第六章
佳奈江と最後にあってからもう三ヶ月が経とうとしていた。
あの日結局朝方まであの公園で泣き続け、おまけに風邪をひいて翌日熱が出て会社を休む羽目になった。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。当然看病してくれる人もおらず、一人でおかゆを作り病院で薬をもらって、頭を氷嚢で冷やしながら寝るしかなかった。
それでも時折メールの着信がないか微かな期待を込めて携帯電話を開いてみるのだが、その期待は毎回裏切られることになる。
心にはぽっかりと大きな穴が開いているようで、秋の夜風がその穴をびゅーびゅーと吹き抜けていくようだった。失意のどん底とはこの事だろうか、最愛の恋人を失い、唯一の親友に裏切られ、僕にはもう何も何一つ残っていない。一体何のために生きているのか、こんな苦しい思いをしてまで人は何故生きなければならないのか?そんな思いが胸の奥から湧き上がってきた。
本棚の上には佳奈江と2人で撮った写真が飾ったままになっていた。それを見る度に心が締め付けられて苦しくなったが、どうしてもそれを捨てる気にはなれなかった。
聞いた話では女性は失恋しても立ち直るのが早いらしい。気持ちを切り替えて前の男のことなどスパッと忘れてしまえるという。しかし、男である僕には到底信じられない事だった。
瞼を閉じればすぐに佳奈江の顔が浮かんでくる。街で彼女と似た雰囲気の女性を見かけるだけで胸が苦しくなる。彼女と2人で行った店や、公園の前を通りかかっただけでその時の思い出が頭をよぎって涙が零れそうになる。
失恋の傷は時間が経てばいつかは癒えるというが、僕にとってはその日は永遠に来ないのではないかと思えた。
秋も深まって紅葉から落葉に変わる頃、営業に出ていた僕は街で偶然得意先の【日の出スーパー】の花岡を見かけた。彼はいつもスーパー内で見るエプロン姿ではなく、珍しくキチッとスーツを着込んで胸ポケットには三角に折ったハンカチーフを覗かせていた。
どうやらデートだな、そう見抜いた僕はどんな相手なのだろうと好奇心でしばらく離れた場所から様子を伺ってみることにした。すると程なくしてお相手であろう女性が姿を現した。
つばの大きな黒い帽子にサングラス、唇には真っ赤なルージュ、服装は派手で高そうなブランド物のバッグをぶら下げていた。どこからどう見ても堅気には見えない、キャバクラか風俗店で働いているような女性だった。
花岡は彼女を見るなり鼻の下を伸ばして嬉しそうに駆け寄り、あれこれ熱心に話しかけている。
スーパーで僕と仕事の話をしているときはいつも面倒くさそうにしているのに、その姿とはあまりに対照的だったのでなんだか滑稽に思えた。
花岡は30代半ばだが未だ独身であると聞いたことがある。キャバクラか何かのおねえちゃんにお熱なのか、なんだか楽しそうでいいな。
そう思ってその場を立ち去ろうとした時、僕の目はその女に釘づけになった。
女の顔からどす黒い蛇のようにのたうつ激しいノイズが見て取れたのだ。
これは、あの時と同じ…佳奈江を襲ったあの日の暴漢と同じ波長だ。
つまり、この女は何かよからぬことを企んでいる。そしてそのターゲットはおそらく目の前でニヤニヤとだらしない表情を見せている花岡なのだ。
仕事中ではあったが花岡も大事な得意先の商談相手である。このまま見て見ぬふりをするわけにもいかず、何よりこの女が一体何を企んでいるのか興味があった。そこで僕は2人の後を尾行することにしたのだった。
しばらく大通りを歩いた後、2人は自家製焼き窯パンが食べ放題の地元では有名なカフェレストランへ入っていった。ファミリーレストランと違い高級志向のこの店は、セレブな奥様方に人気で安月給の僕には全く無縁の場所だった。
しかし、2人の様子を探るためには店内に入らざるを得ない、僕は意を決して店のドアをくぐった。
店内に入ると花岡たちは窓際のテーブルに座ったところだった。僕は案内係の女性の勧める席には座らず、花岡たちのテーブルから1つ飛ばした斜め後ろの席についた。
