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ノイズ  作者: 琢尚楓
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第一章

あなたは善人ですか?悪人ですか?

そう聞かれたら大抵の人は「どちらかと言えば善人かな」と答えるのではないだろうか。

電車でお年寄りに席を譲ったり、道を尋ねられたら行き方を詳しく教えてあげたり、そんなことは誰しも一度は経験があるだろう。


しかし、もし自分の将来を左右するような重大な局面、例えば入試や就職の面接、自分がプレゼンをする重大な会議の直前に目の前で苦しそうに倒れている人がいたとしたらどうだろうか。

回りに誰もいなくて携帯電話も持っていない、助けられるのは自分だけだったとしたら。

自分の将来を棒に振ってでも即座に人命救助を優先する人はきっと紛れもなく善人であろう。


しかしながら大抵の人は見ず知らずの他人の命と自分の将来とを秤にかけて迷うのではないだろうか。

自分が助けなくても他の誰かが通りかかるかもしれない。ちょっとした発作でしばらくしたら収まるかもしれない。そう言い聞かせてその場を立ち去ったら、それは悪人ということになるのだろうか。










「おい里中、竹中商店への今月の納品が全然進んでないのはどういうことや?」

「すいません、実はあちらの担当者から新商品の売れ行きが悪いので、しばらく発注は控えさせてくれと言われまして」

所長の池田から営業成績が上がらないことについて朝から小言を聞かされている。


小さな文具メーカーに勤めて3年、得意先の文房具店やスーパー等に商品を置いてもらい、品薄になった文具の発注を取っては納品するのが僕の仕事だ。

しかし、もともと押しが強い訳でもなく、どちらかと言えば回りに流されやすい性格のため営業職に向いているとは云いがたい。そもそも学生の間に特になりたい職業も見つからず、周りに習ってなんとなく就職活動をして、たまたま内定が取れたのが今の会社だった。


入社して一年目は右も左も分からず、先輩や所長の後を付いて回り、店の場所、商品の売り込み方、伝票や納品書の書き方を必死に覚え、一人で営業に出るようになってからは得意先を回っては必死に自分の顔と商品を売り込んだ。

新人だからと大目に見られていた部分は二年目にはすっかり無くなり、営業所の壁に張り出された対前年比何%かの数字に追いかけられる毎日が続いた。

三年目に入って仕事はなんとかこなせてはいるが、同期の社員と比べて成績もパッとせず、かといって必死になって出世してやろうという気にもなれず、ただ日々の業務をこなすだけで精一杯だった。




そんなある日、得意先の日の出スーパーの担当者の花岡に、新製品の擦ると消えるマジックペンの売り込みをしている時だった。

「似たようなペンをこの前も他のメーカーさんが売り込みに来とったけどなー、正直どれも一緒やないの?」

花岡は明らかに面倒臭そうに棚の商品をチェックしながら話を聞いていた。

「いえ、それがですねー弊社のはカラーバリエーションも豊富で…」

と商品の説明をしている最中におかしなことが起きた。

話を聞いている花岡の顔にチリチリと黒い線がみえたのである。

一瞬目眩でも起こしたのかと思ったがそうではない。

周りを見回しても黒い線など見えないのに花岡の顔にだけ黒くて細い線が見える。

それはデジタルテレビで電波が悪くなったときに一瞬走るノイズのような感じであった。



商談をそこそこに切り上げてトイレにかけこんで鏡を覗いてみた。

しかし自分で見る限り目におかしな所はなく、あの黒い線も見えなくなっていた。

さっきのは一体何だったんだ?疲れているのかそれとも立ち眩みでも起こしたのか?

