は荷車すら売り飛ばしてしまっていて、金貨でずっしり重い袋を三人で担いでいた。

 一つの袋に入れたら破れてしまいそうなほどの金貨を手に入れていたのだ。

 陽が沈み辺りが暗くなるころ。一行は、市に併設された酒場街へと足を踏み入れた。

 多くの男たちが酔っ払って歩き回り、喧嘩や歌や笑いを引き起こしていた。

 酒場街の中央にある大きな居酒屋に向かって、三人はゆっくりと埃だらけの通りを進んだ。

 居酒屋の内部は期待していた程度には清潔で、それなりに明るく、そこそこにまともな臭いの空気が吸えた。三人は入り口からさほど離れていないところに席を取り、礼儀正しい給仕にエールのジョッキを注文した。

 エールは芳醇で、濃い茶色をして、よく冷えているうえに驚くほど安かった。

 つまり、この酒場で暴利をむさぼることに、ここの経営者はあまり関心がないということだ。きっと、市場の方で儲けている商人が、手慰みにやっている店なのだろう。

 そのぐらいの方が都合がいい。

 ライムジーアは上唇の泡を拭いながら、満足げな笑みを浮かべた。

 酒の味なんてわからないし、飲みたくて飲んだわけではない。

 とにかく、この酒場ならやりたいことをすんなりやれる、そう確信したのだ。

 なにをしたいかというと・・・。

 「あ・・・」

 まさに格好のネタが、目の前に飛び込んできた。

 古くなって光り始めたつぎはぎだらけの革製チュニックを着込んだ、一人の老人が足を引きづるようにして入ってきた。

 しわの多いひげ面の顔には、どこかすまなそうな表情が浮かんでいる。

 その後ろからフェルトの、今の時期だとまだ暑苦しいだろうと思える赤い服をまとって、ベルト代わりの 縄で腰元を締め付けた若い女が付いてきている。

 首には家畜用のつなぎ紐を巻きつけられ、その端は老人の手に固く握られている。

 奴隷だというのが一目でわかる姿だ。

 もっとも、嫌々とか力ずくでというわけではなく、本人も納得の上でのことだろう。

 そうでなければ、あんな紐一本、しかも年寄りだ。簡単に逃げ出せている。

 それは若い女の顔を見てもわかる。

 紐で繋がれているというのに、その顔には誇り高く尊大な表情が浮かんでいた。

 こちらの世界では、奴隷という存在に前世世界の十分の一ほどにも同情が集まることはない。

 人権を売り買いすることに抵抗がないのだ。

 現実として戦乱の世であり、日常的に人を殺し殺される世の中では、自由を奪うぐらいのことで人は心を動かさないのかもしれない。

 帝都の市場にもいたが、そもそも奴隷でいることを誇りにしているという民族まで存在する。その民族は、産まれた時から全員奴隷なのだそうだ。

 誰かが言っていた、「慈悲深い主人のもとで、奴隷でいることほど楽な生き方はない」ということなのかもしれない。

 もっとも、その民族の場合は楽な生き方を選んだということではなく、宗教的な理由があるとのことだが。

 入ってきた奴隷の女は、その民族でもなさそうだ。

 彼女は、あからさまな軽蔑を隠そうともせず、居酒屋にたむろする男たちを見回した。

 老人は店の中央に進み出ると、みなの関心を集めるために咳払いをした。

 「わしはこの女を売りたいのだ」

 彼は大声で宣言した。

 よし! 偉いぞ爺さん!