ここなら花岡からは僕の姿は見えない。そして女の顔はよく見える位置だった。
2人は飲み物を注文したようで、食事をする気はないらしい。
ここからでは会話の内容は聞き取れない、時折花岡の下品な笑い声が聞こえてくるだけだ。
しかし、10分程経った頃だろうか、女の様子が変わってきた。
笑みが消え、深刻な顔つきになり花岡に何かを必死に訴えかけている。次第に女の目から涙が零れ、鼻をすする音が聞こえてきた。
花岡は胸ポケットのハンカチを差し出し、女をなだめている様子だった。
花岡が頷いて彼女の訴えを聞き入れると、女の顔は急にパッと明るくなり花岡の手を握って何度も頭を下げていた。
その様子を見ていた僕は女の目的がなんとなく分かってきた。
女の涙は100%演技だ。なぜなら女の顔にはずっとドス黒いのたうつ様なノイズが浮かんだままだからである。邪な考えを内に秘めてこの女は目の前の男を騙そうとしている。
この女はきっと詐欺師だ。このままでは花岡はこの女にうまく言いくるめられ大金を失うことになるだろう。そしてそれを止めることが出来るのは僕だけなのだ。
店を出ると2人はすぐに分かれて別々の方向に歩いて行った。
別れ際に女は花岡に抱き付いてキスをしてまた連絡するねと言い、花岡は鼻の下をだらーっと伸ばしてご満悦の様子だった。僕はすかさず女の尾行を開始した。
女は自分が尾行されているとは夢にも思わないだろう、警戒するそぶりも見せず堂々と街を歩いていた。繁華街でしばらくウインドウショッピングをした後、地下鉄に乗り南森町という駅で降り、そこから5分程路地を歩いて、自宅であろうマンションに入っていった。
4階建てのそのマンションは築30年以上経っているであろう古びた建物で、外壁のタイルは所々剥がれ落ち、階段の手すりにはサビが目立っていた。外から廊下の様子が丸見えの構造のため女が3階の右から2つ目の部屋に入っていくのが見えた。
オートロック式ではなく管理人もいないようだったので、僕はすんなり建物内に入ることが出来た。
部外者である僕が勝手に建物内に侵入することは当然違法行為ではあったが、悪い女の悪事を暴くためだ。そう自分に言い訳して階段を上がっていった。
3階につくと手前から301、302と部屋が並んでいて、1フロア6室だから女が入っていったのは305号室ということになる。表札は出ていなかったので、僕は1階に戻って郵便受けを調べてみた。
ステンレス製の集合ポストにはカギが無く、各自で南京錠やダイヤル錠をつけるようになっていた。中にはそれすら付けていないポストもあり、幸いなことに305号のポストにはカギが付けられていなかった。僕はポストを開けて郵便物から情報を引き出すことにした。
<八城秀夫様>チラシの間にそう書かれた封筒がいくつか見つかった。差出人はどうやら消費者金融の会社だ。他には<武田浩子様>宛の電気とガス料金のお知らせ、カタログショッピングの小冊子、高級ブランド店からのダイレクトメールなどが見つかった。
次に僕は建物の裏側に回り、駐車場からベランダを見上げてみた。305号室のベランダには男物のジャージや下着が干してあった。
女は武田浩子で、八城秀夫という男と暮らしている。八城は女のヒモで、消費者金融に借金のあるろくでなし。女のほうはおそらく夜の仕事で自身もかなりの浪費家、稼ぎが追い付かず詐欺にまで手を染め始めた。そんなところだろうと僕は勝手に推測した。
必要な情報は大体手に入れた、あとはどうやって花岡の目を覚まさせるかだが…
翌日僕は【日の出スーパー】にやってきた。もちろん花岡に会うためだ。
「おや、里中君やないか、今日は営業に来るって聞いてないけどどないしたんや?」
「花岡さん、実は今日は仕事ではなくお伝えしたい事があってきたんです。一昨日レストランで女の人と会ってましたよね?」
花岡は驚いて口をパクパクさせていたが僕は無視して先を続けた。
「抱き合ってるところを偶然見てしまって、それで花岡さんの彼女なのかなーって思ったんですけど、僕あの人を以前にも見たことがあるんですよ」