とにかく顔を洗ってからトイレを出た。



ドンっと音がして続いて肩に鈍い痛みが走った。

慌ててトイレから出たため出会い頭に歩いてきた買い物中のおばさんとぶつかってしまったのだ。

「すいません」

と頭を下げながらおばさんの方を見ると、明らかに不機嫌そうな顔でブツブツと小声で文句を言っていた。

何を言っているのかは聞き取れなかったが、それよりそのおばさんの顔にはさっき見たあの黒い線がチリチリと浮かんでいるではないか。

僕が何も言わずにジッと顔を見つめているので、おばさんはブツブツ言いながら何処かへ立ち去ってしまった。



スーパーの店内をよく見回してみた、レジ係りのパートタイマーだと思われる女性の顔にも、レジに並ぶ買い物客の顔にも同様の黒い線、ノイズを浮かべている人が数名いた。



どうやらこのノイズは自分にしか見えていないらしい。そしてノイズのある人とない人との違いはイライラしたり不機嫌な人にだけあるように思えた。

なんで自分にだけこんなものが見えるのか、混乱しつつもとりあえず会社に戻って業務の報告をしよう、病院に行くのは明日でいいか…。










医療法人明和病院は昭和45年に開業し、府の救急指定医療機関の認定を受けた総合病院である。

内科、外科、小児科、脳神経外科、眼科、皮膚科、整形外科、泌尿器科、リハビリテーション科、他にもずらっと診療科目が並んでいて、大抵の病気や怪我はここに来れば診てもらえそうだった。


一階の受付待ち合いにはまだ診療開始時間前だというのに大勢の患者さんでいっぱいだった。

中には小さな子供を連れた母親らしき姿もあったが、そのほとんどは65才を越えているであろう高齢者だ。


少子化と長寿化が組み合わさって少子高齢化が進み、現在我が国の65才以上の高齢者の割合は約25%、4人に1人が高齢者である。

2030年には32%、2040年には40%に達する予測が叫ばれている。人口の半分近くが老人という超高齢化社会がやってくるわけだが、自分が定年を迎える頃にはこの国は一体どうなっているのだろうか。

そんなことをぼんやり考えていると

「里中さーん、里中亮平さーん、中待ち合いでお待ちくださーい」スピーカーから自分を呼ぶ声が聞こえた。




眼科、脳神経外科で受診し、脳波やMRI検査まで行ったのだか結果はどこも異常なし。

「飛粉症の症状とは違うようだし、ストレスからくる自律神経性目眩の可能性が高いかもしれないね」

「今はその黒い線は見えていますか?」

かっぷくの良い50代位の医師が診察用のレンズで僕の瞳を覗きながら聞いてくる。

「いえ、今は見えていません。」

あの黒い線は他人の顔を見たときにしか見えない。それもイライラしたり不機嫌そうな人の顔にだけ現れる。

同じ人でも機嫌の良さそうな時にはあの黒い線は現れないのだ。

つまり、あの黒い線は他人の心の中の感情、それも悪い方の、負の感情が視覚的に見えていると言えるだろう。ちょっとイライラしてる程度だとジリジリとノイズが走るように見えるが、とても怒ってる人にはバチバチと火花が飛びそうなほど黒い線が激しく上下に波打って見えるのである。

これは病気なんかではない、犬が人間の数百倍の嗅覚を持つように、コウモリが超音波で周囲の状況を把握するように、自分にだけ与えられた特殊能力なのだ。







診察を終えて待ち合いで診察料の計算を待っている間この能力について考えに耽っていた。

他人の負の感情が視覚的に見える、これが何かの役に立つだろうか。

もっと分かりやすい例えば念力で物が動かせるとか、人の心が読めるとか、または無くしたものを見つけられるとか、そういった能力だったらまだ使い道がありそうなのに…。

子供の頃はウルトラマンや仮面ライダーに憧れた。

もし変身できる力があれば自分も困っている人を助けたり、悪い人をやっつけたり出来るのに、そんな空想をしながらよく変身ごっこをした覚えがある。

そんな事を考えているうちに受付の上部の壁にある電工掲示板に計算が終わった事を示す受付番号が表示された。


清算に向かおうと立ち上がった瞬間

-ゴツン!



