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短編集  作者: 朝里 樹
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赤みがかった月の夜には

 今夜は満月が赤い。数ヶ月に一度、私はこんな月を見ることがある。人に話したこともあるけれど、決まって他の人はあの月は赤くなんてないと答える。

 そして決まってこんな夜には、私はどこかの隙間の中に死んだ姉の姿を見る。


短編「赤みがかった月の夜には」


 姉の現れる隙間は、隙間であればなんでも良かった。本棚に並んだ本と本の間にほんのりと空いた隙間でも、ビルとビルの間の、人が通れないような細い路地でも、食器棚と冷蔵庫の間にできた、指が一本入るぐらいの間隙でも。

 赤みがかった満月が昇る夜には、いつも姉はそんな隙間に現れた。あの日、死んだ十七歳の頃の姿のままで。

 そして今日も月は赤い。仕事の帰りにオフィス街を歩いていた私が満月を見上げると、神々しいとも言えるような赤みを帯びた月が私を見下ろしていた。

 皆既月食のときに稀に現れるブラッドムーンという月があるけれど、丁度あんな感じだろう。

 私は自然に隙間を探す。そしてすぐ横のビルとビルの間、その狭い隙間に姉が立っているのを見つけた。私を見て優しく微笑んでいる。

 私は疲れた体を引き摺るようにして、彼女の側まで歩み寄る。




 姉が死んだのは、私が十五の時だった。原因不明の病で倒れて、そのまま一週間もしないうちに旅立ってしまった。冷たい雨の音が響く日だったことを覚えている。白い布をかぶせられた姉の顔を、私はどうしても見ることができなかった。

 まだ高校二年生で、つい一ヶ月前までは元気だったのに。そんな唐突な死などがあるのだろうかと、私はしばらく信じられなかった。死ぬことは、人にとって全ての終わりなのだろうかと自問した。

 そして、その問いに答えるように姉が私の前に現れるようになったのが、姉が死んでから二度目の満月の夜が巡って来た日だった。

 姉は、本棚と壁の間に出来た隙間から私を見つめていた。もちろん最初は驚いた。だけれども不思議と怖くはなかった。

 姉は生きているときと同じように優しく笑って、私を見つめていた。きっとその顔が、幸せそうだったからだろう。私はとても安心した。

 最後は姉は病に体を蝕まれ、苦しんで苦しんで死んでいった。だからまたこんな風に笑えるようになったのだと、それがただ嬉しかった。

 それから、姉は幾月かに一度、満月の夜に私の元に現れた。決まって赤い満月が昇る夜に。




「もう、私も二五になっちゃったよ」

 私は隙間の中の姉にそう苦笑する。姉はゆっくりと頷いた。「辛かったら、いつでもこっちに来て良いよ」、姉はそう言っていた。

 姉が暮らす隙間の向こうの世界は、皆がとても幸せに暮らしているそうだ。苦しみも痛みもない、そんな理想郷なのだという。

 昔、とても小さなころ、私たち姉妹は二人で隙間を覗いて、あの向こうにはどんな場所が広がっているんだろうと夢想するのが好きだった。あの時語りあった楽しい世界、きっと姉はそこにいるのだ。

 だけど姉は、一度も私をそこに無理矢理連れて行こうとはしなかった。それは私が決めるべきことなのだろう。

「私、疲れちゃった」

 そう姉に零すと、自然に涙が出た。大学を卒業し、就職して三年。最初は人間関係にも恵まれ、毎日仕事が楽しかった。でも今年部署を移ってからは駄目だ。上司には毎日罵倒され、先輩には白い目で見られる。毎日毎日、私は何のために会社に行っているのか分からなくなっている。

 ただ会社と自宅を往復して、心を摩耗して、食事も睡眠も満足にとれずに体を擦り減らしている。こんな思いをしてまで生きねばならぬのかと、そう思うこともたまにある。

「ねえ、そっちの世界は楽しい?」

 私が問うと、隙間の向こうの姉は柔らかに笑み、そして頷いた。そうなのだろう。姉の姿は若い。私はもう、彼女の享年をとっくに追い越してしまった。

 このまま無駄に歳を取り続けるのだろうか。そう思うと何故だかひたすらに恐ろしかった。

「私もそっちの世界でなら、幸せになれるのかな」

 姉は答えなかった。それは行かねば分からないことなのだろう。だけど、地獄みたいなこの世よりは、ずっとましだと確信できる。

「ねえ、連れてってお姉ちゃん」

 私は隙間の姉にそう言った。姉は黙したままに手を伸ばす。その手は隙間を出て、私の前に現れる。

 私はその手を取ろうとして、そしてやはりやめた。どうしてかこんなにもこの世から離れることを望んでいるのに、私の手は姉の手を握ることができなかった。

 姉は分かっていた、というように頷いた。私はいつの間にかぼろぼろと泣いていた。まだこの世で頑張りたい。まだ見返してやりたいやつがいる。まだ話したい人がいる。だから、やっぱり隙間の向こうへは行けないのだろう。私は、まだ何もかも失ったわけではない。そう思って姉を見ると、彼女はまた優しく微笑んで、隙間から伸ばしたその手で私の涙を拭ってくれた。

 十年振りに触れた姉の手は、懐かしいぐらいに暖かった。

 やがて姉の姿が薄れて行く。夜が明けようとしているのだろう。姉はいつものように小さく手を振って、そして見えなくなった。

 月が見えなくなった明け方の街には、もう姉の姿はどこにもなかった。だけどまた、近いうちにきっと会えるだろう。

 私は涙をしっかりと拭き、振り返る。

 いつか胸を張って姉の住む世界に行けるように、まずはもっともっと頑張ってこの世を生きて行こう。そう決意を新たにする。また、姉と心から笑い合えるように、私は夜明けの街を歩き始める。


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