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 翌朝、彼等は早いうちに動き始めた。おかげで、昼頃までには山岳地帯へと達していた。

 山を一つ越え、頂から下を見下ろせば、鬱蒼とした低木広葉樹やシダ植物の群生が見えてくる。

 ナーガ族の領域は、そのあたり一帯だ。

 帝国との約定では、この頂から北が帝国、南がナーガ族の『谷』となる。

 谷は空気の動きというものが全くなかった。まるで、なにもかもが突然湯気の立ち込める淀みに沈んだかのようだ。

 すさまじいい湿気のせいで、水中にいるような気さえする。

 そんな場所だ。

 何もしなくても肌が濡れる不快感は筆舌に尽くしがたいものがある。ただ、一ついいところを上げるなら、そのまとわりつくような湿気のせいか、人の肌に針を刺すことで知られるある種の羽虫が見当たらない点をあげることができる。

 そのかわり、黒い塊、ヒルがどこからでも落ちてくるので警戒が必要ではある。

 頂にはちょうどいい広さの平らな空き地があった。

 たぶん、『谷』へ行く者は皆、ここで一休みしているのだろう。

 「今夜はここで休んで、『谷』には明日の朝下りることにしよう。敵対することはないはずだけど、時に度の過ぎた悪戯をすることがある。過敏な反応は慎むように」

 ザフィーリとフファルを見つめて注意をし、シャハラルとリューリにも視線を送った。

 二人の行動をちゃんと見張っておけ、との意味を込めて。

 「過敏な反応?」

 頭を傾げてフファル。リューリもわからないという顔をしている。

 「例えば、暗がりで後ろを取られたからといっていきなり息の根を止めたりはするな、殴りつける程度にしておけ、ということだよ」

 「ああ、なるほど。わかった」

 具体的に言ってやって、ようやくわかってもらえた。

 早めの夕食を食べ、テントにもぐりこむ。

 前触れらしきものは何もなかった。

 ライムジーアは不意に背後から腕を掴まれ、湿った布で口と鼻をぴったりふさがれた。

必死にもがいたが、押さえつけている手は恐ろしく強かった。

 その布は変な臭いがした。

 うんざりするほど甘くて、濃厚な匂い。

 しだいに目がくらみ、もがこうにも力が入らなくなってきた。

 めまいに押し流される前に、僕はなんとか最後の力を振り絞ったが、やがて深い闇の底に落ちていった。

 ・・・こうきたか。

 ・・・ザフィーリたちが暴発しませんように。

 切に願ったところで、僕は意識を手放した。


 そこは長い廊下のようなところだった。

 しっかりとした敷石と、半ば腐り始めたような木製の壁。

 いま僕の目にはその敷石が並ぶ床がはっきりと見えていた。

 三人の男が、僕の顔を下に向けさせたまま運んでいるところらしい。

 頭が首のあたりで縦に揺れたり横に揺れたりで、すぐに気分が悪くなった。

 口はカラカラに乾き、男たちが顔に押し当てたあの布にしみこんでいた、例の濃厚で甘い匂いがまだしぶとく残っていた。

 僕は顔を上げ、辺りの様子を見ようとした。

 「起きたぜ」

 一方の腕を持っていた男が言った。

 「やっと起きたか」

 別の男がブツブツと言った。

 「ヴルム、お前はこいつの顔に布を長く当てすぎたんだよ」

 「自分が何をやっているかぐらいわかってるよ。そいつを降ろせ」

 はじめの男が言った。

 床に降ろされると、敷石の冷たさが心地よかった。

 身体が熱を持っているのかもしれない。

 「立てるか?」

 ヴルムがライムジーアに訊いた。

 彼もランドリークのような頭をしていた。ところどころに短い毛が生えかけているのを見ると、天然ではなく、まめに剃っているわけでもなさそうだ。

 頬には大きな傷があり、紐付きのローブは汚れてシミが付いている。

 「立つんだ」

 ヴルムは非難まじりの声で命令した。

 床に転がっているライムジーアを、足でつついた。

 ライムジーアは立ち上がろうともがいた。

 膝がガクガク震え、壁に手をついてやっと身体を支えた。

 木の壁はじめじめと湿っていて、カビのようなものがびっしり生えていた。

 「連れてこい」

 ヴルムは他の者に命令した。

 命じられた者たちはライムジーアの腕を掴み、半ば引きずり、半ば持ち上げるようにして頬傷の男の後ろから湿った廊下を進んでいった。

 その廊下を抜けると、部屋というより屋根付きの広場といった感じのする、丸天井に覆われた場所に出た。

 彫刻を施した巨大な柱が、そびえるようなその天井を支えている。

 頭上から下がっている長い鎖の先に、あるいは柱の途中にある細やかな棚の上に、小さなオイルランプが点在している。

 それらからは独特の臭いが放たれていたが、ライムジーアは意識してその臭気を吸わないよう努力した。

色とりどりのローブを着た男たちが呆けたような感じであちこちに動き回っている様子が、なにかしら乱雑な雰囲気を醸し出していた。

 「おまえ」

 ヴルムはとろんとした目つきのぽってり太った若者を呼びつけた。

 「宦官頭のシュッペにお探しの小僧を連れて来たと伝えてこい」

 「自分で言えばいいだろ」

 若者は笛のような声で言った。

 「お前のような奴に命令される覚えはない」

 ヴルムは太った若者の横っ面をピシャッと打った。

 「叩いたな!」

 若者は口に手をやりながら泣き叫んだ。

 「唇から血が出たじゃないか。そら!」

 彼は掌を開いて血を見せた。

 「言われた通りにしないなら、おまえのぷよぷよした喉を掻き切るぞ」

 ヴルムは低い感情のない声で言った。

 「わかったよ、お前が言ったことを伝えればいいんだろ」

 「さっさとしろ。行ったら、俺たちが女王様の探していた小僧を見つけたということをちゃんと伝えるんだぞ」

 丸々と太った若者は大急ぎで走り去った。

 「宦官のやつらめ!」

 ライムジーアの腕を掴んでいた男の一人が、吐き捨てるように言った。

 それでようやく、ライムジーアはここにいるのが宦官――男性器を切り落とした役人――であることを思い出した。

 ・・・そう言えば、そんな伝統があったな。

 ナーガ族に仕える人間の役人は去勢されるのが常なのだ。

 男性器を切り落とすと聞くと、なにかの罪科か拷問のように思えてしまうが、少なくともここでは名誉なこととされているので、無理やり切られたとか騙されたとかいう者はいない。皆、望んでやっていることだ。

