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ストカ男


 翌朝、野営を畳んでいるうちから暗鬱とした村々とは離れられるという予感に身が震えた。空気すらも変わったような気がする。

 街道を進み始めると、それが真実であることを目の当たりにした。

 平野が広がっている。

 ごつごつした荒れ地と、ぬかるみしかなかった先の領地とはまさに雲泥の差があった。見渡す限り草が波打っている大草原で、うねりのない場所はところどころしかない。

 黄色く乾燥した草を撫でつけていく風は身を切るように冷たく、道すがら上空に黒っぽい雲がかすめ飛んでいく。

 「この辺りから、ベソン・セーノ・ブルスト男爵の所領に入ります」

 窓の外に目を向けたシアが、小声で報告した。

 ・・・誰だっけ?

 考えて・・・考えて・・・・・・思い出した。

 口元が皮肉っぽく歪むのが意識できた。

 シアが少し咎めるような視線を向けてくる。

 「ザフィーリ!」

 騎馬で少し先を進んでいた親衛隊長が馬車の横に馬を寄せてきた。

 「・・・なんですか、皇子様?」

 半目のザフィーリが警戒の滲む口調で聞いてくる。

 「男爵に挨拶に行かないか?」

 「・・・必要とは思えませんが?」

 常にない硬い返事が返ってくる。

 予想した通りの反応で、つい意地の悪い笑みが浮かびそうになった。

 ベソン・セーノ・ブルスト男爵というのは、ザフィーリに求婚している貴族なのだ。再三にわたりてひどく振られているのだが、日に三通は恋文を送りつけてくる。

 あくまでも噂だが、ザフィーリが乗った馬の糞をすら食べるほどの偏執ぶりと聞く。

 前世の言い方に直せば、どこに出しても恥ずかしくない完璧なストーカー男だ。裁判所から接近を禁じられる判決がすぐに出るか、即刻精神科病棟に隔離されるレベルの。

 ザフィーリが嫌悪するのも当然だろう。

 他の貴族からの評判はと言えば、芸術家的な気質の所有者である。というものだった。

 この、『芸術家的な気質の所有者』というのが、男爵の実態を実にうまく表している。

 あくまでも気質がであって、それは才能の存在を意味していないのだ。

 その事実から、ベソン男爵自身は視線を逸らして、自分に芸術の才能があると信じ込もうと努めた。

 詩を書き、戯曲を書き、庭園を設計し、フルートを演奏し、油絵と水彩画を描いた。

 ことごとく、ものにならなかった。

 どの分野においても、他者の才能を貶すことだけに長じていたのだ。

 こうして、ついにベソン男爵は事実に直面せざるを得なくなった。

 彼には、芸術のどのような分野においても、他者の感性を刺激するだけの創造を成しえるセンスがなかった。

 あったのは、充分な権力と富だ。

 その両者を活用する才覚があれば、多くの創造的な才能を保護育成し、芸術の理解者としての名声を後世に残すことができたかもしれないが、彼にはそれすらもなかった。

 最近では陰湿な嫉妬から若い芽を枯らせ、折り取ることに情熱を傾ける有様だった。

 そのため、芸術界からも社交界からも相手にされなくなっている。

 そのせいかどうかは知らないが、かつては一国の王女で、今や日陰者の皇子の親衛隊長に身をやつしている―――ベソン男爵の私見ではそうであるらしい―――ザフィーリをことのほか好ましいものと考えているようなのだ。

 「だがな、考えてみてくれ。今までは城の中に居たから手紙で済んでいたが、こうして外に出たからには。直接会いに来るとか、力ずくで奪おうとか考えないとは言い切れないだろ? もちろん、それが君自身にだけ向くのなら、君に実害はないだろうけど。僕に向けられたら?」

