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ノイズ  作者: 琢尚楓
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第二章

心斎橋にあるイタリアンレストラン【テラッツァ】は季節ごとに旬の素材を使い、月替わりでヨーロッパの様々な地方の郷土料理を提供するOLに人気のレストランだ。

地中海をイメージした店内は、ワインがずらりと並んだバーカウンターに、大人数で囲めるラウンドテーブル、カーテンで仕切られた半個室もあり、落ち着いた雰囲気で本格イタリアンを楽しめる人気店である。

手ごろな価格設定ということもあって、ランチには近くのOLがこぞって詰めかけ、週末ともなると予約をしておかなければ店内に入ることすらままならない程の盛況振りである。



そんな人気店に古澤巧はシェフ見習いとして2年前からここで修行をしている。

調理師専門学校を卒業する際、できればイタリアかフランスの本場に武者修行に行きたかったのだが、平凡なサラリーマンである両親にこれ以上経済的な負担をかけたくないという理由で、せめて人気のあるレストランで自分の力を試したい、と思いこの店の面接を受けることになったのである。

店のオーナーであるグランシェフの皆藤裕史は、学校を卒業した後大阪の帝国ホテルで修行を開始し、3年後には本場イタリアへ渡り、トロワグロ、オーベルジュ・ドゥ・リィル、ロアジス、アラン・シャペル等の三ツ星レストランにて修業を重ねたのち帰国、心斎橋にてレストラン【テラッツァ】を開店することとなる。

そんな輝かしい経歴と実績をもつ皆藤は、古澤の憧れの存在であり、料理の腕前はもちろんの事、料理と向き合う姿勢、新たなメニューを作り出す独創性、日常から開放された居心地の良い空間を提供する店作りに関する感性、全てにおいて雲の上の存在なのであった。



そんな古澤は僕の高校時代の友人で、卒業してからもたまに連絡を取り合う唯一腹を割って話せる親友であった。

しかしながらシェフというのはなかなか大変な職業であるらしい。

朝7時に店に行き、店を出るのは終電近く、それを週6日繰り返すわけだから労働時間は半端ない。

それでいて給料は手取りで18万程、それでもまだ恵まれた方らしく、個人経営のレストランに勤めるシェフ見習いには総支給が12万程度という話もよく聞くという。

それでも一流のシェフになって将来自分の店を持ちたいというはっきりした夢に向かって頑張っている古澤を、羨ましくもあり、応援したいと思うのであった。



その古澤から一度店に食べに来ないかと誘われたのは、今から3ヶ月程前のことだったろうか。

簡単な盛り付けや下ごしらえなどある程度店に出す料理に携わることが出来るようになった古澤は、まだ一人前とは言えないが一度店に来て料理を食べてみて欲しいと言ってくれたのだ。

しかしながらイタリアンレストランの人気店である。

普段牛丼やほかほか弁当しか食べてない自分が、1人で行くにはあまりにも場違いな気がしてこれまで行くことが出来なかったのである。





病院で彼女と再会した僕は、相変わらず舞い上がってしまっていた。

たどたどしい口調ではあったが、事前に脳内シミュレーションをしていたおかげかシャツとネクタイのお礼を言い、さらには食事に誘うという最大のミッションを成功させていたのである。

イタリアンレストランで働く友人がいて、1人では入りにくいから一緒に行って欲しいと言うと、彼女は驚くほどあっさりと快諾してくれたのだ。

作戦決行は今週の日曜日18時、心斎橋駅5番出口(大丸百貨店前)で待ち合わせだ。

それまでにいくつか手に入れなければならないものがあった、恋愛というフィールドから長らく退いていた僕は、デートに来ていける服を一つも持っていないのだから。



17時45分に待ち合わせ場所に着いた時、大丸前には想像以上の人ゴミが出来ていた。

カップルの待ち合わせに使われることが多いのか、スマートホンを弄りながら誰かを待つ20代と思われる男女がそこら中に見ることが出来た。

そんな中、白いワンピース姿でジッと空を見つめる長身の彼女は明らかに異質な存在であり、思いっきり目立っていた。

近くにいるチャラそうな今時の若者が、チラチラと彼女の方を気にしている、ナンパでもするつもりだろうか。

いったい彼女はいつから此処で待っていたのだろう、まさか自分より先に来て待っているとは思わなかったのと、おしゃれをした彼女の姿があまりにも綺麗だったので思わず見とれてしまっていた。