 望む気持ちは理解不能だが、嫌々でないのなら同情する必要はないだろう。

 「あいつらにはあいつらなりの使い道があるからな」

 もう一人が下品な笑い声を上げた。

 ・・・声が高いままになるんだったか。

 前世世界でもヨーロッパで実際に行われていたことだ。

 少年コーラスの声を維持するために、去勢するというようなことが。

 たぶん、この男が言ったのとは意味が違うだろうけど。

 「その小僧を連れてこい。シュッペは待たされるのが嫌いなんだ」

 ヴルムが怒鳴った。

 彼は、ライムジーアを掴んでいる男たちの前に立って、二本の柱に挟まれた薄暗い場所を歩き始めた。

 しばらく進んで、おもむろに立ち止まった。

 「そこをどけ」

 闇の中に横たわっているなにかに向かって命じた。

 その影は、しぶしぶと言いたげな様子で動いた。

 そこでようやく、それが一抱えもあるような胴回りをした大蛇であることに気付くことができた。

 奇妙なことに、少しホッとした。

 「あっちで仲間と一緒に居ろ」

 ヴルムはその蛇に怒鳴った。

 彼が差した薄暗い隅には大きな塊があって、くねくねと波打っていた。

 かなりの数の蛇が重なり合って山を作ったものらしい。

 通路をふさいでいた蛇は、ヴルムに向かってチロチロと舌を出したあと、その薄暗い隅の方にするすると移動していった。

 「ヴルム、お前いつか絶対に噛まれるぞ」

 仲間の一人が警告した。

 「あいつらは命令されるのを何よりも嫌がるからな」

 ヴルムは涼しい顔で肩をすくめ、歩き続けた。

 「シュッペが会うとさ」

 廊下を進んでいくと、先ほどの肥満した若い宦官が戻ってきて、意地悪く言った。

 「お前に殴られたと言っておいたからな。蛇たちは俺の味方なんだ」

 「それはよかったな」

 ヴルムはそう言うと、ドアを押し開いた。

 「シュッペ」

 甲高い声で叫んだ。

 「とっとと入れ」

 低い、シューシューと息が漏れているような声が、応えた。

 ヴルムが部屋に入っいく。

 「お前はもう行っていいぞ」

 ライムジーアを掴んでいた男の片割れが若い宦官に言った。

 肥満した宦官はフンと鼻を鳴らした。

 「俺はシュッペに行けと言われたところに行くんだよ」

 「そして、シュッペが口笛を鳴らせばどこにいても飛んでくるんだろ」

 「それは俺とシュッペの問題だ、あんたとは関係ない」

 小馬鹿にした顔で吐き捨てて、宦官の若者は去っていった。

 途中、蛇山に寄って中に腕を差し入れていた。

 本当に蛇は彼の味方のようだ。

 「そいつを中に入れろ」

 ヴルムがイライラした口調で命令した。

 二人の男はライムジーアを部屋の中に押し込んだ。

 「俺たちはここで待つよ」

 片方の男がそわそわと言った。

 ヴルムは耳障りな声で笑いながら、足でドアを閉じ、テーブルの前にライムジーアを押しやった。その上に置かれたオイルランプが、真っ暗な部屋にかろうじて明かりをもたらしている。

 テーブルには死んで一か月たった魚のような目をした風船――そうとしか見えない真丸な体の男――が座っていて、一方の手でつるつるの頭を撫でていた。

 愚痴を呟いているのか、たんに癖なのか、口からは絶えずシューシューと息を漏らしている。

 つられて、ライムジーアまでがシューシューと音を立てた。

 「シュッペ、今すぐ金をもらいたいんだが」

 ヴルムが、いい加減うんざりだ、とばかりに声を高くした。

 「・・・・・・ああ」

 シュッペは、その声に煩わしそうな顔をした。

 「ほらよ」

 テーブルの下から小袋を取り出して放り投げる。

 ヴルムはそれをひったくるかのような勢いでひっつかんで、顔を入れそうなほど念入りに金貨を数えた。

 その間、シュッペとライムジーアはシューシューを続けている。

 「確かに」

 金貨が約定通りの枚数、ちゃんと入っていることを確認すると、ヴルムは挨拶もなしで部屋を出て行った。

 シュッペもライムジーアも、彼に礼儀などというものは期待していなかったので、目も向けずに出て行かせた。

 「失礼を、お詫びさせてください。『盟友の友』様」

 ヴルムがいなくなったところで、シュッペは丁重に頭を下げた。

 本物の皇子である点についてはシューシュー、・・・ナーガ語で確認済みだ。

 「詫びを入れるくらいなら、もう少しましな方法を思いつこうよ」

 呆れた口調で、ライムジーアが非難した。

 シュッペは恐縮しきり、という様子で頭をぺこぺこ下げている。

 「残念ながら、当方には信用のおける配下がいないのです。下手にいつもと違う指示を出しますと、何をしでかすかわかりません。ですので、いつも通りの形式を保たねばなりませんでした」