 「?!」

 「僕を殺せば君を自由にできる、とか考えたら・・・どうなる?」

 その可能性は充分にある。

 「・・・ご挨拶をすれば、その危険がなくなるとお考えなのですか?」

 「死体は嫁を捜し歩いたりしないよ」

 「っ?!」

 ムンクの『叫び』美少女版。

 そんなタイトルの絵が描けそうな顔をザフィーリは見せ、僕をまじまじと見つめた。

 「厩の掃除ついでに、浴室のカビ取りもしていこう」

 本音を言えば、誰であれ僕たちの行き先を探り出しそうな輩がいては困るのだ。

 わざわざ行き先を変えてまで会いに行こうとは思わないが、幸か不幸か、領内に入ったというのなら寄ったついでに片付けておこうと思うのは自然な流れだ。

 「よろしいのですか?」

 「男爵は僕ほど警戒されてはいないけど、僕以上の嫌われ者だ。死んだと聞いて、清々したと乾杯する者は大勢いるだろうけど、犯人をなんとしても見付けだして罪を問え! という者は少ないんじゃないかと思うよ」

 「それは、そうでしょうが・・・」

 ザフィーリがこれ見よがしに溜息をついた。

 「わかりました。ご挨拶に参りましょう」

 ライムジーアは声を立てて笑った。

 「そんなにふくれないで、あくまで礼儀上のことさ。出された料理を食べて一晩泊めてもらうだけのことだよ」

 ・・・向こうが紳士であればね。

 心の中で付け加えて、ライムジーアは自分の読みがどんな結末を迎えるかに思いを馳せた。おそらく、前世も今世も含めて人生で初めて人を殺すことになるだろう。

 でも、それがどうかしたか?

 僕はきっと生きていくだけでたくさんの人を殺すことになる。

 殺した人間の血に首まで沈んで生きることになるだろう、その最初の一滴がベソン・セーノ・ブルスト男爵だったら、どうだというのか。

 たいした問題ではない。

 道を少し逸れた一行はその日の夕刻、ベソン・セーノ・ブルスト男爵邸の客になった。

 男爵が狂喜して出迎えてくれた。

 男爵邸は壮大な門構えをしていた。縦と横がもう一回り大きければ、皇帝宮の正門より豪勢なものと誰もが言うだろう。つまり、大きさでかろうじて負けてはいるが、豪勢さでは皇帝宮にも勝る。

 もっとも、他の貴族たちに言わせれば豪勢に『見える』だけのガラクタ、そう呼ばれているそうだが。

門が開かれ、騎馬と馬車の群れは館の内に招じ入れられた。

 邸宅の敷地内だというのに正面に針葉樹の林がある。園路は緩やかな弧を描いていて続いていて馬車が進むにつれて、移り行く視界が邸宅の偉容を浮かび上がらせた。

 褐色の砂岩で築かれた三階建ての建物で、やたらとステンドグラスが目立つ。

 ・・・たとえポケットに入るとしても、この建物はいらないな。

 どちらかというと寒色系が好みの僕としては、この邸宅には興味が湧かなかった。

 男爵は赤紫を基調とした配色の服と、無駄な羽のせいで重そうな羽帽子とをまとって、ザフィーリを、ついででライムジーアを迎えた。

 宴席が設けられたが、見事なほどにザフィーリに媚びたものになっていた。

 料理がほぼすべて女性好みのきらびやかで甘いものだったし、何よりザフィーリが必死に怒鳴るのを我慢して、全身の筋肉で舌を抑制して、席順を間違えていることを指摘しなかったら上座にザフィーリを、ライムジーアを従者の席に座らせるところだった。

