黒い瞳
私はお姫様でした。クラヴァラン公国という小さな国のお姫様です。
私の国は小さいながらも、豊かな資源や豊富な穀物により繁栄してきました。しかし隣国は強大で、いつ侵攻してくるかわかりませんでした。
大陸の角地にあるので、友好国との軍事的連携など期待できません。それどころか、少数ながらあった友好国は、百年ほど前から次々と姿を消していったのです。大国に吸収される形で、その領土も人民も、なくなりました。
今、大陸はある大国が二分する形で争っています。東方のブルンベルン帝国、西方のグランバラン帝国。このふたつの帝国が我が国の今の隣国です。互いに競い合うように小国を侵略し、領土を広めました。彼らはとても仲が悪く、小競り合いが絶えません。私の国は、その両国の橋渡し役として度々仲裁をしたり、話し合いの場を提供したりしてなんとか生きながらえてきましたが、それもおしまいです。
昨年、ブルンベルン帝国の皇太子殿下が私をお見初めになられたということで、縁談の話が持ち上がったのです。対抗するようにグランバラン帝国も縁談の話を寄越したのです。
私の父、アルフレド二世陛下の下には男児がお生まれにならなかったのです。陛下はとても高齢で、やっと生まれた子供が私だったのです。しかし私は娘でした。それ故に政略的な価値が生まれてしまったのです。
それだけではありません。私の嫁ぎ先を決めることとは、敵国を決めることと同義なのです。選ばれぬ方は報復と言う名の侵略を始めることでしょう。たとえ私の夫の国からの支援を受けられたとしても、戦場は我が国となり、その被害は絶大。国の一部は奪われて、公国の実権は帝国のものとなりましょう。両帝国の意図したであろうことは間違いないでしょう。私には、彼らが戦いを好んでいるようにしか見えません。
それはどうであれ、我が国の滅亡は決まっているのです。公国議会は、その審議を先延ばしにしています。彼らは自らの決定が、国を滅ぼすと云うことがわかっているので、その汚名を背負うことを恐れているのです。それは対外的な汚名だということは周知されることでしょうが、貴族という輩はそういった対外を重んじる人種なのです。特に公国議会の中核を担う元老の方々は絵に書いたような貴族です。彼らは自分が殺されるという発想が皆無な人間ですから、何もしない。ただ先延ばしにして有耶無耶にしようとしているのです。そうして自然消滅してくれれば良しと思っているのです。先延ばすにしても、両国を納得される必要があるのですが、そこは貴族の悪知恵が働いたのです。ありもしない仕来りを作ったのです。その仕来りというのが滑稽で、公族の子女は満十八歳を迎えるまでは、嫁がせることができないというものです。これは過去の記録から、公族の子女たちがたまたま十八歳を越えてから嫁いていたので(記録を改ざんしたのかもしれませんが)そのような仕来りがあるから、結婚の話は私が十八歳を迎えてから、ということにしたのです。あまりにも滑稽ではありませんか。婚約という形で先にどちらかを選べと言われても、このような言い訳で通ると思っているのですから。現状、何も言ってこないものだから、納得をしていただいているものと思っているのですから。両国は、ただ軍備を整えているだけだというのに。
そんな浅はかな老人たちとは違い、知恵のある者は着々と帝国に根回しをしたり、国外への亡命を手配したりしていますので、国内の財政は乏しくありません。不況の不満が公国民の中でも限界に達していています。その不満は、貴族たちが先導して私に押し付けてきたのです。
私は、国に住む全ての者達から疎まれました。貴族が、従者たちが、民草が、私を忌まわしい者とし、諸悪の根源として恨み、憎み、そして蔑む。ご先祖様のお陰で、二年もの猶予を与えられたと言えるのでしょうが、私に対する憎悪は日を重ねるたびに黒くなります。その存在を否定され、それでも殺されずに、あと二年疎まれながら、また、残酷な同情から腫れ物のように接しられ生きてゆく。それはとても辛い。地獄のように辛いのです。
それでも救いがありました。私のお花畑。死んだ爺やの形見とも言える庭園をお手入れするその時間だけが、私の唯一の救いでした。それは中庭にありました。お屋敷部分の中央にある少し高い塔からは、庭園が一望できて、そこから見た細部まで完全な左右対称の庭園は、私にとっての黄金でした。太陽の光を浴びた木々花々は、絢爛に輝いて、まさに黄金のように見えたのです。
その塔は見張り台として作られたものの、長く続いた平和のお陰で形骸化していて誰も登ろうとはしませんでしたので、そこは私の秘密の場所でした。そこで流れる時間はゆったりとしていて、幸せだった。
