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古の従者の再誕  作者: nanodoramu
一章 月氷華《げっひょうか》
6/13

五話 流転

 



 そこは本来、彼らの狩場であった。


 見渡すかぎりの雪原。

 

 深々と降りしきる雪は、彼らの足音を消し、気配を消し、得物の視覚からさえ彼らの姿を消しさった。


 俊敏な動きに、三日三晩走れるという持久力。

 強靭な爪、鋭い牙。


 その性能は持久戦に特化し、確実に獲物を弱らせ、群れで獲物を確実に刈り取る。

 恐ろしき雪中の狩人と呼ばれる白鬣狼(ホワイトメーンウルフ)


 森中で彼らを見たら、無傷で逃げおおせるなど不可能と言われる程の魔物。


 だというのに、それは彼らを殺していく。

 

 黒い服に、黒い髪に、黒い双眸。

 剣までも黒く、その全ては禍々しい。


 まるで機械のように、冷静に淡々と。

 寸分の狂いもなく、作業のように、こなしていく。


 一振りで、三匹が消し飛んだ。


 風圧で、雪が舞い上がる。


 大地が砕け、大気が震えた。


 白く染まった視界のなか、黒い男はまた剣を振るう。


 男の剣が振るわれる度、世界に赤が舞う。


 まるで白い画用紙に垂らす絵の具のように、赤色が増えていく。


 さしずめ男は画家だろう。


 綺麗な画用紙に、無作為に赤を塗りたくる。


 本来、作品とは呼べないようなそれは、けれども、一種の芸術のように見えたのだ。


 だから彼は見惚れていたのだ。


 付ける絵の具が全て無くなってから、見惚れていた事実に彼は初めて気がついた。

 そうして彼は、我に帰る。


 我に帰って、慄き、悲しみ、そこから去った。


 




 ***





 最後の白鬣狼(ホワイトメーンウルフ)を仕留めたラデルは、去っていく気配に顔を顰めた。


 多分、白鬣狼(ホワイトメーンウルフ)を仕掛けた首謀者である。

 そして能力を見る限り相手は教皇(ホープ)派の聖騎士(パラディン)で間違いないだろう。

 魔物を使役するのは、ラデルの知識上、一部の聖騎士(パラディン)しか出来ないはずであるのだ。


 本来なら捕まえるなり、殺すなり必要性があるのだが。

 しかし、今追いかけるわけには行かなかった。

 白鬣狼(ホワイトメーンウルフ)の数は五十を超えた。

 予想よりも遥かに多く、掃討には時間がかかった。


 これだけの数の白鬣狼(ホワイトメーンウルフ)を使役できる相手だ。

 既に馬車が襲われてても可笑しくはない。

 自身の判断が甘かった事に歯噛みする。


 キートがいれば大丈夫だとは思いはするものの、それでもやはり心配ではあるのが現状だ。

 

 ラデルは剣をしまうと、森に向かい駆けていく。


 車輪の軌跡をたどり、ひた走る。


 数分もせずに、見つけるのは馬車の残骸。


 その影に隠れる、同乗者の少年少女の姿。


 ラデルは安堵した。





***

 




 はじめに見えたのは、暗い海だった。

 それを高い所から見つめていた。


 次に見えたのは、見たこと無い女の顔。

 見たことがないのに、何処か懐かしかった。

 赤い瞳に赤い髪。

 凛々しいと称するのが相応しい。

 

 けれども、本来凛々しいその顔は、悔しさで滲んでいた。


 女は、すまない、と呟いた。

 

 何を謝っているのかはわからない。

 けれども、余りにも辛そうだったから、こちらまで辛い気持ちになった。


 女はまた、すまない、と呟いた。


 ――だから、こちらまで辛くなるから。


「謝るんじゃねーよ!」


 叫び、ルヴィスは眼を覚ます。


 目前には、すまないと、呟くその女の顔。


 驚愕し、目をむいた。

 けれども、それは違っていた。

 その女の顔が薄れて現れたのは、シャルロットの顔だった。


 辺りを見回せば、そこは何処かの室内で、暖炉には薪がくべられ火が揺れていた。

 ルヴィスはベットの上に居た。

 シャルロットはベットの横に椅子をおいて、座りながら船を漕いでいた。


「シャル?」

 