 それどころか、もう少しで宴席に招くのさえ忘れるところだった。

 ギリギリでそれは皇族への非礼と気が付いた執事が呼びに来なければ、本当に忘れられていただろう。そんなだから、他の者は一人たりとも呼ばれていない。

 シアすら扉の前で門前払いを食らって、ここにいない。

 ザフィーリには特別にあつらえたらしい青い色のドレスまで用意されていたが、ライムジーアにはぞんざいな会釈しかなかった。

 そこまでして歓心を引こうとする男爵には悪いが、ライムジーアの見るところ二人にはどうしようもない隔たりがあるように見えた。

 まず、会話が成り立たない。

 全く噛み合わない。

 それだというのに男爵は気が付かないらしく、音楽や芝居の話題が一段落して宴が男爵にとっては佳境に入ると、熱っぽく語り始めた。

 「そなたには淑やかで貞淑な妻、そしていずれは賢く優しい母親になってほしいものだ」

 天井を仰いだライムジーアは盛大に溜息をついて、もう男爵のことは放置して食事に集中することにした。

 もう少し面白い展開を期待していたのだ。

 二人が激しく言い合ってくれるのを。

 だが無駄だと悟らざるを得なかった。

 「無理です、それは」

 同感と見えて、ザフィーリは冷淡に返した。

 「人には向き不向きがあります。私にはそのような役をこなすことはできません。十年前に声をかけてくださっていれば、あるいはそのようなものにもなれたかもしれませんが、今となっては不可能です」

 食卓の中央に置かれた鳥のもも肉に手を伸ばすと骨の部分に葉野菜を巻いて掴んで、そのままかぶりついた。

 口の端にタレが付くが構うことなく、舌で舐めとる。肉を食いちぎっては咀嚼し、再びタレを舌で拭う。

 ベソン男爵は舌の動きを見るたびに、おぞましげに身を震わせた。

 なんのことはない食事の風景が、貴族様にはとんでもなく下品に見えるらしい。

 かつて、同じような場面で肉を取り合ったこともある皇子が、自分と同じことをしながら面白そうにしているのがザフィーリに奇妙な安心感を与えた。

 同じ目線で話ができる相手だ、と。

 やはり、自分とこの貴族とは相容れぬのだと。

 「か、かつては一国の姫でもあった女性が、肉を手づかみで食べるなどと・・・・」

 「私には触手などという便利なものはついていません。ものを食べようと思えば手を使うしかありますまい?」

 「ナイフやフォークがあるではないか! 小さく切って、一口ずつ食べればよいことだ」

 「そんなことをしていては肉が冷めて硬くなります。かぶりつくのはせっかくの馳走、おいしくいただくのが礼儀と思うてのこと。男爵様にはどのような不満がおありなのでしょうか?」

 「私が完璧な女を欲しているからだ」

 これだけは明快に、男爵は断言して見せた。

 「私は、ザフィーリ姫、貴女をこの国で最も美しく優雅で上品な貴婦人に育てて差し上げる使命を、運命の女神に与えられたのだ」

 「無駄な使命感は本人には浪費だし、周囲には損害にしかなりません。この国には適した年齢の女性が二千万はいるはずでございます。私などを選ばずとも、いくらでもお望みの女性はおりましょうに」

 貴族の妻になれるのなら、男爵の趣味に付き合ってもいいと思う女性だって二、三百人はいるだろう。

 「これほど言うてもだめか」

 ベソン男爵は落胆の色をあらわにした。

 「帝国貴族の一人たるこの私が、これほど心を込めて愛しているというのに」

 「願い下げです!」

 ザフィーリはとうとう大声を上げた。

 「あなたの一方的な愛とやらを受け容れるくらいなら生涯、男と無縁でいる方を選びます。あなたと私では、生物としては同種でも、生きている世界が違うのです」

 ザフィーリが口にした世界とは、もちろん異世界のことではないし、地位や身分ということでもない。いわば、文系か理系か、はたまたスポーツか、というようなことの極端な差だった。