「僕の高校時代の先輩に八城秀夫っていう人がいたんですけど、当時からろくでもない人で校内で暴力事件を起こしたり、万引きやカツアゲで警察に捕まったり、僕は直接面識はないんですが校内では知らない人はいないくらいの有名人だったんです。その八城先輩を偶然街で見かけたんですが、その時一緒に歩いてたのが花岡さんと一緒にいた女性だったんです」
花岡は何がなんだか分からないまるでキツネにつまれたような顔で僕の話を聞いていた。
「それで僕は高校時代の友人のツテを使って八代先輩の居所を突き止めたんです。早速僕はその住所まで行ってみました。そしたら偶然マンションから八代先輩とあの女の人が出てきたんですよ」
これがその住所です。と言って僕は南森町のマンションの住所と八代秀夫、武田浩子の名前が書かれたメモを花岡に渡した。
「この武田浩子っちゅうのは?」
「あの女性の名前です。花岡さんには違う名前を名乗ってたのですか?」
まさか、信じられん…そう呟いて花岡は頭を振っていた。
「花岡さん、もしかしてあの人からお金を貸して欲しいとか言われませんでしたか?」
花岡がハッとして顔を上げた。
「確かにあの日病気の妹の手術費用が足らなくて困っとるって、あと100万あれば妹は助かるのにって…」
あの人が言ってることが本当かどうか確かめてみてください。そう言って僕は店を後にした。力になれることがあればいつでも相談に乗りますから、去り側にそう言ったが花岡の耳に届いているかは分からなかった。
1週間後、僕は納品のために【日ノ出スーパー】を訪れた。
花岡は僕を見つけるとすぐに駆け寄ってきて早口で捲し立てた。
「里中くん!君のいう通りやったよ!あの女俺の事をずっと騙しとったんや!」
花岡によると金を渡す約束になっていた日、渡す前に妹に会わせろというと急にしどろもどろになって誤魔化そうとしたので、僕が書いた住所と本名の書いたメモを突き付けて問い詰めたそうだ。
そしたら観念して泣きながら騙そうとしていたことを認めたという。八代に金を工面してくるよう強要されて、全部八代の考えたシナリオ道理に動いていただけで、自分は悪くないと必死に訴えかけたらしい。
「それで結局どうなったんですか?」
「もちろん警察に連れていったで、俺を騙そうとした報いは受けてもらわんと気がすまんからな。里中くんにはほんま感謝しとるで、君がおらんかったら完全に騙されとったわ。」
がははは、と下品な笑い声をあげる花岡は全然懲りている様子がなかった。
「里中くんはほんまにエエヤツやな、俺のために一生懸命頑張ってくれたんやろ?困ったことがあったら何でも言いや」
結局花岡は僕のために文具コーナーのスペースを拡大して発注を増やしてくれた。
最後には僕の肩をバンバン叩いて今度おネエちゃんのいるお店に連れていってやろうと一人で盛り上がっていた。
スーパーを後にした僕は、近くの噴水のある公園のベンチに腰を下ろした。
人助けをしておまけに自分の営業成績も上がった、しかし僕の心には高揚感や達成感はまるで感じられなかった。
花岡の言葉が耳に残っていた。〈里中くんはほんまにエエヤツやな、俺のために一生懸命頑張ってくれたんやろ〉
本当にそうだろうか?いや違う、そうじゃない、僕は善人なんかじゃない。
ただ偶然目の前に起こった興味深い事件に首を突っ込んだだけだ。どうしても花岡を助けたかった訳じゃない。
なら何故あんなに必死になってたんだ?
答えは簡単さ、分かってるだろ?
一瞬でもいいから忘れたかったんだよ。
何を?
噴水から水が勢いよく吹き上がった。
秋の陽射しと重なって綺麗な虹がかかった。
その虹の向こうに佳奈江の幻が浮かんで見えた。
僕の心の傷は癒えてなどいなかった。それどころか何度も引き裂かれ、押し潰され、叩きつけられ、ボロボロになって悲鳴をあげていた。
助けてほしい、誰か僕の心を救ってください!
心の中でそう叫んだ。
しかし僕の心を救うことが出来るのはこの世に一人しかいない。
「かなえ…もう一度佳奈江に会いたい…」
僕は幻に向かって話しかけた。
噴水が止まって虹が消えると佳奈江の姿も同時に見えなくなった。
僕は一人ベンチに座り声をあげて泣いていた。