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短編集  作者: 朝里 樹
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死んだ記憶の眠る場所

 電車が長岡京駅を過ぎたとき、私のいる車両には他に誰も乗っていなかった。もう夜も遅い時刻。ただ白く明るい車内の電灯が、窓に映り込む私の姿を克明に映すのみ。

 私はひたすらに黒々と染まった外の景色を席に座って眺めている。先程までは賑やかに、生きている人間たちの存在を主張するように輝いていた町の景色は闇に覆われ、それが私にまたあの場所に向っているのだという実感を与えてくれる。

 人が生きる世界とは時の流れを異にした、あの死んだ記憶たちの眠る場所に。


短編「死んだ記憶の眠る場所」


 やがて電車が音を立てて停車した。私は迷いなく、その廃れた駅に降りた。心地良い冷たさを纏った空気が皮膚を撫で、乾いた砂の感触が薄い靴底を通して伝わって来る。

 駅のホームと連結された木造の駅舎の床は剥き出しのコンクリートで、冷たい木のベンチが申し訳程度に並んでいる。

 そして、この駅の構内に時刻表はない。この場所は人の生きる世界の時間の常識には囚われない場所なのだから、それも当然だ。ただ、すたか駅という駅の名前だけが寂しげに駅舎の壁を飾っている。

 この駅を訪れるのは一体何度目になるのだろうか。四度、いや五度。もしかしたらそれ以上。一度目だけは偶然にこの駅を訪れた。だが、二度目以降は望んでここを訪れた。そして今日もまた、そうだ。

「タマヒメが泣いてるからゆっくりしてきい」

 駅舎の、ただあるばかりで機能していない改札を抜けようとしたとき、いつの間にか駅舎のベンチに座っていた老婆がそう私に告げた。白い和服を着たこの小さな老婆には、ここを訪れる度にこの言葉を告げられているように思う。ただ最初と違うのは私がその言葉の意味を知っているということ。私はただ一度頷き、そして前へと歩みを進める。

 改札を抜け、駅舎を出るとまず見えるのは大きな鳥居。それはこの廃れた世界を切り裂くような鮮やかな赤に塗られ、そして彼岸と此岸の境のように屹立する。そしてその境界の向こうには、この夜に幻のように花を咲かせる一本の枝垂桜の大樹がある。

 私は真っ直ぐにその桜に向かって歩を進めて行く。枝垂桜は、風もないのにその長く伸びた枝を微かに揺らしている。闇夜に浮かび上がる薄紅色の花々は、まるで夜の傷口から流れ出ずる血のようだ。

 私が桜の木に一歩近づくごとに、桜を囲う山々にぽつりぽつりと明かりが灯る。私の来訪を歓迎しているかのように白とも赤とも分からぬ光の群れは、少しずつ増えて行く。

 私はその大樹のすぐ側まで来ると、立ち止まった。辺りからは地の底を震わせるような、奇妙に低い声が響いて来る。ああ、タマヒメが泣いているのだと私は思う。

 あの老婆の言っていたタマヒメとは、この枝垂桜の名を表している。

 玉姫か、珠姫か、初めは私もその名の由来が分からなかった。だが今はそれを知っている。この桜は、人の魂の欠片を糧とし花開く。故に、魂姫なのだと。

 かつてはどこかの村のどこかの人によって祀られていた神なのかもしれない。だけれど人の世界と隔絶されたこの世界では、その記憶も廃れてしまったのであろう。タマヒメはただ、悲しげな泣き声を上げながら花を咲かせ、散らすことしかできない。

 この世界がいつからあるのか、私は知らない。だけれど、きっと線路がこの国に引かれるようになる遥か昔からあるのだろうと思っていた。いつの時代にか鉄道がこの場所に迷い込むようになってしまったのか、それとも時間の概念が人の世とは異なるこの場所では時代の相違などあまり意味はないのか、それは分からないけれど。