 男爵の好みは、詩や絵画、舞踏といった文科系の女性であり、ザフィーリの性質は馬や剣、ぶとうはぶとうでも武闘の方に傾いている。

 至上の愛とやらを満喫したいなら、同じように恍惚として美辞麗句を紡ぐ女性としていればいい。なにも好き好んで真逆の世界にいるザフィーリを対象とすることはない。

 迷惑きわまる。

 そういう意味だ。

 ベソンの頬が歪んだ。

 奇怪な歪み方だ。

 変化は突然だった。

 ザフィーリの足元の床が口を開いたのだ。

 蒼いドレスが、大きな花のように開いて、床下に落とされた。

 怪我がなかったのは反射的に身を丸めたのと、穴の底に厚く布が敷き詰められていたからだ。この穴は閉じ込めるためのもので、傷つけるのが目的というわけではないのだろう。

 「ベソン男爵、どういうことですか、これは?」

 頭上の四角い穴に向かって、ザフィーリは鋭い怒りの声を発した。

 穴の淵から、ベソン男爵の顔がのぞく。

 「まことに美しい。人形の美ではなく、生気に満ちた美しさだ。私の手にその身を委ねていただけるなら、もっと輝かせてあげられる。野に置くのは惜しい」

 「私は自分が立派な戦利品だとは思いませんし、女性に対する男性の好みもちゃんと理解できたことはありません。が、どう言い逃れたところで今あなたがなさろうとしている不名誉な所業を正当化することはできますまい?」

 体勢を立て直しつつ、痛烈な問いをザフィーリは投げ上げた。

 上方からは嘲笑を含んだ声が落とされてきたが、そこには陶酔の粒子が多分に含まれていた。

 「美しき神像を厨子に納め、貴重な磁器を箱にしまうは美術家の嗜み。不名誉なことではない。これもすべて純粋なる愛ゆえだ。このような形で表現するしかない私の苦しみを、どうか察してくれ」

 どこまでも主観的な愛を、ほざくのは当人の自由だ。

 それを受容する義務など、ザフィーリにはない。

 「そのようなものが愛でなどあるものか」

 言うより早く、ザフィーリの手が小さなものを投げ上げた。

 ベソン男爵の顔にそれが命中した。

 わっ、と異様な叫びが発せられたが、飛んだものは鳥のもも肉についていた骨だった。

 実害と言えば、わずかな痛みがあっただけのはずなのだが、ベソン男爵は目を抑えて床に転がった。

 慌てて執事やメイドが助け起こしたが、笑いを堪えている気配を感じ取って男爵は恥辱で真っ赤になった。

 「どこまで野蛮なのだ。こうなれば意地でも作法を教えてやる。それまで穴からは出れぬと思え」

 独創性のない捨て台詞が吐かれ、蓋が閉ざされた。

 暗黒が辺りを支配する。

 「んー。なかなか凝った趣向だよね」

 と、不意に声をかけられてザフィーリは飛びあがった。

 飛び上がると同時に声の主に思い当たり、全身から血の気が引いた。

 「お、皇子、様?」

 「うん。一緒に落とされたんだよ。元々僕の座ってたとこに君を座らせるつもりでいたみたいだし、あと、僕の存在は完全に忘れ去られているらしいし、ね」

 そういえば、とザフィーリの顔からさらに血の気が引いた。

 この暗さでは誰にも見えないだろうが。

 「も、申し訳ありません!」

 これも見えはしないのだが、ザフィーリは背中が見えるほどの角度で頭を下げた。

 「あー、いいからいいから。男爵に挨拶しようと言ったのは僕なんだし、ザフィーリに責任はないよ」

 やっぱり見えはしないが、ライムジーアは片手をひらひらさせた。

 「ですが・・・」

 「心配しなくていい。こうなる可能性はもとから予想していた。・・・まあ、さすがに床下にこんな仕掛けがあるとは思っていなかったけどね。何かされるのは予想できた。シャルディたちが何とかしてくれるさ」