 ライムジーアは心の中で拍手喝采した。

 こういうのが欲しかった、ようするにライムジーアは目立ちたかったのだ。

 ここにいるぞ! と目を引き付けたかった。

 この状況はまさに鴨が葱を背負ってきた状態。

 鴨が目的が果たせることで、葱があの女なら、申し分ないどころか釣りがたんまり返ってくる。

 うれしくもなろうというものだ。

 女は真顔のまま老人の頬をつまんだ。

 「まったく。あんたバカなの? ねぇ、バカなの?」

 女は声から滲むような悪意を老人に叩きつけている。

 「ここにいるような連中にあたしを買える筈がないことぐらい、あんたの顔ほども皴のない脳みそでもわかるでしょうが!」

 「い、いくらで売れるつもりじゃ。欲をかきすぎるとろくなことにはならんのだぞ!」

 すさまじい剣幕で詰め寄る女に、老人が咳き込みながら反論した。

 「わたしなら金貨二十枚は、普通に値が付くはずよ」

 「そんなにするもんか!」

 「なんですってー?!」

 胸倉を掴んでグワングワンゆすりながらなじっている女に、ライムジーアは金貨を一枚放り投げた。

 これに気が付かないような鈍い女なら、要らない。

 そう思いつつ投げた。

 だがそれはさすがに無礼な考えだった。

 「なんのまね?」

 女は振り向きもせず、某野球選手のような背面キャッチを披露して、金貨をキャッチしてのけたのだ。

鈍くはないらしい。

 「君と持ち主の罵り合いにはうんざりだ、という意思表示だが? 安かったかい?」

 エールを一口含みながら言ってやる。

 多分に挑発の微粒子を加えたつもりだ。

 ついでにもう一枚金貨を投げてみた。

 のってくれるだろうか?

 「ふーん。まぁ、妥当なんじゃないかしら?」

 のってきた。

 当たり前のように金貨を掴み取る。

 金貨を二枚。胸の谷間に挟み込んで、睨み付けてきた。

 黒い瞳が光っているかのような、力のある視線を撃ち込んでくる。

 かなり気性が激しいようだ。

 「名前は?」

 三度、金貨を投げながら聞いた。

 「アルメティ、だよ」

 表情に戸惑いを漂わせて応えてくる。

 立て続けに三枚も投げてくるとは思わなかったらしい。

 気を引くのに金貨二枚までなら想定できたが、三枚以上となるとそうではないということか。

 「なにができる?」

 金貨を投げる。

 「丈夫で健康な女だわ」

 丈夫、と健康、に一枚ずつ。

 「料理の腕もいいわ」

 一枚。

 「獣の皮や毛皮を鞣すこともできる」

 獣の皮と毛皮で二枚だ。

 アルメティの顔が赤くなったり青くなったりし始めた。

 もうじき金貨が十枚になる。

 金貨十枚と言えば馬付きで綺麗な二人乗り馬車が買える金額だ。前世世界でいえば中古の軽自動車といったところ・・・十五から二十万円くらい。

 結構な額だ。

 前世世界的にはたかだか二十万程度では、五回か六回ベッドに誘える程度の金だが、世界が違えば物価も違う。

 ・・・違うな。

 身分が違えば金の価値が変わるというべきか。

 貴族たちになら、金貨十枚は前世の経済観念で例えると十五万から二十万程度の価値だ。

 だが、市民クラスであれば、それは百五十万の価値になり。

 農民クラスで千五百万。

 奴隷クラスなら一億五千万かそれ以上の価値になる。

 もちろん、あくまで概念の話だ。

 実際には貨幣価値は貴族が持っていても奴隷が持っていても変わらない。

 金貨一枚は金貨一枚だ。

 ただし、貴族が一食にかける金額が一万円のとき、市民は三千円で、農民が五百円。奴隷に至っては十円のパンの耳を齧るかゴミ箱から野菜の皮を拾って食べる。

 金貨一枚は、貴族にはランチ一回分でしかないが、市民には一日分の食費を上回り、農民にはランチ二十日分で、奴隷にして見たら二十年くらいは何もしないで生きられるだけの価値を持っている。

