第三章
高校を卒業した私は全寮制の看護学校に入った。
部屋は4人の相部屋で、洗面トイレ風呂はもちろん共同。
朝起きるとまず掃除、食堂で食事をして学校で授業、そして寮に戻るという生活。
ここで3年間看護師になるための知識や技術を習得するのだ。
起床や入浴、門限など制限は多く厳しかったが、父の顔を見ないで済むというだけで実家にいるときより遥かに気が楽だった。
最初の頃はルームメイトや同級生が話しかけてくれたり、休みの日には遊びに行こうと誘ってくれたが、長年遊ぶことを制限されていた私は話題にもついていけず、また父の許から少しでも早く自立したかったため、休日も1人寮に残って勉強することが多かった。
次第に私に話しかけてくれる人は居なくなり、寮の部屋の中でも1人だけ浮いた存在となっていった。
2年目に入ると実習が始まり、予習や実習記録、レポート提出で睡眠時間が2,3時間しかない日々が続いた。
3年目は実習と看護研究、国家試験の勉強に就職活動と忙しさにさらに拍車がかかった。
こうして3年間勉強して、国家試験を受ける資格がもらえる。
看護師は国家資格であり、一定期間看護教育を受けたものでなければ受験資格すら与えられない。
同期で入学した子の中には、実習のきつさに耐えきれず、途中で退学するものも少なくなかった。
また、試験に合格できず留年する者もいた。
看護師という職業は、なってからももちろん大変なのだが、資格を取るだけでも大変な努力をしなければならないのである。
幸い私は努力の甲斐あってか、試験に合格し明和総合病院に正看護師として勤務することになったのである。
病院は実家から通える距離ではあったが、私はすぐに家賃5万円ワンルームマンションで1人暮らしを始めた。
今更父と話すことなど何もない、お盆も正月も関係なく就職して以来一度も実家には帰っていない。
携帯の留守電に父から安否を尋ねるメッセージが時々残っていたが、最近はそれもなくなった。
やはり私は父のことが許せないのだろう、母を追い詰め、病に追い込んだことを。
父も私がそう思っていることに気付いているはずだ。
だから全寮制の学校に行くといった時も、卒業して家を出ていくといった時も、父は何も反対しなかったのである。
父がガンで入院していることを知ったのは、私が病院で勤務を始めて3年が経とうとしている時だった。
ある日突然父の妹である叔母の良美から電話がかかってきたのだ。
<もしもし佳奈江ちゃん?久しぶりね、看護師さんになったんだって?えらいわねえ。
それでね、お父さんには絶対に言うなって言われてたんだけど、実は私も一昨日知ったばかりで驚いて るんだけど、お父さん入院してること知ってる?>
叔母によると父は大阪赤十字病院に半年前から入院しているらしい。
胃ガンだそうだ、それもかなり悪いらしい。
胸がカッと熱くなった、何故そんな事になっているのに私に連絡してこなかったのか。
父の身勝手さに無性に腹が立った。
大阪赤十字病院に着いたのはその日の夕方だった。
父の病室は18階の個室だった。
ノックしてドアをソッと開けてみる、ベッドの上に横たわる父の姿がそこにあった。
どうやら眠っているようだが、3年ぶりに見る父の顔は白髪で痩せこけて血色も良くなかった。
一気に10歳以上老けたように思えた。
「お父さん」
呼び掛けが聞こえたのか、窪んだ目がうっすらと開いて、一瞬驚いたような表情を見せた。
「佳奈江か…」
かつての威厳はなく、か細い声でそう言うのがやっとのようだった。
「どうして…、どうして何も言わなかったの?私は看護師なのよ、看護師が自分の父親の病気の事も知らないなんて、恥ずかしいじゃない」
そんな事が言いたかった訳ではないがついそんな言葉が口をついた。
「すまなかった、お前に迷惑をかけたくなかった、それに…これはきっと罰なんだよ。おまえには父親らしい事を何一つしてやらなかった、それに母さんがああなったのも私のせいだ、私があいつの心を壊してしまったんだ」
父が亡くなったのはそれから一月も経たないうちだった。
ガンは既に肺やリンパ腺にまで転移しており、手の施しようがない状態だったらしい。
父は延命を望まなかった。だから抗ガン剤治療もせずにただ病院のベッドの上で静かにその時が来るのを待っていた。
私は仕事の合間にできる限り父の許を訪れたが、父は迷惑をかけてすまないというだけでそれ以上を語ろうとはしなかった。
意識がなくなり医師から今日明日の中にはその時が来ると知らされた。私は最後の時は病室にいて叔母と共に父の最期を看取った。
一瞬苦しそうな表情を見せた後、呼吸が止まり、静かに父はその生涯を閉じた。58歳だった。
実家の近くにある公民館で、身内だけの簡単な葬儀を済ませた。
叔母と相談して喪主は私が勤めた。通夜と葬式の準備は話に聞いていた以上に大変だった。
遺体の搬送、お寺への連絡、遺影の準備、親戚や一部の親しかった方への通夜と葬儀の連絡、供花供物の手配などやることが山のようにあった。
叔母が葬儀屋との段取りを殆ど取り仕切ってくれたが、もし叔母がいなかったらどうなっていたことだろう。こうしてお通夜、葬儀、火葬、初七日と目まぐるしく儀式を終え、一段落したところで叔母の良美からあるものを渡された。