すると彼女の方がこちらに気付き、近寄ってきてくれた。

「里中さんこんばんは、今日はお誘いくださってありがとうございます」

眩しいほどの笑顔と曇りのない真っ直ぐな瞳で僕を見る彼女は、まるで女神のように見えた。

今日は格好良く彼女をリードするんだ!という僕の決意は、たったその一言を聞いただけで脆くも崩れ去ろうとしていた。



イタリアンレストラン【テラッツァ】は流石に名店と謳われるだけあって、ホールのスタッフの対応も見事なものであった。

古澤が気を効かせて半個室のテーブルを予約してくれていたおかげで、他の客を気にすることなく彼女と食事を楽しむことが出来た。

イタリアンのコースやワインの事などまるっきり知識のない僕は、知り合いの女性を連れて行くから適当なメニューを頼む、といって古澤に全て丸投げしていたのである。


食事をしながらお互いの仕事や、休日の過ごし方、趣味や、好きな映画やドラマの話で盛り上がった。

食事を一通り終え、デザートのジェラートを味わっているとき、古澤が厨房から初めて顔を出した。

「よく来てくれたな里中、食事のほうはどうだった?」

通常見習いのシェフが客席に顔を出すことなどあり得ない、食事に感動した客がシェフに会いたいと申し出る事があっても、挨拶をするのは当然店の顔であるグランシェフである。