 全然見えないが、肩をすくめたライムジーアはゆっくりとザフィーリに近づいた。

 そっと伸ばした手が、ザフィーリの肩に触れる。

 「あ、ここか」

 そこを起点にして、ザフィーリの位置を知ったライムジーアはくるりと回ってザフィーリと背中合わせに立った。

 「こうすれば寒くないだろ? 少なくとも背中は温かい。それに立っているのも楽だ」

 夏ではあるが、地下は底冷えがした。

 ライムジーアにはそれほどではないが、背中ががら空きのドレスを着ているザフィーリには少々こたえるだろう。

 互いの背中を温め合い、支え合いながら、二人は待つことにした。

 来ると知っている。仲間の救援を。


 お粗末なことに、ベソン男爵はライムジーアのことだけでなく、その家臣たちのことも記憶していなかった。

 男爵の頭の中にはもはや、ザフィーリにどう躾を行うか、それしかなくなっている。

 なので、酒宴であるにしても、それがいかに盛り上がっていようと、通常あり得えない時間を過ぎたと同時に家臣たちは行動を起こしていた。

 男爵よりは頭の働く執事が、余計なことはしてくれるな、と家臣たちにあてがった部屋を外から施錠したのだが、残念なことに行動を止める役には立たなかった。

 ライムジーアの家臣たちが行動を起こしたのは確かに夜遅い時間だったが、行動するための準備を始めたのはザフィーリとライムジーアが部屋を出るのと同時だったからだ。

 男爵側の者たちは、ライムジーアと家臣にとってこれは突然の災厄だ、そう考えていたのだろうが、こちらは災厄があると知っていてまたは期待してここに来た。

 その差がはっきりと出た。

 ベソン男爵家の者たちは知らなかった。

 この時すでに、中に入れた者を逃がすまいと固く閉じた門扉のすぐそばで、衛兵たちが猿轡をはめられ、簀巻きになっているという事実を。

 その職務を今やライムジーアの守役が代行していることを。

 とっくの昔に部屋から出ていたザフィーリの部下たちが、見張りや巡回の兵とすり替わっていたことを。

 そして、気付かなかった。

 邸内を当たり前の顔で歩くメイドの一人が、ライムジーアのメイドであることに。

 そしてなにより、爬虫類の男が床下に入り込んでいたことに。

 騒ぎにならないようにと見かけた人間を片っ端から当身を当てて眠らせていたことに。

 男爵家の使用人たちは、あっけないほど楽に眠らせることができた。

警護の兵も含めてだ。

 シャルディには片目どころか両目とも塞がっていたとしても、楽に片付く仕事だった。

 彼等にまったく仕事への意欲と、主人への忠誠心がなかったためだ。

 だが、男爵が金で雇ったらしい傭兵の一団は、簡単にとはいかなかった。

 「・・・!」

 皇子たちの居場所を探して、邸内を影のように進んでいたシャルディが足を止めた。

 右から撃ち込まれた刀身を、身体と手首を同時に捻って手甲ではじき返す。鉄同士が擦れあう音が響き渡り、火花が舞う。

 鉄の臭いが辺りに散り、シャルディはくしゃみを堪える顔になった。

 それでも、次の一撃を繰り出したのはシャルディだ。

 音もなく引き抜かれた短いが刃幅の広い短剣が閃いて敵の剣を打ちつけ、相手の手から叩き落した。

 うろたえたところに短剣の柄がみぞおちに撃ち込まれ、その兵士は声もたてずに崩れ落ちた。

 傭兵の身体を、使われていないらしい部屋に引きずり込んでおいて、シャルディはさらに奥へ歩を進めた。

 兵士に変装することや持ち物を根こそぎ剥ぐことも考えたが体つきが違うし、着替えているところを襲撃されることほど間抜けなことはない。