 声を掛け、目前でゆっくりと手を振った。


「あ……」


 ルヴィスの言葉に眼が覚めたのか、シャルロットは瞬きをすると軽く欠伸をした。


「ごめんね、眠ってた……」


 憔悴した表情で、シャルロットは謝罪する。


「……別に謝らなくてもいい、それよりここどこだ」


 言いながらルヴィスは体を起こす、同時に足が痛み、血の気の引く感覚、僅かにフラつき、倒れこんだ。


「まだ、無理しないで。止血はできたけど、傷が治ったわけじゃないからね……」


 シャルロットは心配そうにルヴィスを見つめた。


「ああ、そうか……」


 思い出すのは、白鬣狼(ホワイトメーンウルフ)に噛み付かれたその事実。

 毛布をめくり足を見れば、手当てがされているのか、服は千切れ、ぼろぼろだが怪我の痕はなく綺麗な肌が覗いていた。


「怪我ねーけど……?」


「表面はね……、中身はまだぼろぼろ、あんまり動くと内出血するから動かないで」


 驚くルヴィス、確かに痛みはるが、見た目は完全に治っている。

 何をしたらこうなるのだろうかと疑問に思う。


「魔法? シャル男だっけ?」


 ふと頭を過るのは、女が魔法を使えないという事実。


「違うよ! これは聖騎士(パラディン)の奇跡の一つなの!」


 若干不満気なシャルロットを尻目に、ルヴィスは便利な奇跡があったもんだと思っていた。


「で、ここは何処だ?」


「……ここは、霰の渓谷だよ」


 シャルロットからでた答えは思いもよらぬ答だった。


「へ? 目的地の?」


「うん、そう」


 随分あっさりついたなとルヴィスは思う。

 けれども昨日の白鬣狼(ホワイトメーンウルフ)を思い出し、そんな事もないかと苦笑した。


「ルヴィス君は丸一日寝てたの……」


 ルヴィスはその言葉に驚愕する。


「まじか……あれから、どうなったんだ?」


「ルヴィス君を治療してたら、ラデルさんもキート……さんも、戻ってきて馬車を修復してそのまま、渓谷まで来たの」


「そうか……」


 その言葉にルヴィスは安心し、大きく息を吐き出した。


「お腹すいてない? 林檎剥こうか?」


 林檎と聞いてルヴィスの腹から小さな音がなった。


「頼む」


 シャルロットはくすくすと笑うと、器用に林檎を剥き出した。

 少しの間林檎を剥く音だけが、部屋に響く。


 ルヴィスはゆっくりとベットに腰掛ける。

 まだ若干、体はだるいが眠気はない。


「はい、剥けたよ、アーン」


 ルヴィスはシャルロットが無造作に差し出してくる林檎をそのまま口で受け取った。


 咀嚼音が響き、喉を鳴らし飲み込んだ。


「次くれ……」


 ルヴィスは言うが、シャルロットは動かない。


「どうした?」


 見れば湯気が出そうな程に顔を赤く染めて、固まっているシャルロット。

 ルヴィスを見て、再起動。

 

「な、な、なんで……普通恥ずかしがらない?」


「何をだ?」


「だって、アーンて……恋人見たいじゃ……恥ずかしがってるとこ見ようとしたのに」


 後半は本当に小さな声だった。

 けれども、ルヴィスは気にしたふうもなく、淡々と訳を答えた。

 