頭に衝撃が走り思わずうずくまってしまった。

「いててて…」

「ご、ごめんなさいっ」

女の人の声が聞こえた、どうやら看護師さんとぶつかってしまったらしい。

【森】と書かれた名札を着けた看護師さんが頭を抑えながら、大丈夫ですか?と声をかけてきた。

「すいません、よく周りを見ないで立ち上がったもんだから」

「本当に大丈夫ですか?あ、おでこが赤くなってる!ちょっとこちらへ来てください。」

「あ、いえ平気ですから…」

と言ったにも関わらず看護師さんは僕の腕を強引に引っ張って処置室まで連れていくのだった。

「先生に診てもらいますので」

「そ、それはいくらなんでも大袈裟過ぎます、冷やしてればすぐ治りますから」

目の調子が悪いからと言って午前中の仕事を休んで病院に来ているのだが、これ以上会社に戻るのが遅くなったら上司の池田にまたネチネチと小言を言われるだけだ。

「じゃあ冷やすものを持ってきますので、少し待っててください。」

森という看護師は、本当はちゃんと診察を受けて欲しいが仕方ないといった感じで僕の頭に熱を冷ますひんやりするシートを貼ってれた。

よく見るとこの看護師さんは背がすごく高くスラっとした美人で、何処かのファッションモデルとして十分やっていけそうな容姿をしていた。

「あ、ありがとうございます、もう仕事に戻らないといけないので」

なんだか急に気恥ずかしくなった僕は慌てて処置室から抜け出した。

清算を済ませ足早に会社に向かいながら、あの看護師さんに診てもらえるなら入院してもいいかなあ、などと不謹慎な事を考えていた。









「おい里中、これを見てみろ!」

「お前だけだぞ、今月のノルマ達成出来てないのは!」壁に張り出された月間目標のグラフ指差した池田が顔を真っ赤にして怒鳴っている。

不景気を言い訳にするわけではないが、会社の業績は芳しくない。それでも今月は多くの新商品が発売されたため売り込みもしやすく、ほとんどの営業マンが月始めに所長が勝手に立てたノルマをなんとか達成出来ていた。

あれから数日経つが他人の負の感情がノイズとして視覚的に見えてしまうこの現象は続いていた。

自分の意志とは関係なく無条件に見えてしまうのだからタチが悪い。

「ノイズの事が気になって仕事に集中出来ませんでした」

などと言えるはずもなく、所長の顔に浮かんだ黒い線を見ないように、ただただ頭を下げるしかなかった。





所長の小言から解放されアパートに帰るために最寄りの天満橋駅に向かったのは夜の10時過ぎだった。

小雨の降る中、足早に家路に向かう人たちの間に奇妙な違和感を覚えた。

改札から少し離れた券売機の端の方に深々とフードを被った男が立っている。

男は何をするわけでもなく、ただ目の前を通り過ぎる人々を眺めていた。

それだけなら特に気に止める必要も無いのだが、僕の目はその男に釘付けになってしまった。

その男の顔にはこれまで見たこともないような、どす黒く激しく波打つ黒いノイズが浮かんでいたからである。


こいつはヤバい、咄嗟にそう直感したが男の目的が分からない。

警察を呼ぶか?しかしなんと説明したらいいのか。

ヤバそうな男がいるから捕まえてくれ、これだけだは根拠が無さすぎる。

思案している間に男は大通りに向かってゆっくりと歩き出した。

こうなったら追うしかない!



大通りをを歩くこと数分、男の目的が分かってきた。

男の20メートル位先を傘を指した女の人が歩いている。男はその女性から付かず離れず一定の距離を保って後を付けているのだ。

通り魔か、ひったくりか、あるいはワイセツ目的か?