 それに・・・。

 「ランドリークじゃあるめぇし、追剥のまねなんかできるかよ」

 持ち物をはぎ取るという発想をしたこと自体が不本意だ、とシャルディは爬虫類の顔でできる限りに顔をしかめた。

 いずれ必ず発見されるであろうから、わずかに稼いだ時間を有効に生かすべきだった。

シャルディは俊足をとばして邸内をかけた。

爬虫類の足は、強い爪を持っているにもかかわらず、音を立てることなく油断ならない戦士を移動させてくれる。

 二人目の傭兵は、廊下の曲がり角を曲がった向こうにいた。

 匂いと体温を感じた。

 たくさんの人間の血を吸ったらしい剣の、錆びの臭いが存在を教えてくれている。

 シャルディは身を低くして上体をほとんど床に付けんばかりにした。

傭兵が出てくるタイミングに合わせて、素早く飛び出すと相手の足元をすり抜けて身を起こし、続いて手刀を首筋に叩きつけた。

 床に叩き伏せた傭兵の顔を引き上げて問う。

 「ライムジーア皇子とザフィーリはどこにいる?」

 「し、知るか」

 その答えに対して、シャルディは問い直すことをしなかった。幅広の短剣を兵士の顎の下に当て、手首を捻った。

 兵士の喉に赤い輪ができて、細い血の線が宙に弾けた。

無駄な破壊は一切せずに、首の皮だけを切り裂いて見せたのだ。

 「俺に現役のときみたいな拷問をさせないでくれないか?」

 はったりだ。

 だが、傭兵はリザードマンの黄色い片目に射すくめられていた。

短い喘ぎを漏らすと、かろうじて片手を持ち上げて指を下に向けた。

 「床下を北に進め」

 短い言葉だが、一度床下に潜ったシャルディにはピンときた。

 「ああ、そういうことか」

 シャルディはうなずき、傭兵のこめかみを靴先で蹴って気絶させると、再び床下にもぐりこんだ。

 貴族の邸宅の地下に広がる地下迷宮、傭兵業で各地を渡り歩いたシャルディには目新しさの欠片もない遊び場だった。

 足の裏に感じる床の踏みしめた時の感触、鼻につく臭気と、鱗を濡らす湿気でだいたいの広さと質が分る。

 出口がいくつあるのかも。

 「へったくそな迷宮だな」

 口元を歪めて、シャルディは嗤った。

 構造が単純だった。

 駆け出しの建築家だって、もう少しましな図面を引くだろう。

 邸宅の主が自分の趣味とセンスを押し付けたのだろうが、出来上がったのは役立たずだ。

 「ああ、やっぱりそうなのか」

 と、聞き覚えのある声がした。

 シャルディは驚かなかった。

 匂いがしたのだ。こんな地下室には似合わない、花の香水の匂いだ。シアが、たくさんの洗濯物を処理しつつ皇子の服にだけつけている匂い。

 「おや、皇子にも退屈でしたか?」

 「明かりがあれば、自力で出れたと思うよ」

 ただし、出た瞬間に首を刎ねられたかもしれないが。

 出口の近くまでなら、明かりがなくても行ける。

 問題は、明かりなしで出口の仕掛けを見つけて開けることができるかどうかだ。

 なにかしら罠があるかもしれないのに。

 まぁ、だからこそ動かずに助けを待っていたのだが。

 「私を躾けたいのなら、傷をつけるような罠はないのではありませんか?」

 シャルディに手を引かれる皇子に、さらに手を引かれながらザフィーリは疑問を口にした。ちょっと非難の色が感じられる。

 皇子にいろいろと言ってやりたいのだが、実際に言うとなると躊躇するので、別の言葉に思いをのせているのだ。

 「そうかもね。ただ、ベソン男爵の好みの女性になるのに、腕や足がないことはあまりマイナスにならないのかもしれないよ?」

 手や足だけを傷つける罠ならあるかもよ?