 つまり、『招待しろ』ではまかり間違って殺すかもしれないから、いつものように『生け捕って来い』、そう指示をしたということだ。

 ・・・めちゃくちゃだ。

 思わず大きなため息が出た。

 「まぁいい。ビボラ・フェアーテ女王陛下にお目通り願えますかな?」

 思い切り嫌味口調で言ってやった。

 「お、お怒りはごもっともですが、どうか女王陛下には内密に願います」

 汗をダラダラかきながら、シュッペは頭を下げて立ち上がった。

 女王のところに『友人』を案内するために。

 ライムジーアが連れてこられたのは大きな部屋だった。

 岩をくりぬいた空間は、壁面にびっしりと官能的な図柄の彫刻が施されている。これで、照明がピンクだったら、ラブホテルかと思うところだ。

 残念ながら、この世界は未だオイルランプで、光は温かなオレンジ色しかない。なので、そこまで扇情的な演出はできない。

 空間の中央には、カーペットを敷き詰めクッションを散らした低い台座が横たわっていた。台座の上には重々しいつくりの、椅子とも寝椅子ともつかないソファがあった。

 ソファの上に女が一人座っていた。

 髪は濃い紫を纏った黒で、緩やかにカールしながら背中と肩に滝のように流れ落ちていた。頭に戴いた金の冠は、宝石を一切付けず加工もされていなかったが、彼女の髪の光沢と調和していて闇夜に浮かぶ満月のごとく輝いている。

 ガウンは純白で、透けるほどに薄い布地は身体を覆うという本来の役目を、まったくと言っていいほど果たしておらず、控えめな乳房の形も、先端の色も、確認することができるほどのものだった。

