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疫病神

「どこを見上げているのですか?」

 瞳は虚ろだった。その淀んだ瞳は見覚えがあった。しかし私は、どこで見たのか思い出せなかった。

「さあ……」

 少女の言葉は軽かった。軽い、というよりも、何もない言葉だった。言葉の意の無い、ただの音だった。

 少女はただの一度もこちらを見なかった。

 無為の間は息苦しかった。しかし、どこか心地よくもあった。

「空は青いですね。雲の一つもない良い空だ」

 静けさを物語るように青は広がっていた。その輝く青が、眠っていた記憶を呼び起こした。

 彼女の瞳は青かった。

「貴女は、あの時の」

 少女はこちらを振り向いた。瞳を大きく開けて、顔は窶れていた。

「貴方は、あの時の」

 彼女もまた、この世のものとはおもえないといった驚き様をしていた。しかし不思議と不快感は覚えなかった。

 彼女の瞳をまじまじと見ていると、不意にお腹が鳴った。何もない更地の中庭に、寂しく響いた。お互いに顔を見合い、瞳を見合った時、彼女は笑った。私も笑った。

「すいません。お腹が空いていまして」

「実は私もです」

「今日は食事がこんのですよ。一体どうしてでしょうか」

「今日は元日ですよ。宮内総出で慰安に行ったのではありませんか」

「元日?」

「え?」

 それは沈黙だった。世界を知らぬ私にはそれ以上話を続けることができなかった。

 私は少女に疑いの眼を向けられることを恐れた。彼女の顔がみるみる内に険しくなり、冷たい眼で見られることを恐れた。拒絶されることを恐れた。

 彼女は笑った。それは見下したような笑いではなかった。本当におかしくて笑っているように見えた。

「おかしな人」

 たった一言だけ言った。その笑顔は、柔らかかった。

「不信には思わないのですか?」

 私の頭はその疑問でいっぱいになった。私ならきっと疑心にあふれるだろうから。

「詮無きことです。貴方は、良い人ですから」

「良い人……私が?」

「なんとなくそう思ったのです」

「そんな安易に信用していると、きっと大変なことになりますよ」

「大変なこととは?」

「そうですね、私が貴女を襲ってしまうとか」

「まあ、それは大変ですわ」

 少女の笑顔は潰えなかった。

 この少女と一緒にいると、全てを忘れられる。嫌なことを全て忘れられる。そして至福だけが残る。精神的に逼迫した数日を過ごしてきた私の癒やしの時だった。

 その時はあっけなく終わってしまった。

「姫さま。ご用意が出来ました。こちらへ」

 老齢のメイドだった。老齢のメイドは私達の元へ来て、姫さまと呼んだ少女の手を引っ張った。敬称で呼ぶ者を雑に扱うものだから、少々驚かされた。

 少女の瞳は虚ろになった。

 老齢のメイドを見てからか、声を聞いてからか、はたまた腕を引っ張られた時からかはわからぬが、瞬く間に瞳は濁り、顔は窶れ、影を背負った。

 私はたまらず、少女の腕を掴んだ。

 なぜかは分からない。同情したのかもしれない。しかし、彼女を引き止めたからといってなにをするでもない。私は無力だった。

「なにをするのです。貴方は何処の者か」

 強い攻撃的な口調は、老齢のメイドの強さの現れなのかもしれない。メイドには威厳があった。その言葉は強く、私を一瞬ひるませた。それでも私は引かずに言った。

「そんな乱暴に、人を物みたいに扱わないでくださいよ。酷いじゃないですか」

「貴方には関係のないことです。はやくその汚らしい手を離しなさい」

「離しますから、あなたもそんなに強く握らないであげてくださいよ。痛がっているじゃないですか」

 老齢のメイドはまた乱暴に手を離して、一言だげ「申し訳ございませんでした」と言って、少女に一礼した。謝罪の意思はまるで感じられない、ついぞ使用人とは思えない傲慢不遜な態度であった。

 少女はなにも語らなかった。うつむいたままであった。強く握られて、赤く痕に残っている腕を手で抑えるだけだった。

 突然、回廊から靴の小高い音が物々しく聞こえてきた。音の聞こえた回廊に目をやると、若紳士が走っていた。誰かを探しているようであった。私に気が付くと、足はそのままこちらに向けられた。私の前に馳せると、自身の膝にもたれ、切らした息を吸った。そして息を混じらせて、苦しそうに私に言った。

「探しました。勝手に出歩かれると困りますので、お部屋にお戻りください」

 私はただ「わかりました」と一言、言った。

 少女はこちらを見てくれなかった。

 私は彼女を見ていた。

 老齢のメイドが歩き出すと、後を追って歩いた。その後ろ姿は、あまりにも辛そうで、見るに耐えなかった。

 私は歯を食いしばった。無力な己の悔しさから、唾液を噛みしめることしかできなかった。そんな己を情けなくも思って、更に食いしばった。無意識のうちに拳を握り込んでもいた。強く握りすぎて、手を開けぬほどに、握り込んでいた。

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