男は犯行の機会を伺っているのだろう、人気のない暗がりか、あるいは女性の住む部屋まで着いていって押し入る可能性もある。

僕は右手に傘をさしながら、男がぎりぎり視界に入る距離で尾行を続けた。

誰かの後を付けるなんて小学生の時に好きな女の子の家が知りたくて、放課後こっそり付いていった時以来だ。

そんな事を思い出していると、女性は大通りから外れ人気のない路地へと進んでいった。

街灯もまばらになり、周囲には灯りの消えた民家や駐車場があるだけだ。

警察を呼ぶべきかまだ決断できないでいると、男と女性の距離が少しずつ縮まっている気がした。男が歩くスピードを速めたのだ!



やる気だ。男の顔は後からでは見えないが、どす黒いノイズか全身から漂っている。

もう一刻の猶予もない、僕は右手に持った傘を閉じて男に向かって全力疾走した!



「きゃーっ!」という悲鳴と「やめろー!!」と僕が叫んだのはほぼ同時だった。



男は女性に後から抱きついて口を塞ごうとしていたが、その前に叫ばれてしまい、さらに後から大声を上げ傘を振り回して走ってくる人影を見て慌てて逃げ出した。

男の逃げ足は早く、暗闇だったこともあってあっという間に姿が見えなくなってしまった。


「だ、大丈夫ですか?」息を切らしながら女性に声をかけると、その女性はあまりの突然の出来事に呆然としてその場にへたり込んでしまった。

「お怪我はありませんか?」と声をかけようとしたとき、僕の口はだらしなく開いたまま動かなくなっていた。

そこにいるのは先日頭をぶつけた美人の看護師さんだった。









警察の事情聴取から開放されたのは深夜一時を過ぎた頃だったろうか。

携帯電話で通報して駆けつけたお巡りさんに状況を説明し、後からやってきた強行犯係の刑事さんに一連の流れを説明し、署で詳しく聞かせてくださいとパトカーに乗せられ、警察署で別の刑事さんにまた最初から説明を求められ、あと何度同じことを繰り返し説明すればいいのやら・・・

そう思っていた時に

「今日はもう遅いので後日また改めてお話をお聞かせください」

と言って質問攻めからようやく開放されたのであった。

被害者である看護師の森さんとは別の部屋で事情を聞かれていたので心配になって彼女の様子を聞いてみたところ、段々落ち着いて話が出来るようになってきたものの、今日のところは精神的な負担も大きいだろうということで早々に事情聴取を切り上げ、パトカーで女性警察官に付き添われて自宅まで送って帰られたようだった。

男だからか被害者ではないからなのかは分からないが、自分には付き添いも無く、当然パトカーの送迎もあるはずが無く歩いて帰れということらしい。終電もとっくにないからタクシーでも拾うしかない。

また後日警察署に出向いて同じ説明を繰り返すのは億劫だったが、それでも今は気分がとても高揚していた。

これまで何の役にも立たず、むしろ仕事や日常生活の邪魔になっていたこの能力が今日初めて人の役に立った。そして何よりあの看護師さんとまた会えた事とはからずも助けられたことがとても誇らしかった。










事件から数日が経ったが僕の生活にこれといって変化も無く、朝起きては電車に乗って会社へ行き、得意先を回って担当者のご機嫌を取りつつ商品の売込みをし、帰社して所長に業務報告をしていつもの小言を聞いてから帰宅するというなんともつまらない毎日を送っていた。

しかし、そんな日常を吹き飛ばす大事件が発生した!


「おーい里中! お前にお客さんが来てるぞー!」


誰だろうと営業所の入り口を振り返ってみるとなんとあの看護師の森さんが自分を訪ねてきたのである!