 薄布から透ける肌は処女雪のように白く、輝いてすら見える。

 そして、千年の時を経た氷河から削り出したかのような冴え冴えとした美貌。

 そばには、大きな丸い鏡が三枚、屈強そうな男に掲げられている。女王はソファにゆったりと腰かけて、鏡の中に映る自分をうっとりと眺めていた。

 ソファの脇では髪を伸ばした、見るからに甘やかされて育ったらしい年のころはライムジーアと同じか少し下だろう少年が、クッションの真ん中にだらりともたれかかっていた。

 時間をかけて手入れされたらしい栗色の巻き毛、頬には紅を差し、しっかりとアイラインも引かれている。身に着けているものと言えば、申し訳程度の腰巻だけ。

 いかにも退屈で機嫌が悪いというような顔をしている。女王は鏡の中の自分を眺めながら、片手の指先で少年の髪をぼんやりと梳いていた。

 「女王様にお客人が参じ給う」

 鏡を支える者たちが詠うように節をつけて報告した。

 なにか、映画で見た古代エジプト王朝のような様式が、ここでは生きているようだ。

 「おお。『盟友の友』殿。待ち侘びたぞ」

 女王はナーガ語で言った。

 「ご招待いただき、恐悦至極にございます」

 ライムジーアも、ナーガ語で答えた。

 ドリュアドと違い、ナーガ族はナーガ語以外を口にしないのだ。どうしても会話をする必要があるときは通訳を立てる。たとえ、それが皇帝でも、だ。

 もちろん、だからといってナーガ語しか理解できないわけではない。

 以前、帝国語を解さぬものと侮った役人が、彼女の前でべらべらと秘密の話をしていたこともあるそうだ。

 おかげで有利に交渉できたと、笑っていたのを思い出す。

 女王は立ち上がって、ライムジーアを出迎えた。

 美しい上半身が、鈍色にテカるものの上に乗った姿が、露わになった。

 女性の姿をした上半身ばかり見ていると忘れてしまいそうになるが、ナーガ族の下半身は蛇だ。

 この時点で、帝国のたいていの人間は目を逸らすか顔色を変えるのだか、ライムジーアは平然とビボラ・フェアーテ女王の抱擁を受け入れた。

 蛇の下半身も、それはそれで綺麗だと思える、ライムジーアはそういう性格をしている。

 だからこそ同種族の者しか信じないと言われる『盟友』に、『友』と言わせるほど、懐に入ることができたのだ。

 ビボラがライムジーアの背に回した腕に優しく力を籠めると、透けたガウンの下の体が優雅にくねくねと動いた。

 それから、躊躇いがちにライムジーアの顔に手を触れる。

 「冷たくて気持ちがいいね」

 くすぐったそうに、ライムジーアがはにかんだ笑みを浮かべると、女王も微笑んだ。

 知り合って数年が経つが、肌を触れあったのは初めてだった。

 帝国の帝宮内で、そんな姿をさらすわけにはいかなかったから。

 『盟友』には常に警護という名の監視が張り付いていたから。

 「ようやく逢えたわ」

 女王はほとんど独り言のように溜息を吐いた。

 「若くて、温かい」

 女王の表情はどことなく飢えているように見える。

 「えー・・・と、名残惜しいけど、用件を聞かせてもらっていいかな?」

 しっとり、ひんやり、の心地よさにおぼれそうになるのを全力で阻止して、ライムジーアはビボラから身体を引き剥がした。

 ドリュアドのように皆無というわけではないが、ナーガ族もオスの個体が極めて少ない。

 一説によれば、メスが9に対してオスの出生率は1に満たないとか。

 なので、ナーガ族もまた、好みの男を見つけると見境がなくなる傾向が強い。

 そうなると、次々に生殖行動に移りかねないので、『谷』にいる人間の男の多くは去勢された宦官なのだ。