「俺は病気の母さんによく同じふうに食べさせるけど、それを恥ずかしい事だとは思わない」


 其の言葉に、シャルロットの赤い顔が一気に素面に戻る。

 そして間をおき、今度は青くなった。


「ごめんね、私ふざけてた……」


「別にいい、俺は怪我人だから、病人と同じでいいと思う」


 ルヴィスの言葉にシャルロットは沈み込むな表情になった。

 それでもなんとか会話を続けようとしたのか、問いかけた。


「お母さん、病気なんだ……」


「ああ……色んな治癒師や医者に見せたけど治らなかった……」


 沈んだ調子で、説明するルヴィスに、シャルロットは泡を食う。


「そうなんだ、じゃあ、なんでルヴィス君は、こんな所に居るの? お母さんのそばに居なくてもいいの?」


 それは当然の疑問だろう。

 ルヴィスのそれが正しいならば、それはある種不治の病だ。

 普通ならば、死を分かつまで母のそばに寄り添いたいと思うだろう。


「……月氷華(げっひょうか)って知ってるか?」


「国が管理してる最上級の万能薬じゃない……」


 勿論シャルロットとて、聞いたことくらいはあるのだろう。

 有名な話である。


「霰の渓谷に生えてるんだ」


 その言葉だけでシャルロットは悟ったのだろう。

 ルヴィスが何のためにここまで、来たのかを。


 驚愕したような表情になり、手が震え、持っていた林檎を落としてしまう。


「渓谷に入るつもりなの……?」


「……ああ」


「そんな無理だよ、怪我してるし! 渓谷は不死族(アンデット)だらけだし! 危ないよ!」


 必死にルヴィスを止めようとするシャルロット。

 当然だろう。

 何の力も持たない子供が霰の渓谷に行くなど、自ら死ににいくようなものである。


 けれども、ルヴィスは首を振る。


「俺は母さんのためにここまで来た。皆には悪いが俺は渓谷に行く」


 ルヴィスはそう宣言した。

 

「誰かに迷惑かけるつもりはない……、シャル達とここまで来たのも偶然、都合が良かっただけだ」


 淡々と言い放つその言葉。

 けれども、シャルロットは納得が行かなかったのか、不満気に頬をふくらませた。


「……私の事。守ってくれるって言ったじゃない」


 不満気に吐出されたシャルロットのその言葉に、ルヴィスは逡巡し、決まりの悪い顔をした。


「そうだったな……」


 ルヴィスのその言葉を聞いて、シャルロットはまだルヴィスがまだ迷っていると感じ取ったのか、なんとか止めようと考えた。

 けれども、その考えはあっけなく打ち砕かれた。


「ごめんな」


 その一言。

 ルヴィスはシャルロットに視線を合わせて、謝った。

 たった一言だというに、それはシャルロットの心に響いたのか、シャルロットの瞳には涙が溢れた。


「……やめてよね、そんな素直に謝られたら、何も言えなくなるじゃない」


 その真剣さにシャルロットは打ちひしがれたのか、頬を膨らませる。、

 涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。


「ごめんな……、だけど俺行かなきゃ」


 もう一度謝るとルヴィスは、一人扉をあけて、渓谷へと歩きだす。


「あっ……」

 

 引きとめようとしたのか、シャルロットは手を伸ばす。


 けれども、母を救うために命を掛けようとするルヴィス。

 本当なら、そんな事は止めて欲しいとシャルロットは言いたかった。

 命を捨てるだけだと言いたかった。


 けれども、シャルロットにはそれが言えなかった。


 母を救いたい、シャルロットにもその気持は痛い程理解できるのだ。

なぜなら彼女が聖騎士(パラディン)になった理由も家族のためだったのだから。

 同じ思いを抱くものをどうして止める事ができるだろうか。


 故にルヴィスに伸びようとした手は、行く先を失い空を切った。

 


 




***





 

「こノばかやろうが!」


 声が響く。


「申し訳ありません……」


 頭を垂れるのは、壮年の男。

 悲痛な表情をして、ひたすらに俯いている。


「申し訳ありません……で許されると思うナ! 謝ればいいってもんじゃネーンだよ!」


 甲高い声をあげて、叫ぶのは白い鎧をつけた男装の麗人。

 何処か訛りのある発声で、その長い銀の髪を腰まで流し、一つにまとている。

 眼は赤く、その腰には銀細剣(レイピア)をかけていた。

 