「えっと、あのっ、そのっ・・・先日は・・・ああっ!」


突然の訪問に完全に舞い上がってしまった僕は、まともに会話も出来ないほどに動揺し、さらには机の脚に引っかかって無様に転んだのである。


「大丈夫ですか?」


同僚の失笑が聞こえる中、彼女はそっと手を差し伸べてくれていた。



「先日は危ないところを助けていただきありがとうございました。」

「本当はもっと早くに伺いたかったのですが、警察に行ったり仕事もあってお礼が遅くなってすいませんでした」


「ああ、いえ自分はたまたま通りかかっただけですし、お怪我がなくて良かったです。」


丁寧に頭を下げる彼女にそれだけ言うのが精一杯だった。


「おでこ、もう大丈夫ですか?」


病院では頭をぶつけたり、さっきも慌てて転んでしまったし、ドジなところばかり見られてる。

頭をポリポリ掻きながら彼女には自分の姿がどう映っているのかが気になった。

そういえば今朝ちゃんと髭剃ったっけ、このカッターシャツはいつクリーニングに出したんだったか。







初めて女性と付き合ったのは高校二年の時だった。

バイクの免許が取りたくてアルバイトをしているとき、同じバイト先の喫茶店で一緒に働いていた同い年の子と仲良くなり、積極的に話しかけてくる彼女に流されるまま付き合うようになった。

バイト中によくオーダーを間違えたり、洗い物の最中にお皿を割ったり、ドジなところがなんとなく放っておけなかったそうだ。

大学に進学してから付き合った彼女は、コンパで知り合った一つ年下の短大生だった。

ショートカットでサッカー好きなその子は特にタイプというわけでもなかったのだが、酔った彼女を介抱してあげたのだが良かったのか、後日彼女の方から会いたいとメールがあり何となくそのまま付き合うようになった。

その半年後には他に好きな人ができたと一方的な別れを告げられることになるのだが。

そんなわけで恋愛に積極的でない僕は、決して女の人に興味がないわけではなく、自分から声をかけたり、告白したり、そういうことが出来ない臆病な人間なのである。

就職してからは毎日職場とアパートの間を往復するだけで出会いなどあるはずもなく、疲れて帰ってはベッドに倒れこむ生活の中でそういった恋愛感情を感じることさえいつの間にか無くなっていた。



ところがこの前のあの事件から僕の心の中である大きな変化が生じていた。

看護師の森佳奈江さん。

美人でスタイルが良くて礼儀正しくて、僕の人生であんなに素敵な人に出会ったのは初めてだ。

気がつけばいつもあの人の事が頭に浮かんでくる。

先日営業所を訪ねてきてくれた時は、助けてくれたお礼にと高そうなブランド物のカッターシャツとネクタイを手渡されていた。

6帖しかないアパートの部屋で何度も試着してみたのだが、2着29800円で買った安物のスーツにはどうやっても合うはずがなかった。

このシャツが似合うスーツを着るには今の自分では何かが足りない、そう感じ始めていた。





「おい里中、日の出スーパーに折衝中だった例の件はどうなった?」


このところ小言を聞かされることの少なくなった所長の池田が電卓を叩きながら聞いてきた。

所長とはいっても営業マンであることに変わりはない、自分の担当店もあり他の社員と同様に売上目標の数字を持っているのだ。個人の成績と営業所全体の成績を伸ばさなくてはならない。

そうしなければ月に一回ある地区全体での営業会議で本部のおエライさん方から吊し上げを喰らうことになるからだ。

僕たち一般社員が帰宅したあともいつも1人で営業所に残って報告書を纏めたりしている。

たしか僕が入社した年に念願のマイホームを手に入れて、奥さんと小学生の娘さんと三人で暮らしているはずだ。

営業所では社員から小言ばかりでうるさいと嫌われる所長も、家に帰れば案外家族思いのいいお父さんなのかもしれない。


「担当者と納品計画の打ち合わせは終わってますので、今売り場のスペースを開けてもらっている所です、明日には全部納品する予定になってます」


このところ僕の営業成績は悪くない、例のノイズは相変わらず見えているのだが最近ちょっとした活用法を発見した。

【君子危うきに近寄らず】というやつだ。

つまり誰かと会話するときノイズの強弱を見て話をするのだ。

ノイズが強くなって相手の機嫌が悪くなってきたら話題を変えたり、ノイズが収まったらここぞとばかりに納品の話を進めたりして、まさに顔色を伺いながら話すということがリアルに出来るようになったわけだ。