 性交渉に、ナーガ族の女たちが走らないようにするための措置として。

 ・・・まさか、城の外にいるうちに抱きしめたかっただけ、とか言わないよね?

 性に奔放な種族だから、ありえなくはない。

 「・・・せっかちね。でも、そんなところもかわいいわ」

 フニフニと頬擦りされて、僕は一瞬何もかもがどうでもよくなりかけた。

 ・・・あ、危なすぎる。

 「そんなやつほっとけよ、ビボラ」

 わきにいた少年が声を上げた。

 いないかのように扱われたことが気に入らなかったと見えて、拗ねたような口調になっている。

 口にしているのは帝国語だ。

 誰も、彼にナーガ語を教えようとは思わなかったらしい。

 女王の瞳に苛立ちが閃いた。

 危険なサインだ。

 ライムジーアには感じ取れた空気の変化に、少年は気付かない。

 全身で不機嫌さを表現しようとした。

 「あなたが僕以外の奴に目を向けると、僕が不機嫌になるって知ってるだろ」

妙にゆったりとした歩調で、台座を降りると女王の背中にくっつくように身を寄せた。

 「他のときならね、今は違うの。大人しくしていなさい」

 ・・・おお!

 僕はもう少しで声を漏らすところだった。

 ビボラ・フェアーテ女王が帝国語を話しているのを聞くことになろうとは。

 皇帝との謁見のときですら、無言を通していたというのに。

 少年は信じられないと言った顔になった。

 「いつだって、僕が一番でなきゃだめだ!」

 我儘な叫び。

 きっと普段ならこういうとき、女王は慌ててこの少年の機嫌を取りに走るのに違いない。

 そういう遊びなのだ。

 なんでも望むままにできる女王の、ちょっとした手慰み。

 だが・・・。

 「今は駄目だと言っているでしょう」

 「あとでひどいぞ」

 「聞き分けよくしないと、ひどいことになるのはあなたよ」

 カチカチと爪を叩いて、ビボラ・フェアーテ女王は少年を冷ややかに見つめた。

 そこに普段とは違う空気を感じ取ったのか、少年はライムジーアに非難の言葉を浴びせた。瞳から涙をあふれさせたせいで、化粧が落ち、顔がまだらになっている。

 「お前のせいだな!」

 突如として、少年の感情をぶつける矛先が変わっていた。

 薄いピンク色のローブを鷲掴みにしたかと思うと、そこから金属製の横笛を取り出して、ライムジーアに殴り掛かる。

 急いで腕を上げて防御しようとしたライムジーアだが、それは意味をなさなかった。

 なぜなら、少年は腕を振り上げた姿のまま硬直し、次の瞬間にはドオーっと倒れてピクリとも動かなくなったからだ。

 「え・・・?」

 ・・・まさか死んだ?

 心臓発作か何かか?

 「・・・説明が省けたわね」

 ギラギラした目つきで、ビボラ・フェアーテ女王は冷たく吐き捨てた。

 「用件の一つがこれよ。正確には、この症状を現す薬の話ね」

 「症状?」

 「興奮すると効果が表れる薬でね。調べてみればわかるけど、息も血も止まっているわ」

 ・・・死んでるってことだよな・・・?

 そう思ったのだが、それでは見たまま過ぎる。

 「・・・仮死状態?」

 死んだように見えるが、実は生きているというのが一番当てはまりそうではある。

 「そういうこと。半日から一日後には何事もなかったかのように息を吹き返すわ」

 ・・・なるほど。

 女王のそばに侍らせていて、なにかの拍子に暴れられても困るから、そういう薬を飲ませてあったのだ。

普段はそうなる前に女王がなだめるが、今回はそうならなかったから倒れた、と。

 でも、その薬と僕とのあいだにどんな関係が?