古澤は友人がわざわざ訪ねてきてくれていることをシェフに伝え、特別に許可をもらって客席に出てきたのである。


「最高だったよ、お前が作った料理もあの中にあったんだろ、特にあのメインディッシュの仔牛のミラノ風カツレツとかいうのは目玉が飛び出るくらいうまかったよ」


それは良かったと満足そうに微笑む古澤だが、視線は僕のほうを全く捉えていない。


「そろそろお連れの美人さんを紹介してくれないか、お前から女性を連れてくると聞いたときは正直お袋さんでも連れてくるのかと思ったよ。」


古澤は僕の女性遍歴を知ってるし、僕が自分から声をかけたり積極的にアプローチするタイプではないことをよく知っていた。だから彼女の事を見て驚いているのだ。


「こちらは森佳奈江さん、明和総合病院に勤めている看護師さんだ」

「こっちは僕の高校のときからの友人で古澤巧です」


こうやって知らない2人を紹介するのをTVか何かで見たことがあるが、実際やるのは初めてだった。

それから少しだけ3人で話をしたが、そろそろ厨房に戻らないとシェフに怒られるというので、僕たちも店を出ることにした。


「ごちそうさまです、本当に美味しかったです」

「ありがとうございます、良かったらまたお越し下さい」

やはりここに来て正解だったな、古澤に感謝しなくては。

旧友と挨拶を交わした後、2人で店を出た。






店を出てから僕たちは梅田にあるスカイビルの空中庭園に向かった。

梅田スカイビルは、地上40階建東棟西棟の2つのビルが並び立ち、その頂部が円形の空中庭園展望台で繋がっている連結超高層ビルである。

展望台はドーナツ状の円形回廊になっていて、屋根がないため風を感じながら360°すべてを見渡せることができる。

その眺めはまさに絶景で、数多くのカップルが訪れる有名なデートスポットの一つである。

シースルーのエレベーターでビルの最上階に上がり、そこからさらにシースルーのエスカレーターで展望台に上がると屋根も壁もない円形の空中歩道に出た。

円形歩道には星雲や流れ星など宇宙をモチーフにして、セラミック製の蓄光石を全周122mにわたって敷き詰めてあり、足元の星たちがまるで宝石のようにきらめいてる。

そして地上173メートルの高さから見下ろす100万ドルの夜景は、キラキラとネオンが光り輝いていてまるで別世界のようだった。


噂には聞いていたが、こんなにも素敵な場所だったとは。

僕も彼女もしばらくは声も出せず、ただ目の前に広がるパノラマに魅了され続けていた。

よくよく周りを見渡してみると、どこもかしこもカップルだらけだ。

中には家族連れや純粋に景色を楽しみたい観光客もいたが、デートで訪れたカップルが夜景を見ながら2人の愛を確かめ合っている、そんな雰囲気があちこちから感じられた。

僕のデートプランはここまでだった。

この後は家の近くまで彼女を送り届けて帰るつもりだった。

たが、幻想的な風景や周囲の雰囲気に流されてしまったのか、僕は生まれて初めて女性に大切な質問をしてみようと思った。


「森さん、いや、佳奈江さん。」

急に改まった僕を見て彼女も察しが付いたのだろう、僕の方へ向き直ってお互い真っ直ぐ見つめ合うようになった。


「僕と、お付き合いしてもらえませんか?」


彼女はその言葉を聞いて静かに目を閉じた。

10秒か、15秒か、目を閉じて沈黙する彼女を僕はただ見つめている。

答えを聞くのが怖かった、このままなにも聞かずに帰りたい衝動に駆られた。

しかし、今を逃せばこの先彼女に告白する勇気は二度と持てない気がした。




そして彼女はそっと目を開け、こう言った。

たった一言「よろしくお願いします」と。











私には居場所がなかった。家にも学校にも。

いつも一人だった、しかし、殻に閉じこもることは許されなかった。


運動会の徒競走で1位になった時も、部活のバスケで代表に選ばれた時も、頑張って第一志望の高校に受かった時も、父は頷くだけで一度も褒めてはくれなかった。

本当の父親は私がまだ赤ん坊の頃に病気で亡くなった。その後母は再婚し、今の父と一緒になった。だから私には本当の父親の記憶はない。写真で見て、ああ、こんな人だったんだと思うだけだ。

行政書士である父は真面目で実直、曲がったことが大嫌いな堅物だった。

物心ついた頃から父のしつけは厳しかった。

箸の持ち方から挨拶や、言葉遣い、髪型や服装まで自由にさせてもらえず、勉強の出来が悪いと容赦なく叱られた。

友達と出かけるだけで機嫌が悪くなり、遊んでる暇があったら勉強しなさいと言われた。

だから段々友達もいなくなった。逆に褒められた記憶はほとんど無い。

母は優しい人で私をいつも庇ってくれた。

しかし、父には逆らえなかった。夜になると私のことで母がよく父から叱られる声が聞こえてきた。

私は、私のせいで母が傷つくのが嫌だった。だからできるだけ父に叱られないように、気に入られるように、勉強も運動も頑張った。

わがままなど言ったことがない、欲しい物があっても我慢した。

辛いことがあっても泣いてはいけない、私がいい子にしてたら母が叱られることはないのだから。




母は私が高校2年の時に突然他界した。

数年前から口数が少なく、ぼーっとすることが多くなり、呼びかけても気づかないということが多くなった。

また、頭痛や吐き気、不眠症に摂食障害といった症状が現れ、病院で診察してもらったところうつ病と診断された。

その後も症状は悪化の一途を辿り、痩せ細って何も食べようとせず、誰とも話そうともせず、ついには病院のベッドの上で亡くなってしまったのだ。

父は衰弱していく母を懸命に支えようとしていたが、、私には父の言葉や態度が母を追い詰め、心を壊してしまったのだという確信があった。

母が死んだとき、何故か涙が出なかった、お葬式の時も結局最後まで一滴の涙も出てこなかったのだ。

高校を卒業と同時に全寮制の看護学校に入学した。

看護師になるのが昔からの夢だった、そしてなにより父から離れて生活したかった。母を死に追いやった父と生活するのはもう限界だった。










佳奈江と付き合い始めて3ヶ月が経とうとしている。

勤務時間が不規則な彼女とはなかなか会う時間が作れなかったため、デートらしいものはあれ以来出来ていない。

それでも頻繁にメールで会話したり、彼女が休みの日には僕の部屋で食事を作って待ってくれていることもあった。

付き合い始めて分かったのだが、佳奈江は一見おっとりしているように見えて実はとても芯が強く、一度決めたことは何がなんでもやり抜く信念を持っていた。

そんな彼女に僕は隠し事をしている。自分の特殊な能力のことを話せずにいる。

自分の意思とは無関係に他人の負の感情を読み取ってしまうこの力の事を。

もし彼女がこの事を知ったらどう思うだろうか?

誰だって自分の心の内側を勝手に覗かれていい気がするはずがない。

そしてもう一つ僕にはこの事を打ち明けられない理由があった。

それは彼女と付き合い始めてすぐに気が付いた事なのだが、出会ってからこれまで一度も彼女の顔にノイズが浮かんだことがないからである。


楽しいことや嬉しいこと、悲しいことや辛いこと、人生において良いことと悪いこと、どちらの方が多いだろうか?