 ・・・結構な額と言えるだろう。

 「お、大方の病気なら治せるわ。薬を知ってる」

 これで十枚になった。

 「主人の知らないところで他の男と寝たりしないし、木笛を吹くこともできれば、古い話をたくさん知ってる。弓の腕前だって、熊を仕留めたことがあるくらいよ」

 少し早口になって一気に言い募った。

 もちろん、こちらも一気に四枚の金貨を放る。

 「お、踊りだって踊れるわ」

 金貨が宙に舞う。

 女は、途方に暮れた顔をした。

 手の中の金貨をどうすればいいかわからなくなったらしい。

 胸にあと十二枚もの金貨は挟めないだろうし、女の服にポケットのようなものはついていないのだ。

 かまわず、もう一枚投げてやって、老人の方を手招いた。

 彼は転がるようにして、ライムジーアのもとに駆け寄ってきた。

 金貨の入った袋を一つ、テーブルの上に乗せる。

 誰が見ても、金貨が三十枚は入っているとわかる袋だ。

 「爺さん、こいつであの女を買おうじゃないか、どうだい?」

 「な、中を確認させてもらってもいいじゃろうか?」

 もちろん、とうなずいてやる。

 ガタガタと震えながら、老人は袋の口を開けて中を覗き込んだ。

 手を入れて数え始める。

 頭の中だけで処理するのが不安なのだろうか、数を呟きながら。

 「・・・十八、十九、に、二十・・・・・・」

 二十を超えたところで、老人の顔色は赤くなり始めた。

 「・・・二十七、二十八・・・」

 三十に近づくうちに息も絶え絶えになって、今度は蒼くなり始めた。

 「・・・さ、三十四、三十五、三十六・・・・・・!」

 どうやら数え終えたらしい。

 金貨の袋を握りしめて、老人は茫然としている。

 「売ってもらえるかな?」

 「・・・はっ?! え、ええ。も、もちろんですとも!」

 気が変わったりしたら大変だ、とでも思ったのだろう。

 金貨の袋を抱え込むようにして後退りながら、老人は叫ぶように言った。

 「アルメティ! お前の主人はたった今から、このお方だ。文句はないな?!」

 あるわけがないとの確信を込めた言い方だった。

 「な、ない、よ」

 言われた彼女の方も、金額に気圧されたのかさっきまでの威勢が鳴りを潜めて、妙にしおらしい。

 「よろしい! この市に来ていろいろ売り買いをしたが、これほど価値のある取引はなかった。女! アルメティといったな。お前に『金貨五十枚の女』の称号をくれてやる。ついてこい!」