 「この薬を、とある女性が買っていったって話よ。本当は建国記念祭の前に手に入れたかったようだけど、すぐには用意できないと言って記念祭が終わってから納品したわ」

 「いやな予感しかしないなぁ・・・」

 たとえば、記念祭の式場内、皇帝への挨拶のさなかに硬直して倒れる。

 一見、過度の緊張で心臓の発作に見舞われて倒れ、そのまま息を引き取ったように見えるだろう。棺桶が用意され、納められるが形だけ、どこかのタイミングでなにかと入れ替えられでもすれば半日から一日後に息を吹き返す。

 気が付いたときにはどこかの地下牢に鎖で繋がれているのだ。すでに死んだことになっているのだから、なにをしようとどこからも文句は出ない。

 個人的に僕を痛めつけて遊ぼうと考える人間には是非とも欲しい薬だろう。

 「無味無臭で透明な液体。城に戻るのなら飲み物には気を付けることね」

 「く・・・それがよさそうだね」

 僕の飲み物はたいていシアが用意してくれるから安心だが、百パーセントではない。

 ・・・城に戻りたくない理由がまた一つ増えてしまった。

 「その警告のためにわざわざ?」

 「それが・・・もうひとつあるの」

 悩ましげにまつげを揺らして、フェアーテ女王は小さく息を吐いた。

 そのとき、ライムジーアが入ってきたのとは逆側の金属製らしい扉が音を立てて開き、濡れ羽色の髪をした少女が殺気立った目をして駆け込んできた。

 最初、その少女は16,7歳に見えた。

 でも、着ているのが薄手の飾り気のないシャツでしかなく、腕の周りのフワフワが服の装飾ではなくて自前で靴を履いていないことに気が付くと、ライムジーアは見解を改めた。

 たぶん8歳くらいだ、と。

 腕の周りのフワフワが羽で、しかも灰色っぽかったのだ。

 彼女たちの種族は、成熟すると羽の色が固定して鮮やかになる。

 未成熟なうちは黒っぽい灰色で、成長するに従い純白に近づいていき、完全に成熟すると家系によって白、黒、赤、緑、青のうちのどれかになる。

 まるっきり灰色なのが6歳くらいまで、そこから少しづつ色が落ちていく。

 このまだら具合なら、8歳だろう。

 肌の色は象牙色で、目はすごく深い琥珀色だった。

 靴を履いていない理由は、足もまた鳥の脚だからだ。

 足首から下が。

 鱗のような堅い皮膚に覆われていて、人間でいうところの指――趾――が前に三本、後ろに一本ついている。

 【三前趾足】という形だ。

 指の先には大きな爪が付いている。

 歩くたびにカチカチと音がするのはそのためだ。

 白い色のシャツに腰巻というスタイルなので、この部屋の暗い照明の下では全裸でいるかのように見える。

 ハーピィ族の彼女は腕――翼というべきなのだろうか――手首から先がなく羽が生えている腕を振り回していた。

 何に怒っているのかは知らないが、怒りで爆発寸前であるらしい。

 「どうして私はここに監禁されてなくちゃいけないの?」

 彼女はフェアーテ女王に食ってかかった。

 「監禁した覚えはないのだけど?」

 「外に出しますと、飛んで行こうとしますので・・・」

 女王が首を傾げると、宦官頭のシュッペが汗を拭き拭き弁明した。

 「そういうこと・・・」

 目を細めて、フェアーテ女王がハーピィ族の少女を睨んだ。

 少女がそわそわとし始める。

 「もう一つの用件というのがこれよ」

 ハーピィ族の少女を指差して、ビボラが言う。

 「建国記念祭のとき、荷物に紛れ込んでいたらしいのよ」

 うんざりしている、という空気を全開で放出しながら、女王は経緯を説明し始めた。

 ハーピィ族の代表団の誰かの娘らしいこの少女は、家に帰る以外の道を探してナーガ族の荷物の中にもぐりこみ、ここまで付いてきてしまったのだという。

 荷物を開けて見て、寝ているのを見つけたときには大騒ぎになったらしい。

 無理もない。