 というわけだ。生きていて詩を読める目と口があればいいとなると、手足は邪魔とか言われかねない。

 少なくとも、手が二本ともなければ肉を手掴みで食べることは永久にできなくなる。

 「・・・吐き気がします」

 「そうかい? でも、ひとつ言っておくと、僕も手足がなくなってるくらいで女性を嫌いにはならないから。戦場で手や足を落しちゃっても、僕の前からいなくなったりしないでよ? ・・・えっと、これも吐き気がしちゃう?」

 「・・・・・・いえ。命ある限り、お仕えします」

 「うん」

 嬉しげな声が暗黒の中で響いた。

 暗闇はまだ続いている。

 三人の歩長が緩くなり、言葉数が減った。

 異様な臭気が、行く手から漂ってきている。

 躊躇いつつも、出口はこの先にあるはずで、十数個目の曲がり角を曲がった。

 臭気の正体がそこにあった。

 この状況を作るのに必要だったのだろう明かりが、天井付近から射しているので、嫌が応にもそれが目に入ってくる。

 ザフィーリが両手で口を抑えたのは、悲鳴と嘔吐感の双方を抑制するためだ。

 ライムジーアも、不快感を堪えるのに努力が必要だった。

 彼等の前には、かつて死体だったものが蓄積されていた。

 高い湿気のために新しい死体は腐汁のようなものに覆われ、食い散らされた肉や骨の向こうで、ネズミの群れが突然の侵入者たちに敵意の鳴き声を放ってくる。

 この一年か二年余りで行われたのだろう悪行の証拠がそこにはあった。

 「何者の死体でしょうか?」

 ようやく心臓の鼓動を整えたザフィーリが、言葉を吐き出した。

 「そうだな・・・なんでもありだな」

 一人、さほど気分を害した風でもないシャルディが小さく首を傾げた。実に爬虫類っぽい動きだ。

 ついでに、死体だったものの山を横目に、再び闇の中へと歩みを進めている。

 「なんでも?」

 言い方に引っかかってライムジーアが聞く。

 「農民に流しの商人、役人に傭兵・・・貴族もいそうだな」

 「な、なんでわかるんだ?」

 「服ですよ。腐ったにしても、夜会用のドレスがつぎだらけのチュニックにはなりゃしねぇですからね」

 ああ、なるほど。

 それはそうだな、と納得した。

 納得したところで、ライムジーアが立ち止まる。

 どうかしましたか? とザフィーリが聞く時間はなかった。

 鞘走りの音がかすかに聞こえたかと思うと、頭上で刃物が肉に突き刺さる音が聞こえたのだ。そして、ぶしゅぷしゅと空気の漏れる音も。

 「咽喉か口を裂いちゃったみたいだね。たぶん、天井の隙間からこっちを見ていたんだろう・・・盗み聞きの方かな?」

 この暗さでは、明るい外にいる男爵にもこちらの様子は見えないはずだ。暗視能力でもあればともかく。

 だから、床板に顔を押し付けんばかりに身をかがめていたのだろう。床に這っていたのかもしれない。どっちだろうとかまわないが。

 「なぜ、おわかりになったのですか?」

 気配を感じることもできなかったザフィーリが沈んだ声で聞いた。

 親衛隊長たる自分よりも先に、守る相手の皇子が敵に気付くようでは、親衛隊長の能力が不足していることになる。話にならない。

 危機感で震えるザフィーリに、リザードマンが簡単なことだとばかりに笑い声を上げて彼女を引っ張った。

 一歩前に出たザフィーリの顔にほのかな灯りが当たった。天井の一部に隙間ができて、線状の光が漏れている。

 「迷宮の何たるかを知らない愚か者らしい失敗、だね」

 ライムジーアの遠慮のない笑い声が、暗鬱たる迷宮を吹き抜けていった。

 「この高さなら、手を伸ばせば届きそうだ。・・・と、やはり届きやがる。ちょいとお待ちくだせぇや。いっちょ、うえに上ってみますんで」

 落とした相手を殺さずに苦しめるのが目的らしい迷宮は、天井が低かったらしい。シャルディが言うと同時に天井に手を伸ばした。