 そんな遥かな時を咲き続けている枝垂桜の根元を私はおもむろに素手で掘り始めた。確かに先程まで私の体を支えてくれていた筈の土は柔らかく、まるで綿のように優しく私の掌を包み込む。私は湧き出ずる泉の水を掬うように土を両の手で持ち上げると、横に落とすことを繰り返した。やがて、そこに小さな穴が出来上がる。

 私はそれを見て、そして肩に掛けていた鞄からひとつの本を取り出した。

 それはずっと昔、私の大切な人が私のために書いてくれたひとつの物語だった。だけれどもその人は、この物語を残して私の元からいなくなってしまった。

 だからこれは、あの人との思い出が記憶が沁み込んだ本なのだ。それ故に私の心をいつまでも締め付ける。だから私は、この本をここに埋めることにした。

 この枝垂桜は、人の死んだ記憶を糧とする。いや、人の記憶はここに埋めた時にこそ初めて死ぬのだろう。だから私は、辛い思い出を、悲しい記憶をいつもこの場所に捨てて来た。だけどそれも今夜が最後だ。だって私の胸が、これ以上に痛むことはもうないのだろうから。

 私とあの人とを繋ぐ一冊の本が、柔らかな土に埋もれて行く。やがてその姿が見えなくなったとき、桜の雨が私の頭上から降り注いだ。

 それはまるで大樹の流す涙だった。その薄紅色の雫たちは大地を埋め尽くさんと降り注ぎ、私の埋めた死んだ思い出を覆い隠してくれる。

 この枝垂桜は、タマヒメは、死した想いを糧として美しく咲き誇る。そして花びらの涙を散らすのだ。人々が忘れ去ろうとしてしまう、記憶と言う名の魂の欠片たちの嘆きを知らせようとしているかのように。

 私は立ち上がり、そしてタマヒメの桜に背を向けた。この場所には、私と同じようにここを訪れた人々の記憶の断片が眠り続けている。そしてあのタマヒメの花びらひとつひとつが、誰かの記憶であり、思い出なのだろう。だからタマヒメは泣いているのだ。いつの過去も、いつの未来も。たくさんの悲しみと魂の死とが彼女を満たすから。

 ここはすたか駅。人々の、廃れた過去が眠る場所なのだ。

 私は心に渦巻いていた記憶が消えて行く、どこか寂しい思いを抱きながら再び駅舎へと向かって歩き出した。やがて目の前に現れるのは小さな子供。タマヒメへ神饌を供え終えた人間を元の世界に戻すのが役目なのだと、私はそう考えていた。

 子供は私の手を引き、道を辿って行く。景色は過去を今へと繋げるように、古ぼけ霞んだいつかの時代の様相から、明瞭に色のついた現代の様相へと少しずつ変わって行く。

 それは過去から今に至るまで、あのタマヒメへと捧げられて来た記憶が形作るものなのかもしれない。そして私は、いつの間にか見知った長岡天神駅に着いていた。

 その頃にはもう、私はあの場所に何を埋めて来たのか、何の記憶を殺してしまったのか、それを思い出せなくなっている。だがあの枝垂桜の根の下に何かを埋め、記憶を殺し、廃れさせてしまったのだという、曖昧な記憶だけがぼんやりと頭に残る。

 私は後ろを振り返った。当然そこにはもう、ここへ戻って来るために辿った景色の残滓はない。だがタマヒメと呼ばれたあの枝垂桜が、今もあの場所でその花を咲かせ、散らしていることだけは分かっていた。

 あの世界では、いつでも花咲く春の記憶が巡るのだ。人々が心のうちに抱いた、桜色の景色が。それを生み出しているのが人々が殺した過去の想いであったとしても。いや、だからこそ、人々はその美しい景色の中に己の心の一部を殺し、埋めて眠らせようと思うのかもしれない。せめてもの弔いのために。

 そして人の世も今は春。この世の季節は移ろい行くものだけれど、それはこの世に未来が存在する証なのかもしれない。

 私は死んだ私の記憶の欠片に一抹の寂しさを覚えながら、また人の世界の日常に埋没するように、どこからか春風に運ばれて来た桜の香りに微笑んだ。



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