「お前さー? わかってる? わかっててやってるノ?」


「申し訳ありません……」


「だから謝るなっつたろぅ? その耳は飾りかぁ? アァ?」


「……」


 沈黙。

 謝ることすら許されないのであれば、男に残された選択肢はそれだけだった。

 ひたすらにただ耐える。


「たくょう? 俺がせっかくアリシアちゃんから借りてきた、白鬣狼(ホワイトメーンウルフ)全部殺しといて、相手ニはニげられました? おい、ナめてんノ?」


「…………」


「死ニ神を足止めして、反射を足止めして? 生命の巫女を捕まるどころか殺せもしない。 どうして、何もせずニすごすごと帰ってきてんノぉ? おぃ、聞いてんノぅ?」


 麗人は、頭を垂れる男の頭に足を乗せた。


「……」


 けれども男は沈黙を貫いた。


「カイエナ様! ご報告です!」


 その時、白い服を来た男が走ってくる。


「何だ!」


「馬車は渓谷入り口に到達。結界式の準備に入りました」


「わかった、追って指示をだす。さがれ」


「はっ」


 白い服を着た男は、敬礼をすると去っていく。


「ああーもう、だりぃナぁ! お前がニがすから、渓谷までいかれちまったじゃネーかよ!」


「……申し訳「黙れ」……」


 再び男が口を開こうにも、カイエナはその機会すら奪い去る。


「渓谷の入り口ニは常備兵が二十は居るんだぞ! それニ加えて死ニ神と反射と命の巫女。攻撃防御回復そろった最強編成ってかぁ! ざけんな!」


 カイエナは顔を抑えると、今度は急に酷薄な笑みを浮かべた。


「結界式かァ……襲うしかネェなぁ?」


 その言葉に男は驚愕した。


「お止めください、渓谷の結界が解かれれば無為の民が犠牲になります!」


「おう、おう、ご高説、ありがとン」


 カイエナは冷笑する。


「だけどさ……お前ノせいじゃン?」


 そう言うとカイエナは男を蹴り飛ばす。


 雪の上を数度、転がり男は止まる。

 内蔵を痛めたのか、口から軽く吐血した。


「何を……」


 カイエナは腰から細剣(レイピア)を引き抜くと、その切っ先を男の首に添えた。

 そして語りだす。 


「職務を失敗したお前を優しい優しいカイエナ様がかばってしまう。するとお前はカイエナ様が止めるも、気が収まらなくて、カイエナ様のためニ勝手ニ結界式を襲撃、結界を解いちまう……お前は無為の民に被害がいく責任をとって自害。感動あふれる話だろう?」


 素晴らしいとばかりに語るカイエナ。

 狂気としか思えない、その思考に男は身震いし、そして怒った。


「巫山戯るっ……な?」


 男は最後まで言い切る事ができなかった。

 なぜなら、男の首は落ちていたからだ。


「汚えもン、ぶち撒けやがって。俺の愛剣を汚すんじゃネーよ」


 カイエナは、それを見るとまるで汚物でも見るがごとく、その顔を醜悪に歪めた。


 彼女の名は、カイエナ・レオンハルト。

 十字教教皇(ホープ)派。

 十字教第三階位。

 三人居る大司教(アークビショップ)が一人。


 信託の聖人と呼ばれる。

 古き聖騎士(パラディン)である。

 







***





 ルヴィスが部屋を出るとそこは、岩で出来た、剥き出しの廊下だった。

 部屋の反対方向には何もなく、下を覗けば、そこには凍った川が見えた。


 そこは既に渓谷の内部だった。

 とはいえ、入ってすぐの場所なのでだろう渓谷の出口らしき場所はすぐ見える。

 そして、下では大勢……二十人程の人数で何かをやっていた。

 