爺やはとても優しかった。生まれた時から私のお側で使えてくれました。その地位にも関わらず、庭師の仕事も兼務していたのです。と言っても、庭園の管理だけでしたが。しかし、そういった仕事は貴族の中であまり好まれたものではありませんでしたので、爺やは変人として見られていました。しかし、私には、金色に着飾った貴族の方々よりも、彼のほうが幾分も立派に見えたのです。その木々花々を手入れしている後ろ姿を見るうちに、私も手伝うようになりました。
今思えば、私の見方は爺やだけでした。貴族の方々は薄々こうなると理解していたのでしょうね。私はとても粗末に扱われてきたのです。無論、形だけは綺麗なものです。しかし、その内に秘めた本性は隠せていませんでした。私を見るその眼は、とても冷たかった。爺やの暖かな眼が、彼らの眼の冷たさを理解させたというのは、皮肉なものです。
彼らの鬱屈していた気持ちは、私を原罪として祭り上げることで晴らしたのです。それはひどく陰湿なものでした。ある日の朝、私の飼っていた犬はいなくなりました。宮殿の至る所を探し回ったのですか見つかりませんでした。翌朝、庭園の中央にある一番大きな木に、無残にも血塗れの状態で吊るされていたのです。見るに耐えぬその姿を最初に目撃したのは、私と爺やでした。私は泣き崩れ、爺やに抱きつき、涙を流し続けることしか出来ませんでした。胸元から微かに見えた爺やの顔は、とても悲しそうで、苦しそうで、そして静かに涙を流していました。外部の犯行として処理されたものの、宮殿内の、もしくはそこに入る資格のある貴族の仕業だということは明白でした。
陰口などは日常でした。彼らは堂々と日向のもとで、罵詈雑言を並べるのです。ある時は、私は不義の子だとか大公の実の子ではないなど、流言蜚語を広められました。またある時は、私など生まれてこなければ良かったと、父である大公陛下に言われました。それらを影で聞いていた私は、彼らの声を聞くだけで胸が苦しくなり、涙が流れてしまうようになりました。そのような時にも、爺やはお側に使えてくれました。そのせいで、爺やにも矛先が向いてしまったのです。それは、自分に言われるよりも辛かった。
爺やは私にとって掛け替えのない人でした。国中の、親類に至るまでの人々から疎まれた私の、たった一人の見方だった。その爺やは、首を吊って死にました。私の飼い犬と同じように、庭園の中央にそびえるひときわ大きな木の枝に、詫びるように首を曲げて、右へ左へ小さく揺れて、足の裾から滴る糞尿が、飼い犬の骸を埋めたもとへとぽたぽたと落ちてゆく。それが爺やの最後でした。私は、声の出ない涙とともに、湧き上がった溜飲を流したのです。出し尽くしても流れ続け、人が集まっても流れ続け、そしてピタリと止まった時には、なにもありませんでした。
次の日から私はひとりで庭園の手入れをしました。そして終わると、日が暗るまでひときわ大きな樹の下に座っていました。木に横たわると、自然と涙が出てきて、何もかもが洗い流される気がしたのです。もうその時には、私に対する陰口もなくなりました。皆一同に気味悪がり、庭園にも来なくなりました。
そして今朝、庭園に行くと、そこには何もありませんでした。たったひとつだけ、中央にそびえていた木と思わしきものがぽつんと焼け焦げてありました。その周りに使用人が集まっていたので、私は何があったのかを聞きました。話によると、昨日の夜遅く火事があり、中庭の庭園だけが焼け焦げていてその掃除をしていたのだと言いました。皆うつむいて、私に目を合わせようとせず、足早に去ってゆきました。私は外壁を見渡しました。純白の綺麗な石壁で、焦げた後など微塵もありませんでした。もちろん夜に騒ぎなどありませんでした。塔を見上げると、窓の側に人影が見えました。それは、私を特に目の敵にしていた叔父の姿でした。見下すように庭園を見ていて、私に気がつくと、奥へと下がってゆきました。窓越しに見たその叔父の眼は、笑っていました。その時全て分かったのです。近々の惨劇は、彼の手によるものだと。
私は塔を見上げたまま、呆然と立ち尽くしていました。頭の中で様々な感情が雁字搦めになって、動けなかったのです。
きれいな空でした。朝に照らされて焼けた雲は、とても高くから輝いていました。空の青色が混ざって、光は黄色になっていました。その中で小さな黒い点が現れました。点はどんどん大きくなりました。それが落下しているものだと理解するのには少し時間がかかりました。
理解した瞬間に、それは塔の先端にある十字架に刺さりました。それが人間だとわかり、私は驚きました。驚きのあまり、先程まで頭の中で絡み合っていた感情はパッと無くなりました。その人と眼が合って、その瞳に私は魅入りました。逆光で顔も見えないのに、黒い、真っ黒な異質な瞳だけが見えて、それが、なぜだかとても美しくて、愛おしかった。
使用人たちの物々しい足音と騒ぎ声が聞こえてきても、私は動じることもなく、延々と見つめていました。その時はなぜかわかりませんが、時間が遅く感じました。