 彼女に投げ渡した金貨と、老人に支払った金貨がちょうど五十枚だ。

 女は・・・アルメティは傲然と胸を張った。瞳がらんらんと輝いている。

 「わたしにふさわしい、素晴らしい称号だわ。値段通りの女だったと、必ず認めさせるわよ」

 「そう願おう」

 短く答え、居合わせた者たちが、唖然呆然の態でいる間に居酒屋を出た。

 まっすぐ、テントへと戻る。

 「これで、僕のことは市中の人間が知ることになるだろう」

 テントに入って、シャルディが見張りに立つとライムジーアは声高に笑った。

 「まず間違いないでしょうな」

 ランドリークがまじめくさった顔でうなずいた。

 「いったい、今度は何を企んでおいでなのですか?」

 ザフィーリの声もかなり厳しかった。

 「僕たちは見張られている。普通、そういう場合に見張られている側は目立つ行動を避ける。この騒ぎを見れば、見張っている奴らは僕が全く警戒していないと思うだろう」

 「それはそうでしょうが・・・」

 ザフィーリは困惑していたが、もっと困惑していたのはアルメティだった。

 「あんたたち、犯罪者か何かなのかい?」

 全員の顔をちらちら見比べながら聞いてきた。

 完全に蚊帳の外に置かれ、何のことやらわけが分からないのだ。

 ・・・面子からしておかしいしな。

 リザードマンとメイドの組み合わせがまず普通じゃないし、この顔ぶれで僕がリーダーっていうのも奇妙過ぎる。

 「んー・・・というより、敵が多いっていう方が近いかな?」

 犯罪に手を染めた覚えはないので、これが一番正しい答えになるはずだ。

 「ふうん。それで? わたしは何をしたらいいんだい?」

 敵が多いという答えを、さらっとスルーしてアルメティが聞いてくる。

 奴隷をあんな風に買うような人間なら、敵が多くて当然、とでも思ったのだろうか。

 「買い物をしてきてほしい。酒や食べ物を十日分くらい。それと話のネタをばらまくんだ。僕を骨抜きにするためにテントの中で連日連夜サービスをしてやるつもりだ、とね」

 「買い物するのは好きだよ。話をするのもね。だけど、それが何の役に立つのかがわからないね」

 「僕が、このテントから十日ぐらいは一歩も外に出なくても不思議じゃないと、そう思わせておけるじゃないか。見張りをここに釘付けにして、その間に逃げ出そうというのさ」

 ライムジーアが説明するが、聞いている者たちは理解不能とばかりに互いの顔を見つめ合った。

 「釘付けにしていたのでは、逃げられないのではないですか?」

 小首を傾げて、シアが聞いてくる。

 「これはテントだよ」

 ぐるりと腕を振って、周囲を示して見せる。

 テントの特徴として正面に出入り口が開いている以外は全部が帆布で覆われていた。

 「裏口なんてないから、正面の出入り口さえ見張っていればいい。通常は」

 昼夜問わず見張るために、六人は順番に休まなくてはならないから見張っているのは二人ずつといったところだ。

 この世界でも一日は二十四時間だから、八時間ずつ三交代だろう。

 二人では、この大きなテントを360度全ての方向から見張ることができない。

 「ところがだ。テントは帆布でできている。切れ味の鋭いナイフがあれば好きなだけドアを作れるわけさ。奥の方にね」

 茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せようとして、ライムジーアは失敗した。

 ウィンクは前世のとき苦手だったが、転生しても変わっていないようだ。

 だが残念なそぶりは見せず、ライムジーアは小さく欠伸をした。

 「なんにしても今日はもう遅い。明日は半日かけて、ここに十日は居つくのに必要な準備をしてくれ。そうして夜を待って脱出する」

 全員にそう命じて、ライムジーアはシアがどうやって整えたのか謎なベッドにもぐりこんだ。見張りに対する見張りはシャルディとランドリークが交代で担当することになっている。


 翌日。宣言通りライムジーアと仲間たちは、ちょっとした使い走りでテントと市を何度も往復した。

 馬を繋いだままにしていると、誰も世話をしていないことがすぐに知れてしまうので、ちょうど往復で十日以上市を離れるという商人に馬車ごと貸してやった。

 これで十日間はここにいるつもりだと、暗に示すことができる。

 馬と馬車、そこそこの財産を回収もしないで消える者などいるわけがない。

 普通なら。

 使い走りが買い揃えている物と量は、気を付けて見ている者がいればはっきりと「十日間テントに籠って、お楽しみにふけります」と言っている。

 もちろん、ライムジーア以外の者たちは公然と、あるいは恥ずかしそうにか自慢げに、自分たちの主が『お愉しみ』がいかに好きかを漏らして回ったので市中の人間がそのことを知るのに半日あれば十分だった。

 残りの半分を仮眠に当てて、自分たち自身の準備も整える。

 やがてあたりがすっかり暗くなると、テントの裏側にナイフが入れられ、必要最低限の荷物を持った一行、六人はテントを抜け出した。

 テントは市の外側の端にある。

 もちろん、それだからこそ、このテントを買ったのだがテントの裏側は、ほんの二十歩ほど先が林になっていて、その向こうは森になっていた。

 シャルディが先頭を進んで、行く手に警戒の目を光らせ、シア、ライムジーアとアルメティ、ザフィーリとランドリークの順で移動していく。

 騎馬ではなく、徒歩で移動をするのならば、姿を隠すのに格好の場所だ。

 「初めから予定していたんですかい?」

 ランドリークが思わずうなるほどの手回しの良さだった。

 「見張られていると知った段階で、逃げる算段は当然したよ」

 肩をすくめて、ライムジーアは笑みを浮かべた。

 思い通りに、見張りを出し抜けた手応えがある。

 「逃げ慣れてるってわけでもなさそうだね」

 その横に、そっと寄り添うかのように影が重なった。

 アルメティだ。

 ぴくっ!