 ナーガ族とハーピィ族は、正直に言って仲が良くない。

 犬猿の仲と言っていい。

 スパイだとか、暗殺者だとか喚く部下たちをなだめるのに苦労した、と女王は嘆息した。

 「なので、早々に送り届けたいのだけれど・・・」

 帝国との約定により、『盟友』が帝国内を歩き回るには事前の通告をし、帝国兵の護衛が付くことを受け入れなくてはならない。

 異形である『盟友』が帝国内で迫害や心無い侮辱などを受けないようにするための方策である。

 ・・・という名目のもと、帝国内で何かしでかさないかと監視しするためのものだ。

 しかも・・・。

 「ナーガ族が故意に拉致した、とか思われると厄介だね」

 ナーガ族での騒ぎは、ハーピィ族でも起こりかねない。いや、間違いなく同様の騒ぎになるだろう。

 最悪、送り届けたナーガ族側の使者が、捕らえられるということになるかもしれない。

 面倒な上に不毛で、危険でもある。

 避けたいところだろう。

 「そのとおり。で、困っていたら、そこに連絡が来たわけ。『盟友の友』殿が城を抜け出して、皇妃に追われて逃げ回っている、とね」

 利用しない手はないでしょう?

 言葉にはしないが、深紅の瞳から放たれる視線がそう言っていた。

 ・・・なるほど。

 僕にエスコート役を押し付けようというわけか。

 「報酬とか・・・ある?」

 期待はせず、聞くだけ聞いてみる。

 「わたしを傲慢な女だと思っているようね」

 ギラリ、と蛇の目を向けられた。

 僕はカエルではないので、それだけで恐れ入ったりはしないが、ちょっと引く。

 「最高級の感謝を捧げるわ」

 それ以上の褒美が世界にあるとでも?

 目が、目がそう言っている!

 ・・・まぁ、そんなところだろう。

 「わかったよ。引き受けようじゃないか」

 小さく肩をすくめて、依頼を受けた。

 他に選択肢はない。

 それに、ドリュアド、ナーガ、ときたのだ。

 ハーピィのところも訪ねてみたい気がしないでもない。

 たぶん、というか間違いなく。これら『盟友』の本拠を訪ね歩いた、歩ける、そんな帝国人は後にも先にも、僕ぐらいのものだろうし。

 「そう言ってくれると思ったわよ」

 輝くような微笑とともに、ビボラ・フェアーテ女王は最愛の友に心からの口付けを送った。この幸運に浴した皇子はというと、美女の口付けで窒息死しかけるという、うらやましいんだがうらやましくないんだかわからない体験をする羽目になった。

 ナーガ族の女性の舌は、蛇だけに長い。

 その上とてつもなく器用に動く。

 人間相手では絶対不可能なテクが、これでもかと使われた。

 それだけなら、受け身になっていればいいから楽だっただろうが。残念というべきが、幸運というべきか。

 ビボラ・フェアーテ女王は舌を器用に使って、ライムジーアにも舌を動かすよう強要した。自分を満足させる動きを教え込もうという意思が感じられ。皇子は必死になってその動きを習得せねばならなかった。

蛇らしく執拗で激しい動きに、人間の舌で応えるのは大変だった。

 おかげでキスから解放されたとき、ライムジーアは息も絶え絶えで腰が落ちかけるのをガクガク震える脚で支えねばならなかった。

 「さて、じゃあもう行くよ。仲間がきっとしびれを切らして待っているのでね」

 唇から、慎重に口紅を拭き取り、ライムジーアが言った。

 腰がふらつくのは、力が抜けてしまっているからだ。

 しばらくはまともに歩けそうにない。

 傍らには、ともかく蛇穴からは出られる、と喜んでいるハーピィ族の少女がいる。名前はレルヒエ・アドロンラというそうだ。

 「旅の安全を祈るわ」

 「そうしてくれ」

 こうして、ライムジーア一はビボラ・フェアーテ女王のもとを立ち去ったのだった。



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