 おそらく結界式の準備なのだろう。

 筒のような者を設置している。


 下を覗いているとルヴィスとラデルと眼があった。


 手を振られたのでルヴィスは振り返す。

 そしたらラデルは手招きをした。


 ルヴィスは階段をみつけ、ゆっくりと降りていく。

 すると階段下にはすでにラデルが待ち構えていた。


「……起きた……元気……?」


「ああ、大丈夫だ」


「……シャルロット……助けた……礼……言う……」


「お互い様だ、俺は行く所があるから、それじゃな」


 そう言ってルヴィスは笑う。


 そして無造作に足を渓谷へと向けた。

 ルヴィスの向かう方向に、違和感を感じ取ったのか、がラデルが問いかける。


「……何処……行く……?」


「……冒険?」


 ルヴィスの視線が向かう先は渓谷が奥。

 ラデルはルヴィスの視線を辿る。

 そして、何処へ行くのか理解したのだろう。


「……渓谷……ルヴィス……危ない……」


「大丈夫だ、問題ない」


 ラデルが警告するが、ルヴィスは自信があると言わんばかりに鼻を鳴らした。 


「……少し……待つ……」


「あ、おい」


 ラデルはそういうと、すたすたと何処かへ行ってしまう。


 けれども、すぐに戻ってきて、その手にはルヴィスの荷物を持っていた。


「……これ……」


「あ、荷物。ありがとうな忘れてた」


 ルヴィスは荷物を受け取り腰のベルトに短剣を指す。

 聖水だけとりだし、ポケットに入れ、他は背負った。


「行ってくる、じゃあな」


 そんな軽い感じで、まるで散歩に行くような足取りでルヴィスは渓谷へと足を進めた。




 凍った川の上を進む。

 しばらく歩くと、ふと、空気が変わる。


 ルヴィスには何だかわからなかった。

 それは、空気が変わったとしか、形容できない感覚であった。


 事実そこは、結界の境であった。

 これより、先は不死族(アンデット)の出没する地域である。


 とはいえ、空気の変容を感じ取ったルヴィスは、なんとなくそれを理解した。

 故に聖水を一つあけると自身に振りかける。


 瞬間、蒸発。


 水蒸気がキラキラと光り、ルヴィスを包む。

 ルヴィスの回りに一瞬、白い膜が浮かび上がる。

 そして、見えなくなった。


「これで不死族(アンデット)が寄ってこないはず……」


 一つの効果は約六時間。

 聖水の残りは九つ、計六十時間は寄ってこないはずである。


 時間に余裕はある。


 けれども、体力や食料は別の話である。


 ルヴィスの荷物には精々二日分しか食料はない。


 善は急げとばかりに、クリスは早足で渓谷を進んでいく。


 騎士の話しが正しければ、場所は大きな道に沿った、何処かから光が確認できるはずである。

 

 ルヴィスは只管に道を行く。


 休憩をはさみ、少しづつ渓谷を進んでいく。


 すると、どうだろう、段々と足場が泥濘んできた。

 地熱のせいだ。

 あちらこちらから、湯気のような物も上がっている。


 気づけば川の氷も溶けている。


 けれども、逆に晴れてていた天気は曇り。


 (あられ)がポツポツと降りだした。


 霰は小さく地面にあたり、すぐに溶ける。

 地面を水浸しにし、次の霰が衝撃でぬかるみをかき回す。

 

 しかし、地面から離れた位置にあるものは凍りつき、本来の寒さもあって降り積もる。

 そして、ある程度積もると重みによってくずれで地面と交じり合う。


 そこに出来上がるのは、泥濘(ぬかる)みと薄氷の、滑走路。


 足を取られ、滑り、転び、勢いのまま、地に伏せる。

 そのまま、水が服に染み込み、大気の温度で凍りつく。

 最低最悪の場所である。


 まさに地獄といっても過言ではない。


 泥濘んだ道が現れて、はじめてそこは霰の渓谷と呼べるのだ。


 ルヴィスも、初めてそこで霰の渓谷というものを実感した。


 そう、コケたのだ。


 それも盛大に。


 泥濘んだ足場は、白鬣狼(ホワイトメーンウルフ)によって、足に傷を負ったルヴィスには非常にきつかった。


 一歩踏み出した瞬間ルヴィスは泥濘みに足を取られた。


 泥濘みは思った以上に深いのだ。


 ルヴィスが踏み込む足の感覚に違和感を覚えた時には遅かった。


 体は前に倒れこみ、あっという間に泥だらけ。


 水気を多く含む泥が体にへばりつき、体の動きが鈍くなる。

  