 シアとザフィーリの眉が跳ねた。

 女、というよりメスが近くにいる。

 警戒心が働いたらしい。

 「あんたたち、本当は何者なんだい?」

 ライムジーアはともかく、他の者たちがあまり手慣れた様子がないことに気が付いたアルメティが、さらっと探りを入れてきた。

 「わたしはさ、たいていのことなら何でもこなすけど。盗みと殺しはやらないよ」

 「は! それは俺らがやることだ、あんたにやらせたりはしねぇよ」

 先頭を進むシャルディが、言葉を返した。

 「剣を振る人間は間にあっています」

 ザフィーリも。

 突然買われてきた得体のしれない奴隷を仲間とみなすのには、抵抗があるようだ。

 まぁ、命がかかっているのだから当然と言えば当然だ。

 ・・・僕はザフィーリたちを信頼していればいいから気楽なものだけど、彼女たちにしたら外だけじゃなく内にも警戒しなくてはならなくなるんだからな。

 そう考えれば、この反応はやむを得ない。

 でも・・・と、ライムジーアは考える。

 ・・・これから、人はどんどん増えるんだ。毎回毎回、こんな反応をされていたんじゃ困るよなぁ。

 「僕が何者かが、そんなに重要なことなのかな?」

 「・・・いいえ」

 アルメティは少し考えたあと、意外にも首を振った。

 「何者かっていうのはあまり重要なことじゃないわ。わたしを買うことができるだけの金を持っているっていうことと、わたしの魅力に関心を持つ男だということさえわかっていればいいことだから。でも、わたしがこの先、何をすることになるかは重要だわ」

 旅の仲間をじろりと見まわして、アルメティは目を細めた。

 「わたしのできることで、あなたたちの役に立つことってほとんどないんじゃないかしら? あなたをベッドで誘惑する以外にってことだけど」

 武器を扱わせればシャルディとザフィーリの方が上、それも天と地ほどの差がある。料理や病気のときの看護ならメイドのシアがいる。他のこまごまとした用を足すのには、ランドリークがいればいい。

 確かに、アルメティがいる意義はあまりないかもしれない。

 でも、・・・いや、だからこそ意味がある。

 「そうだね。今すぐにはちょっと思いつかないのは確かだね。だけど、大丈夫。そのうち自然に見えてくると思う、君の・・・君にしかできない仕事がね」

 シャルディやザフィーリのような人材は希少だ。

 宝石のような価値を持つ。

 でも、世の中に居る人々の大半は先日出会った農民たちのように、何の能力も持たない人々だ。その人たちを、きちんと働かせて生産性を上げてこその指導者。

 ・・・僕は、力のない者たちを力に変える責任と義務、そして何より権利があるんだ。

 そうでなくて・・・。

 いや、それを言うのはまだ早いな。

 まずは逃げ延びて、生き延びてからの話だ。

 「・・・まぁ、いいわ。買ってもらったんだから、できることはする」

 「それで充分だ。とりあえず、荷物を一つ多く運べてる時点で役には立っているし」

 「・・・すっごい、低価値な気がする」

 憮然として呟くアルメティ。

 周囲で、クスッ、という笑い声が上がった。

 林を抜けて森に入り、森を抜けた先の町で馬車と馬を買うと、一行は街道に出てタブロタルを目指す道へと戻った。



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