「佳奈江ちゃん、これお父さんから預かってたものなの、中身が何なのかは聞いてないんだけど、自分が死んだら渡して欲しいって」
受け取ったのはA4サイズの封筒で、何か分厚いものでも入っているのか大きく膨らんでいた。
私は封を切って中を確認してみた。中には折りたたまれた手紙と通帳の束が入っていた。
《佳奈江へ、最後まで迷惑をかけてすまなかった。病気のことはお前には話さずに1人で逝くつもりだったんだがそれも結局叶わなかったな。お前は私のことを恨んでいるだろう、父親らしいことは何一つしてやれなかったし、母さんを病気にしてしまったのも私のせいだ。だから恨まれも仕方ないし、当然だと思っている。
母さんと結婚することになったときお前はまだ3歳になったばかりで、いつもニコニコ笑う可愛い女の子だったよ。私は正直不安だった、自分が父親になることが出来るだろうかと。
今にして思えばお前をどこに出しても恥ずかしくない立派な娘に育てようと厳しくしすぎたのかもしれない。もっと自由にのびのびと子供らしく育ててやればよかったのではないかと思う。
しかし、当時の私にはそういうことが出来なかったのだ。私は佳奈江のことを自分の実の娘だと思っていたし、こうしてお前が子供の頃からの夢を叶えて立派な看護師になってくれたことを本当に嬉しく思う。
ただ一つ心残りがあるとすればお前の花嫁姿を見れなかったことだ。だが、お前のことだ、きっといい人を見つけて幸せな家庭を築くことが出来るだろう。
最後に不甲斐ない父親ですまなかった。お前の幸せを心から祈っているよ》
父の手紙を読むのは初めてだった。父の想いを知ったのも初めてのことだった。
父のしつけの厳しさからただ黙って言うことを聞くだけで、父と話そうとしなくなったのは私ではないのか。本当の娘ではないと知って勝手に愛されてないと思い込み、心を閉ざしてしまったのは私の方ではなかったか。父が何を考え何を想い生きてきたか、そんな事これまで一度も考えたことなどなかった。
父とちゃんと向き合わなかったのは私の方だ。
手紙の他に封筒には銀行の通帳の束が入っていた。父の名義の通帳が2冊その他は全て私の名義になっている。
私の名義の通帳を開いてみると、平成2年の3月から毎月3万円ずつ積み立てられていた。
2冊目も、3冊目も…、ずっとずっと現在に至るまで22年間一度も途切れることなく同じ数字が並んでいた。
何かが胸の奥からこみ上げてきた。目から熱いものがあふれ出ていた。
ふと子供の頃の記憶が蘇った。
夜中に腹痛を起こした私を背中におぶって病院まで運んでくれたこと。
小学生の作文コンクールで審査員賞を取った時、何度も何度もその作文を読み返していたこと。
中学のバスケの近畿大会の試合の時、何も言わずに隠れてこっそり見に来てくれたときのこと。
父は幼い頃からずっと私のことを見ていてくれていた。ちゃんと私の事を愛してくれていたのだ。
手紙と通帳を握りしめたまま溢れ出る涙を止めることが出来なかった。
普段の生活に戻ってから私の周囲ではある変化が生じていた。
病院で普段通り勤務しているのだが、患者さん達がよく微笑んでいたり、私に対して優しく話しかけてくれたりするのだ。
いったい何があったのだろうと婦長に相談してみると逆にこう言われた。
「何かあったのは森さんの方じゃないの?、最近表情が明るくなったというか、以前はどちらかというと冷たい印象だったのがこの頃は生き生きしてとても幸せそうに見えるわよ。それが患者さん達にも伝わったんでしょうね。」
確かに私の中で父の死がきっかけで心のわだかまりが解け、何か吹っ切れたような気持ちになっていたのは事実だ。
そしてもう一つ私の心に変化をもたらした人物がいる。里中亮平だ。
彼と初めて会ったのは父の死後しばらくして仕事に復帰してすぐのことだった。
病院の待ち合いでカルテを運んでいるとき、よく前を見ないで歩いていたのでうっかりぶつかってしまったのだ。
おでこが赤く腫れていたので治療を申し出たのだが、慌てた様子でその場を去っていったので何となく印象に残っていた。
次に会ったのは、あの事件の日だった。
遅番の勤務を終えて自宅に向かって歩いているとき、後ろからやって来た暴漢に襲われたのだ。
そこへ偶然通りかかった亮平が暴漢を追い払って助けてくれたのだ。
その後私は助けてもらったお礼にシャツとネクタイをプレゼントし、彼は私を食事に誘ってくれた。
亮平は優柔不断だしおっちょこちょいだし一見頼りなく見えるのだが、誠実で優しくて包容力があって一緒にいるだけでとても暖かい気持ちになれた。
だからビルの上の空中庭園で付き合って欲しいと告白された時はとても嬉しかった。
付き合い初めてからは、私の仕事の時間が不規則なのでなかなかちゃんとしたデートは出来なかったが、仕事帰りに一緒に食事をしたり、早番の時は彼の家で料理を作って待っていることもあった。
側に居てくれるだけですごく安らげたし、幸せだなと実感することが出来た。
そう、あの日までは…
たった一度のミスがその後の人生において取り返しの付かない事態に発展することもある。
あの日あの店に行かなければ私のその後の人生はもっと違ったものになっていただろう。