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短編集  作者: 朝里 樹
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独り歩きの影

私は、光が無ければ存在できない。一筋も光の差さぬ闇の中では、私はその暗澹たる世界に取り込まれてしまって、何者でもなくなってしまう。

 だから私は暗闇が嫌いだ。だけど影を消し去ってしまうような強い光も嫌いだ。そこにもまた、私の居場所はなくなってしまうから。そんな私は、この世に存在している意味があるのだろうかと思うこともある。だからと言って、私の意志で消え去ることはできないのだけれど。

 私が私としてこの現世うつしよを歩けるのは、仄かな月の光が静かに地を照らすような、そんな曖昧な頃しかない。それでも誰にも語り掛けることも触れることはできはしないけれど、少なくとも人は私のことを見てくれるから、私がこの世にいることを確かめられる。

 私があの人と出会ったのも、そんな月夜のことだった。


短編「独り歩きの影」


 松の枝が伸びる立派な庭、その屋敷と庭とを隔てる縁側に備えられた障子。その人はそれを見つめていたのだろう。ふと彼は声を出した。

「誰かそこにいるのかい?」

 それは私に対する呼びかけだったのだろう。だけれど、私は返事をしなかった。声を掛けられることはよくあった。でも、そう声を出す人が呼び掛けるのは障子の向こうの誰かで、私ではなかったから。

 微かな明りの中に生まれる、曖昧模糊な影としての私に気付いてくれる人はいない。いたとしても化け物と罵られるだけ。

 だから私はただのひとつも言の葉を返すことなく、ただ月と松とを眺めていた。きっとこの人も、あの松の影を人の影と間違えたのだと、そう思うことだろう。

 だけどその人は、障子に近付いてその向こう側の景色を見ようとはせずにもう一度声を出した。

「貴女は、この世の人ではないのかな」

 その言葉に私は初めてその人を見た。目のない私がどこを見ているかなんてその人にはわからなかった筈なのに、彼は私に向かって微笑んだ。

「ものゝけある家には月かげに女のかげ障子などにうつると云。荘子にも罔両と景と問答せし事あり。景は人のかげ也。罔両は景のそばにある微陰なり」

 彼は今の時代には使われていないであろう口調で、そんなことを言った。だけど「かげ」という言葉が私の興味を引いた。私が沈黙したままでいると、変わらない穏やかな口調でその人は続けた。

「貴女は、影女か」

 影女、私は自分の名など考えたことがなかったけれど、影でしか存在できない私に相応しいように思った。主を持たぬただの影、私はそんな妖であり、それだけの存在でしかない。

「貴女は、元は何の影だったのだろう。それとも最初から影としていたのだろうか」

 彼はそんな疑問を投げ掛ける。だが、私はそれに答えを持たない。私はこの屋敷に潜む影であった以前に、己が何であったのか知らないから。

 私もかつては、誰か人が生んだ影だったのだろうか。その主は消え、私は影のみの存在として独り歩きしているのかもしれない。それならば、体を失えど影を残したもう一人の私は、この世にどんな未練があったのだろうか。

 その人は音もなく立ち上がり、そして私の側に立った。右手がそっと障子に触れる。

「貴女は、ここを訪れる誰かを待っているのかもしれないね」

 彼は言った。不意に不思議な懐かしさが込み上げた。

 この屋敷、この部屋で誰かを待ち続けた遠い記憶。ああ、あれは一体誰を待っていたのだったろう。この障子の、縁側の向こうに、誰の影が見えることを望んでいたのだろう。

 影となってしまった私には、それは春の朧の月のような、曖昧な記憶でしかなくなってしまっていた。

「貴女は影だ。もうこの世に朽ちることはない。だから、ゆっくりと思い出して行けば良い」

 私の心を覗いたように、その人はそう私に語り掛けた。

 私が影となってまでもこの世に留まり続けた理由。それは、この人の言うようにいつか知ることができるのだろうか。私が首を傾げると、彼は優しく笑んだ。

「その理由を求め続けることができるなら、貴女はこの現世に存在し続ける意味がある。僕はそう思う」

 彼はそう言葉を残し、そして部屋を去って行った。

 月は沈みかけている。朝が来れば私はいるのかどうかも分からない曖昧な存在になるのだろう。

 でも、彼はそんな私にもこの世にいる意味があると教えてくれた。

 私は骨も肉もない体が満たされるのを感じる。あと幾百、幾千の時が掛かるかは分からないけれど、私が影としてここに残った故を知りたいと、そう思った。

 いつか、私が存在する理由がなくなるその日まで、私は影としてこの世に留まり続けよう。


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