 「ああ、なんだ。隠し階段がある。どうやら出口・・・いや、男爵様専用の入り口といったところですね」

 ガコンッと結構な音がしたかと思うと、大量の光りとともに階段が下りてきた。

 登っていくと、そこは寝室で、ベソン男爵家最後の当主が鼻から短剣の柄を生やして息絶えていた。

 「すいやせんね」

 「ん? なにがだい?」

 「殺しちまわない方がよかったんじゃありませんか?」

 気遣わし気なシャルディに、ライムジーアは微笑んで見せた。

 死臭のせいで笑顔は少し歪んだが、それはどうでもいい。

 「殺したこと自体には大した問題はないよ」

 帝国貴族の死。

 通常であれば、そこそこの大事件である。

 ベソン男爵家所領と境を接している貴族たちにとっては、おのれの領地を増やす好機になるかもしれない。

 または、勲功多き騎士階級の者にとっては、爵位を得る好機でもある。

大事件だ。

 だが、民衆にとってはどうでもいいことだったし、領地を接しておらず、すでに爵位を持つ大貴族にとっても、たいして意味がない。

 せいぜいが夜な夜な繰り広げられる社交界という名の魔窟で、笑い話のネタになる程度の話だ。

 そこそこのニュースでしかない。

 社交界を開くことがなく、たいして才能もないひきこもりの、貴族の子女に恋文を送りつけまくるストーカー男の死は、何十人かの乙女に安堵を与えただけのこととして葬られるはずだ。

 ただ、その死に帝位継承権18位のライムジーア・エン・カイラドルが関わっているとなると、少しばかり事情が変わってくる。

 「僕のせいで、というのが少し問題視されそうだけどね」

 そうは言いつつ、ライムジーアはあまり深刻そうには見えなかった。

 「なにか、手を考えておいでなのですか?」

 ライムジーアは答えず、すっと扉を開ける。

 男爵家の執事が、跪いていた。

 死刑執行を待つ罪人のように。

 コホン、乾いた咳を一つしてから、ライムジーアは執事のそばまで歩み寄った。

 「ベソン男爵閣下には、過分のもてなしを受けた。いずれ帝都に帰りしときは、男爵の慈愛を世間の者に伝えようと思う」

 「・・・は?」

 執事は土気色の顔で、ライムジーアを見上げた。

 「ただ、残念なことに・・・ベソン男爵は部屋にこもって、帝国史に残る一大恋愛ロマン譚を執筆中のよし。五年から十年は部屋から出てきてくださらないのではないかな?」

 わかるだろう? と、ライムジーアが笑みを浮かべて手を差し出した。

 悪魔の契約である。

 つまり、ベソン・セーノ・ブルスト男爵は死んでなどいない。

 生きている。

 だが、その情熱の燃え盛る炎に誘われるまま書斎に籠った男爵は、寝食を忘れて壮大なる物語の執筆を行っており、完成するまでは相手が誰であろうとお会いにはならぬであろう。

そういうことだ。

 「さ・・・さようでございますな。男爵様のご気性なれば、そうでございましょう。御本の完成したる暁には、盛大なる祝賀会が開かれましょうゆえ。そのときには是非に、ご参加くださいますよう」

 意味を理解した執事が、震えながらもしっかりと返答した。

 ライムジーアの手を借りて立ち上がる。

 「そのときはいの一番に駆けつけよう」

 固い約束をして、ライムジーアはザフィーリとシャルディを振り返った。二人とも、呆れ果てた、という顔で頭を振っていた。


 ベソン男爵邸には結局二晩逗留した。

 存分に食べて飲んで寝て、親愛なるアルティーシア母上様に『控えめな苦情』の手紙を出してもらうよう執事に念を押してから出立する。

 僕は行く先々で嫌われている方が、あの方の御意に叶うだろう。



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