押し入れの中には夢がある
押入れから戸を引くような音が聞こえた。驚いた私はすかさず押し入れを確認しに近寄る。
私の部屋は四畳半程度の広さがある。和室であり、最近配置を変えた家具の跡が、畳に窪んで浮き出ている。何を移動させたかといえば、タンスである。それを押し入れを隠すように配置したのだ。
なぜそのようなことをしたかと説明するのならば、思春期を経験した人間ならば用意に想像がつくかと思われる。コレクションを隠しているのだ。
無論、布団を出し入れするために片方は開けられるようにしている。無意味にも思われるだろうが、これにより格段に見つかる確率は下がるはずなのだ。
隠しているのは下部の最奥である。タンスで塞いだ戸の方だ。塞がれていないふすまには、雑貨の入ったダンボールのバリケードを張っている。これで下を見られても、その奥にあるコレクションは見えないし、その数から、いちいち出さなければならない手間があり、容易に探すことはできないだろう。完璧である。
だが音は聞こえてきた。それは、私に戦慄を与えた。瞬間、普段は働かない脳みそが過度に働いた。そして、あるひとつの答えを導き出した。
私には幼馴染がいる。家が隣同士と云うこともあり、良好な友人関係を築いてきた。しかし、奴には困った癖がある。人の部屋に隠れていたり、漁ったりする癖だ。私は何度もその癖により困らされてきた。ある時は青年誌を読んでいるときに現れ、ある時は青年ビデオを鑑賞している時に現れ、ある時は青年サイトを見ているときに現れ。私の至福のひとときにはよく現れる。
勿論、長い交友のほんの数度しか無い事だが、これは私のトラウマである。考えるだけでも恐ろしい。この戸を開けると、彼女は居て、秘蔵コレクションはすべて読まれているのではないか、と。そんなことがあろうものなら、私は今後、彼女と会話は愚か、目も合わせることができない。なぜならば、そのコレクションの内容が内容だからだ。
私は冷や汗を出し、震える手で目の前の戸を開ける。ゆっくりと開ける。
しかし誰もいない。
心底安堵した。その急な心情の変化からか、力んでいた体はフッと力が抜け、ため息とともに軽く笑いが出てきた。
天を仰ぐように上を見た。なぜだか分からないが、体が勝手にそう動いた。しかし、そこで予想外のことが起きた。私の瞳に映るはずの天井が見えない。しかめっ面の幼馴染の顔が眼前に迫っていた。彼女は布団を入れている上部にいたのだ。私は絶叫した。目を見開いて、胴体は後方に倒れそうになり、腕で支えた。彼女は耳をふさいでいた。そして目も塞いでいた。女の子座りをして、畳まれている布団の上に居た。
顎が震える。そして全身が震える。恐れていたことが現実となったことを認識するのに時間は要らなかった。そこに彼女がいる、それだけで全ての合点はつながった。
「な、なんでそんなところに、い、いるの?」
「べつに」
震える声で質問をした。その答えはあまりに素っ気なかった。眼前にいる彼女は、私に目を合わせず、口を尖らせている。なぜだ?
私達はしばらく膠着した。先ほどからしていたゲームのBGMが、虚しく流れ続ける。中断していて、少し音量の低くなったBGMと、ディスクの回る音だけが部屋の宙に虚しく散った。
「今日、あたしの誕生日。一緒に祝ってくれるって言ってたのに」
「あっ!!」
忘れていた。彼女は私の不意の一言で察しがついたのだろう。押入れから降りて、うつむきざまに、出ていこうとした。
私は咄嗟に彼女の腕を掴んだ。約束を忘れていた罪の意識が頭の中を一杯にして、伝えたい言葉を発せられないでいた。彼女は私を振り払って、部屋を出ていった。私はそれを見ていることしか出来ないでいた。机の引き出しの中にある、誕生日プレゼントを渡せないまま、ただ呆然と、腰の抜けた情けない姿で、扉を見つめていた。 微かに見えた彼女の泣き顔が幻影になって、その扉の前に映し出されている気がした。
ゲームを消して、部屋を真っ暗にし、中心に大の字で寝転がった。冬は日が落ちるのが早く、午後五時を回ると窓からは薄暗い群青色の空だけが映る。
忘れていたのだ、私は。大切な日を。感づかれぬようにと何ヶ月も前から用意していたプレゼントが仇になった。
あの時、なんと言えば正解だったのだろう。プレゼントを渡せばよかったのか、謝罪の言葉を口に出せばよかったのか。私にはわからない。あのやわらかく、か細い腕を離してしまった。それだけは間違いだったと思う。何も伝えられず、謝罪もせずに離してしまった。なにか一言でも言っていれば、また変わっていたかもしれないのに、彼女に涙を、流させることもなかったろうに。決して離してはならなかったのに。
それは不意だった。その音は聞き覚えのある音だった。先ほどの、この悩みの元凶とも言える音。ふすまの音。私は押し入れを見た。しかし何も無い。閉じられたそのふすまから、どうして戸を引くような音が聞こえてくるのだ。
私は立ち上がった。力強く、荒っぽく。怒りに任せて、無駄に力み、一つ一つの動作に力を入れた。そしてふすまも、荒っぽく開けた。
突然吸い込まれるように押し入れの中へ引きずり込まれた。微かに見えたのは、真っ暗な、真っ黒な黒い光。それがあまりに異質なものに見えて、危険を回避しようと本能的に目を閉じた。そして、体に異常がなさそうなので、恐る恐る目を開いた。
私は上空に居た。そして地上に向かって落っこちていた。空気の抵抗のせいか、体は逆くの字に曲がっていた。私はテレビで見たスカイジャンピングの見様見真似で、膝を曲げた。
辺りは新緑の平原地帯が広がり、その終わりには濃い緑を宿した山々が連なっていた。その中でもひときわ大きい山があった。その山だけが雪をかぶり、木々を宿していない岩山であった。天まで届くような鋭いその山は、この危機的な状況でさえ感心してしまうほど雄大だった。
終わりは見えた。そこは街だった。円形に形作られた整った街。中央には大きなお城がそびえていて、それを囲むように街があり、そして塀があった。町並みは中世のヨーロピアンを思わせる。私はその街へ落ちるようだ。
街が大きくなるに連れて、私の死期も近づいているわけだが、不思議なことに走馬灯と呼ばれるものが頭の中を廻らないでいた。それは、私の人生がとてもちっぽけなものであることを証明しているのやもしれぬ。悲しいことだが、それでもこの最後に思い浮かぶのが、先ほど喧嘩別れした幼馴染の顔だというのは、悪くない。
眼がお城の塔端を写したのは刹那の時だった。次の瞬間には、ほんの少しの激痛が腹部に襲っただけで、あとに映るのは城の外壁と、口を両の手で抑えて、目を見開いて驚いている金の髪の少女だけだった。虚ろながらも、少女の瞳の澄んだ青色が、太陽の光に照らされてよく見えた。それはとても美しかった。