人によってその答えは様々であろう、しかし生きていてストレスを感じなかったり、不満が一つもないなんて事はあるはずがない。

看護師というのは精神的にも肉体的にも負担が大きい重労働のはずだ、だから不満やストレスを人一倍抱えてても不思議ではない。

しかし佳奈江にはその誰にでもあるはずの負の感情をこれまで一度もみたことがないのである。

何故だろう?能力が無くなった訳ではない。

一歩町に出ればそこら中にノイズを抱えた人達を見ることができる。


確かに佳奈江には感情の起伏が少ないような気がする。

僕が爆笑してしまうような場面でも佳奈江はクスッとするだけだ。

以前に僕の部屋でDVDを一緒に見たことがあった。

忠犬ハチ公をハリウッドがリメイクした映画で、死んでしまったご主人様を、自分が死ぬ最後の瞬間まで駅でずっと待ち続けるという内容だった。

僕はずっと鼻をすすりながらみていたのたが、彼女は結局最後まで涙を浮かべることはなかった。


佳奈江はあまり過去の事を話そうとしない、特に家族については僕は殆どなにも知らない。

母親が亡くなっている事と、父親とはもう何年も会っていないというのは聞いたことがあるが、その事と何か関係があるのだろうか?

この先ずっと彼女と付き合い続けるならいつかは話さなければならないだろう。

しかし、今の幸せを壊したくない僕は、打ち明けるのはもっと先でもいいだろうと自分に言い聞かせていた。








「それにしても今年の暑さは異常だな」


一日の営業活動を終え、営業所で業務日報を纏めている時、同僚のそんな声が聞こえた。


「店に入ってる時はいいんだが、一歩外に出るとこの暑さだろ、温度差で体がおかしくなるわ」


団扇を仰ぎながら談笑している先輩たちの顔にも暑さのせいか、ノイズがチリチリと走って見えた。

そんな中所長の池田が1人机に向かって難しい顔をしている。

顔真っ赤にして営業マンを叱りつけるいつものような覇気はなく、ただ眉間にしわを寄せて机の上の資料をジッと見つめている。

顔にはかなり強いノイズが波打っていて、何か思い詰めているようなそんな表情だった。

「所長、今日の日報です」

「ん、ご苦労さん、今日はもう上がっていいぞ」

書類に目を落とし、渋い表情のまま池田がそう言った。

しかし、僕がその場から離れようとしないので池田は不思議そうな顔をしてこちらを見ている。

「所長、何か問題があるんですか? いつもより厳しい表情だったので気になって…」

「里中、お前ももうここに来てもうすぐ4年か、早いもんやな。実はな、お前が来るずっと前からだがこの営業所は赤字ギリギリでな、近いうちに営業所を他に移さんといかんかもしれん」


所長によると長らく続く不況で営業所の収支はかなり厳しいらしい。

売り上げが上がらない以上、経費を削減して利益を確保するしかないわけで、営業所のテナント料月約30万を他の場所に移転して削減せよ、という本部からの意向があったらしい。

「すいません、自分が不甲斐ないばっかりに…」

「馬鹿野郎、お前一人の頑張りでどうにかなるもんじゃねぇよ、それにな、この問題はお前が来るずっと前からあったんや」

だからお前が気にするようなことではない、そう言って所長は再び机の上の書類に目を落とした。

僕はお疲れ様でした、と言って席を離れたがその声が所長の耳に届いていたかは分からない。


他の地区で採算の取れない営業所が閉鎖したり、合併したりという話を先輩たちから聞かされたことがある。

こんなご時世だ、突然会社が潰れるなんて事もあり得ない話ではない。

もし会社が潰れたら、僕たちのような若い独身社員はまだ再雇用先が見つかるかもしれないが、所長のように家族と家のローンを抱えたベテラン社員はどうなってしまうのか。

営業所を出る時ふと振り返ってみたが、机に向かう所長の姿がとても小さく見えた。










僕と時間が不規則な佳奈江の連絡ツールは主に電子メールだ。

相手の時間を気にすることなくいつでも好きなときに送るとこが出来て、相手も自分の手が空いたときに見て返信することができる。

営業で外回りに出ている僕にはメールをするくらいの時間はいつでもあるが、看護師にはそんな余裕はない。

そもそも勤務時間中はプライベートの携帯を持ち歩くことはできない。

患者の命を預かる仕事をしているのだから余計なことに気をとられて、万一にもミスがあってはならないのだ。

だから彼女はいつも休憩時間か、勤務が終わった後にメールを送ってくれていたのだ。

だが、何故だか一昨日から一度も返信が来ていない。

こんな事は今まで一度もなかったのに、携帯に電話しても自動音声のアナウンスが流れるだけだった。

結局彼女からのメールを受け取ったのはそれからさらに3日後の事だった。




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