 抜けだそうと、全力で泥をかき分ける。


 それがまずかった。


 なんとか抜けだした時には、勢い余って川へ転がり落ちたのだ。


「ぶはっ……」


 泥と水しぶきが飛び散り、服は水を吸い込み重さを増す。

 川の速度は決して早いものではない。


 地熱のせいか、そこまで水が冷たくないのは幸いだが、けれども、足に怪我を負ったルヴィスにはそれでもきつかった。


 岩に打つかり、川底に打つかり、流れていく。

 視界は反転し、暗闇をもがく。

 上下すらも覚束ない。


 半ば混乱しながらも必死に水面を目指すが、何かに打つかり、意識がとびかける。


 荷物があったのが幸いだった。

 ルヴィスの荷物は背負い袋だ。

 材質は皮でできている。

 背負い袋の中の空気のお陰で幾ら荷物が水面に向かっていく。

 拙い浮力がだが、無いよりはマシだった。

 ルヴィスの体が小さいことも幸いし、いくらか浮き上がることができた。


 ルヴィスはなんとか水面に顔をだし、やっとの事で呼吸する。


 けれども、次いで頭部に衝撃。

 再び、水面下へと体が沈む。


 直後ルヴィスを襲うのは浮遊感。

 同時に僅かな空気がルヴィスの体に触れる。


 滝から投げ落とされた。


 勢いの付いたルヴィスは半ば水切りのように水面を飛び跳ねた。


 気づけば何処かに打ち上げられていた。


「うぇっ、べっ……」


 衝撃で、ルヴィスは口から水を吐き出した。

 水中で回転したせいか、立ち上がる事も困難だ。


 ルヴィスはのたうちながら嘔吐を繰り返した。


 荒い呼吸に痙攣。


 ルヴィスがまともに呼吸をできるようになるまでには大分時間がかかった。

 むしろ生きていたのが不思議なくらいである。


 吐き気で、混濁していたルヴィスの意識。

 苦しみながら、胃の内容物を、ほとんど水であるが、まき散らし、そのおかげで気分は少しだけまともになった。

 打ち付けた体の痛みが、ルヴィスの感覚を刺激し、徐々に覚醒していった。


 しかし、ルヴィスの意識がはっきりしたのは、川に落ちてから既に半日以上が経過した後だった。


 辺りを見回した時がそこは暗闇だった。

 苦しみのたうちまわり、ルヴィスは理解していなかったが、そこは霰の渓谷の地下である。


「はぁはぁ……」


 呼吸を整えて、辺り見回すと薄っすらと光る、エメラルドグリーンの光。

 光量は極めて少ないが、それでも今のルヴィスには有りがたかった。

 

 仄かで、けれども、幻想的で温かい光だった。


 光を発しているのは、湖。


 ルヴィスの目前に広がる巨大な地底湖だった。

 

 そう、ルヴィスは川に流され霰の渓谷にある地下空間、地底湖にまで流されたのである。


「……綺麗だ」


 ルヴィスの口からでたのは純粋な感想。


 暗い空間はどこまでも続き。

 湖の水はどこまでも透き通る。

 光を発しているのは、湖全体。


 痛みやら、苦しみやら、色んな物を置き去りにしてルヴィスが呆ける程に、そこは美しかった。


 どれくらい見入っていたのだろう、気づけばルヴィスは空腹を感じていた。

 辛うじて、手放さなかった背負い袋。


 中身を確認して落胆する。


 殆どのものが濡れ、使いものにならない状況だ。

 保存食である、干し肉は全てふやけてていて、瓶詰めの酢漬け野菜は瓶が砕けていた。

 砕けた瓶の破片も相まってとても食べられるものはない。


 折角仕入れた聖水も残り九つのうち六つがダメになっていた。

 光玉はも煙玉も全て割れている。

 炎玉に関しては、よく暴発しなかったと、今更ながらに驚いた。

 けれども、よく見れば炎玉だけ、導火線が存在した。

 着火式であった。


 ルヴィスは使えなくなったものを捨てていき、極端に小さくなった背負い袋をみて落胆した。


 腹が減ったというのに食うものもなく、自分の居場所も不明である。

 聞こえるのは水の流れる音と風の音。

 

 風が吹いているのだから、何処か外にはつながっているのだろう。

 

 湖を除けば、進める道は砂利と岩で出来た洞窟だ。


「へぷしっ」


 くしゃみをして、服が濡れている事を今更ながら思い出す。


「……寒い」


 いくら地熱があろうと、ここは寒冷地隊の雪山である。


 地下であることも相まって気温が下がり過ぎることはない。


 けれども、その気温。

 体の小さな子どもであるルヴィスにはとてもじゃないが長く耐えられるものではない。

 

 ならば、それは必然だった。


 ルヴィスは発熱する。

 そして、再びは意識は混濁していく。


 ルヴィスの意識が混濁するさなか、暗闇の先の洞窟でふと何かが動く。


 砂利を踏みしめる音。

 足音が静かに木霊する。


 段々と、足音はルヴィスに近づいた。


 だが、ルヴィスがそれの主を確認する前に、ルヴィスの瞼は下がってしまう。

 

 ルヴィスが意識を失う前に聞いたのは、擦れたような鈍い金属音だった。

 

 


 


 

 

 


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