その効果があったのかは判らないが、今月は早々にノルマを達成し、家に帰る時間も少し早くなった。

営業成績が悪いときは同僚や所長の目を気にして、なかなか先に帰るとは言い出せず、営業所に遅くまで残っていたのたが、今月は堂々と帰宅することが出来るのである。




営業所を出て天満橋駅に向かって歩き出したのはまだ21時にもなっていない時間だった。

こんなに早く帰るのは久しぶりだと思いながらも、家に帰ってもテレビを観るくらいだろうか、特にしたいことが思い付かない。

こんなとき親しい同僚でもいれば一杯飲んで行くかーとなるのだろうが、営業所でも浮いた存在である僕にはそういった友人がいなかった。

小雨が降る中傘を指して歩く人々の姿を見てあることを思い出した僕は、駅とは反対の方向に歩き出していた。







10分ほど歩いただろうか、僕は明和総合病院の正面玄関の前に立っていた。

どこか具合が悪いわけではない、そもそも診療時間はとっくに終わっている。

救急の方は夜間救急用出入り口にお廻り下さい、そう書かれた看板がポツンと入り口に置いてあった。

ガラス越しに病院の中を覗いてみると、昼間は診察に訪れる人でごった返していた待ち合いが、人影もなく嘘みたいに静まりかえっていた。

森さんはまだ病院にいるだろうか。

なんとなくここまできてしまったが、決してあの看護師さんに会うために来たわけではない。

もちろん会いたくない訳ではないのだが、今会ったところで何を話せばいいのか。ただなんとなく彼女が働いている病院を改めて見てみたかったのである。



とはいうもののやはり会いたい、いやせめて遠くから姿だけでも見てみたい。

もし会うことが出来たらシャツとネクタイのお礼を言おう。

手渡された時は紙袋に入っていて中身を確認しなかったから、まさかあんな高価なブランド物が入っているとは思わなかったのだ。

お礼を言うくらいなら変だとは思われないだろう。

問題はその方法だが、彼女がここで勤務しているのは間違いないが、看護師さんのシフトは不規則だ。早番遅番夜勤もあるし、休日だって分からない。

ナースステーションまで訪ねて行くのが確実だが勤務中にわざわざ訪ねて行くのはさすがに迷惑だろうと思った。

だから僕は賭けをすることにした。

今日から一週間、仕事が終わってからここで1時間だけ待ってみよう、もし彼女と何

かの縁があるなら会えるかもしれない。

会えなかったら諦めろということだ。

他人が聞いたら確実にバカにされそうなしょうもない賭けだが、小心者の僕には背中を押してくれる何か運命的なものが必要だったのだ。







賭け事には向き不向きがあるというが、僕は間違いなく後者だ。

これまでパチンコ、競馬、競艇、麻雀、学生の時に友人に誘われ、ギャンブルと名の付くものは一通りやってみたのたが一度も勝った試しがない。

ビギナーズラックなどというものが自分には無縁の存在であるということがわかった今、ギャンブルには一切手を出していない。

あれから3日が経ち、毎日病院の入り口前の道路で待ち続けているが、未だに彼女の姿を見るという最低限の目標さえ果たせていない。

やはり自分には賭け事は向いていないのだ、そう思い始めたとき、ふと気付いた。

病院で働いてる人達は正面玄関からでなく、裏にある従業員専用の出入口から出入りすることに。

ああ、自分はなんてアホなんだ、待っている間なんと話そうかと頭の中でシミュレーションを繰り返していて、そんな事にも気付かないとは。

3日間僕はなんの意味もなくここで立ち続けていたわけだ。

自分のバカさ加減に呆れながら従業員専用出入口は何処だろうと、建物の裏側に回って敷地をうろうろしていたところ突然後から声をかけられた。

「もしかして里中さん?」

振り返った僕の目に飛び込んできたのはあの人だった。

とうやら僕は人生で初めて賭けに勝ったらしい。




























































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