夢から醒めた夢
目を開けて最初に見たものは、見慣れぬ天井であった。白塗りの変哲もない天井であったが、素人目から見ても良いものであることは分かった。
次に、起き上がって辺りを見渡した。一品一品が細部に細かく彫刻された、どれも高そうなものばかりだった。自分が寝かされていたベットも、高価なものであろうことは、その上に居たのでなんとなく分かった。とても場違いなところに居るという事だけが分かった。
自分がここにいる理由が皆目だった。
必死に過去を振り返ってみた。そして、幼馴染と喧嘩別れをしたことを思い出した。芋づるに押し入れに吸い込まれたこと、お城の塔の先端に串刺しになったことを思い出した。頭をよぎったその瞬間が、酷く恐怖を与えた。そして突き刺さったお腹を見た。だがそこには刺さった痕跡などはなかった。傷跡も、何もかもがなかった。その時初めて、身にまとっている服が、自分のものでないことに気がついた。
私は立って歩こうとしたが、とても気分が悪かった。頭が左右に揺れて安定しなかった。倒れそうになると足を踏ん張ってなんとか持ちこたえる。それを繰り返していた。しかし、右へ倒れそうになると左足を、左に倒れそうになると右足を支えにするので、さながら千鳥のような歩き方になってしまった。
扉の前へ辿り着くと、ひとりでに開いた扉が私のおでこへぶつかった。たまらずおでこに手を当てた。目の前に居たのは若い紳士だった。紳士は驚いていた。しかしそれは、人が不意に現れた際に見せる類の表情ではなかった。まるで、信じられないものを見たような、恐怖を纏った類の驚き様であった。それを見た私の方が、余程人間らしい驚き様であったことだろう。少々不快感を持った私は、しかめ面をしてその若い紳士に質問した。
「貴方が助けてくれたのですか?」
「い、いえ」
「私は、なにがなんだかわからなくて……ここが何処なのかも分からないのです。いろいろと詳しくお聞かせ願いたいのですが」
「少々お待ちを。今、医者を連れてきますので」
若い紳士は足早に去っていった。一言一言が怯えているようであった。私を助けてくれたのは、彼ではないのか?
ベッドの上に横たわり、少し状況を整理してみた。まず、私は上空から落ちた。落下時間から、かなり高度の高い場所から落ちたに違いない。そして塔の先端に串刺しになった。正直言って、死を覚悟した。生きていることが不思議な筈なのに、そんな気は微塵も湧かない。生きていることが当たり前、と思っている。そんな自分自身がとても不思議に思えた。
そして肝心なのが、この豪華な洋室だ。押し入れに吸い込まれるという怪奇な現象から察するに、異世界、ということになるのだろうが、いかんせん信じられない。だが、落下中に見た景色は、明らかに日本のモノではない。
「夢、かも知れない。そうだ、そうに違いない」
その一つの発想のお陰で、合点が繋がった。そうだ、これは夢だ。こんな事を即座に思い浮かべられないのが何よりの証拠だ。幼馴染と喧嘩別れするところから全てが夢に違いない。プレゼントを渡すことを忘れまいと云う忠告なのだ。そしてこの状況は、ゲームのやりすぎで頭がおかしくなったのだ。そうに違いない。私は夢から覚める方法を模索することにした。
はじめに、心の中で何度も覚めろと念じた。しかし、小鳥の囀る音が虚しく流れただけだった。次に、頬をつねることにした。しかし、赤く腫れ、痛みが残っただけで徒労に終わった。そうなると、本当に夢であるか疑った。なぜ目を覚まさないのか、なぜ天井に蛍光灯はぶら下がってはいないのか。私の見慣れた天井は、なぜ無いのか。
扉が叩かれた。指の関節で叩いた小高い音が私の注意を引いた。扉が開くと、豪華な西洋服を着飾った、ごま塩のような髪色をした中年の紳士が入ってきた。私の知ってる医者のように真っ白な白衣をまとっているわけでも、聴診器を持っているわけでもなかった。到底医者には見えないが、若紳士はお医者さまと呼ぶ者だから、医者なのだろうと思うことにした。若紳士は椅子を持ってきて、私の寝ているベッドの横に置いた。その椅子に医者は座り、私に幾つかの質問をした。
「傷の具合はどうかね」
「ええ、大丈夫みたいです」
医者は服を脱がせ、私の腹部を凝視した。目を見開いてましまじとみる様は、驚愕したような、そしてどこか恐怖したような視線を感じる。腹をさすって確認してもその表情は、変わらない。くすぐったくて笑うと、人間らしい反応をしたからか、少々だけど表情が和らいだ。そしてまた、表情が強張ったものに戻ると、話を切り出した。
「君は、塔に刺さっていたんだ。覚えているかね」
「ええ、気がつくと上空に居て、落ちるのを待つだけでした。正直言って、なぜ私が生きているのかわかりません」
「私もだよ。実はね、串刺しになった君を引き抜いたのは私なんだ。引き抜くと、血が吹き出してね。その量から、君が生きているとは思わなかったんだが、脈を測ってみるとどうだい、あるんだよ」
「あったんですか」
「君のことだよ。ハハハ、すまないね。それで手当をした。そしてもう一度脈を測った。まだあるんだ。そして一日がたった。それが今だよ」
「そうですか。正直、実感がありません。それは私のことなのでしょうが、ないのです」
「私もないよ。驚いている。だから聞きたい。君は、人間かい?」
「え、ええ」
言葉が詰まる。
確信がなかった。自分が本当に人間であるかを考えさせられた。客観的に見れば、私が人間であるはずがない。しかし、私は人間だった。人間であるはずだった。悶々とさせたその質問の答えを、私は避けようとした。所詮は夢のことであると思い、逃げたのだ。そのくせ、夢である、と云うことにした事を先ほどまで忘れていた。質問はそれほどに重かった。
しかし、その質問はいつまでも頭の中に残った。そして何度も、私を苦しめた。
私は医者の顔を見た。医者は私のことをどう見ているかが気になった。先ほどのように物の怪を見ているような瞳を私に向けているのか確かめたかった。私は密かに期待していた。この医者は人の良い人物で、私の助けになってくれるのではないかと。私に、救いの答えを示してくれるのではないかと。
医者の瞳は、私と同じ眼をしていた。己と事物と、どちらを信ずれば良いか分からない、そんな瞳で私を見つめていた。それで確信したことは、この医者が良い人であることだけだった。だから、私は言うことにした。
「先生。私は、人間なのでしょうか」
医者は固まった。その答えを探っていたに違いなかった。口元を僅かに動かしていた。二択を決められずに、結論を言えずにどちらの答えも最後まで発せられないのだ。私はその気持ちが痛いほど分かっていた。
医者はとうとう、口を開いた。
「眠った君を見ていた時は、到底人間とは思えなかった。傷はどんどん塞がって、元通りになっていくさまは、圧巻だった。そして怖かったよ。神話に出るような不死身の怪物を想像した。だが話してみると、とてもそんな怪物には思えない。ただの私の患者だ。だから君は、患者だよ」
その答えを聞いた時、私は救われた気がした。
嬉しかった。医者は私を人間扱いしてくれたのだ。自分の考えを否定してくれた。私は人間だった。その事実は私の欲したものだった。
私は本心からこぼれ出た言葉を言った。礼をして、流れた涙が膝上にかけた布団に染み込んだ。医者は肩に手を置いた。そして二回、優しく叩いた。そしてまた涙が溢れ出た。私はもう一度、言葉を言った。