蜉蝣はビー玉になりたい
「――何考えてんだ?」
紗綾を扇いでいた手を止め、彼の額に乗っている手拭いを取ったとき、俺は紗綾の目が外に向いていることに気づいた。外は今、一年の中で最も騒がしいのではないかと思うくらいにぎやかだ。
「ん、外に、出たいなと」
やはり。今日は祭りが行われている。
「紗綾、お前バカか。真夏に高熱出して、床から起き上がることすら出来ないヤツが何言ってんだよ」
紗綾はもう一週間以上床に着いていた。熱は高く、夏の暑さも相まって食べ物を受け付けない。前、やっとのことで食べ物と呼べるものを口にしたのは三日前のことだ。当然体力もがくんと落ちた。
口だけは達者なままだが、声に少しずつ張りが無くなっているのが、長年の付き合いで分かった。
「高田くん、今日はお祭りだよ?久々に家を抜け出して、色々見たいと思ってたんだ……」
熱が高いために気が緩んでいたのだろうか。紗綾はいつも無表情であるその顔をわずかに歪ませ、小さく溜息をついた。
そう。紗綾は家から出ることを許されていない。小さい頃からずっとそうだった。たまに外出を許されたときも、俺が絶対に御付としてついていた。そうでなければならなかった。
「……行けないもんは、仕方ねえだろ」
「そうだね。あーあ、つまんない。――そうだ、高田くん」
「何だ?」
「お金渡すからさ、いつもみたいに買ってきてくれ。みぞれ玉。他にもさ、君がいいと思うものを。多分、食べられると思うから。今はいつもの離れじゃないから、行くのは簡単だろう?」
紗綾が上がらない手をずるずる引きずって、財布がある場所を示す。浴衣から伸びる腕はひどく白くて、とても細くて。
胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
白く細い腕をまた床の中に戻し、手拭いを水に浸したあと、絞るのと同時に声を出した。
「分かった。買ってくる。女中さんもちょうど来たし、代わってもらおう」
手拭いを畳んで紗綾の額に乗せる。俺がたすきを外し、袖を直して立ち上がると、女中が氷水をたらいに入れて部屋に持ってきた。氷枕を取り替えるのだろう。
「いってらっしゃい」
紗綾が小さな声で、そう言った。
俺は下駄をつっかけ、じりじり焼ける日差しの中を駆けた。まずは駄菓子屋。
「おい、おばば!みぞれ玉っ!」
肩で息をしながら言うと、しばらくしてかくしゃくとした老婆が出てきた。おばば。この村の人全員からそう呼ばれている。
「なんだい。祭りの日も紗綾様と一緒か。ん?紗綾様は、身体の具合が思わしくないようだねえ」
「もう一週間以上も寝付いたままさ。ずっと四〇度くらいの熱が続いてて、何も食べられなかったんだが、今やっとなんか食べるって言ったから」
実を言うと少し違う。食べられないわけではない。食欲は普通にあるのだ。しかし、大丈夫だろうと食べさせてみると。
全部戻してしまうのだ。
三日前に受け付けたのは飴湯一杯。それだけ。食欲があるからお腹が空いたのは分かる。気持ち悪いわけでもないから、食べさせても良いように思う。でも、食べれば吐く。話している途中にお腹空いたと言われても、騙し騙しに水を飲ませることしか出来ない。惨い仕打ちだと思う。
「紗綾様はみぞれ玉がお好きだからねぇ……。いつも通り、一袋でいいんだね?他にも何か」
おばばが周りを見回し、一つのものを手に取る。
様々な色、さまざまな大きさの玉が入った、こぶし大の黄色いネット。
「前はおはじきを買って行かれただろう?だから、次はビー玉、ってのは」
紗綾はガラス細工が大好きで、たくさん蒐集している。
いいかもしれない。
「買う。おばば、気ィきくじゃん」
代金をきっちり払い、また走る。次は、神社。祭りが行われている表に、浴衣の裾がはだけるのも構わずに走る。親父がいなくて本当によかった。もしここに親父がいたら、頭を一発殴られて延々と説教が続いたに違いない。『お前には富樫家に仕える者としての誇りが無いのか』とか、『お前の行動が紗綾様の風評に関わるのだからな』とかなんて。
神社に着いた頃にはすっかり息があがり、日陰で膝に手をつき、息を整えた。
「おっ、タカじゃん。今日はお勤めじゃなかったっけ?」
クラスメイトの三上だ。嫌な奴と遭遇してしまった。三上は話し出すと止まらないという悪癖を持っている。しかも、聞いている相手を絶対に逃さない。捕まったが最後、夕方まで帰ることは出来ないだろう。紗綾が待っているのに。
「すまん、三上。俺、お使いの途中なんだ、またあとでな」
さっさとその場から立ち去ろうとすれば。
「つれないこと言うなって。そんなに急がなくても、祭りは逃げない!」
――手前から逃げたいんだよ!
内心はそう思う。口には出さないが。
「いえ、紗綾様が頼まれたものですから、急がないといけないんです。女中に任せてきてしまいましたし」
仕事の口調で切り抜けようと試みるも。
「紗綾様だって気を利かせてくれたんだって!使用人思いの主人、いいねえ」
「とにかく、私は急いでいます。仕事の邪魔をしないで下さい!」
「なんだよー、いきなりかしこまって。ほらほら、あっちに……」
何を言っても聞く気は無いようだ。こういうときは親父にいてほしかった(さっきの言い分と矛盾しているのは重々承知している)。しかし、親父は現当主のところでお仕えしている最中。当主は祭りの間、ずっと村人と交流している。そんなときに御付が主人の元を離れるなど、ありえない。
仕方ない。
「かざぐるま、どこで売ってますか?」
どのように店が並んでいるかも分からないのだ。三上には案内役になってもらおう。紗綾の好きそうな物を買うための。
*****
「あ、りんご飴一つ。姫りんごで」
「はいよ、タカ。紗綾様は、どうなんだい?」
「まあまあってとこですかね」
紗綾が気に入りそうなものだけを買った。かざぐるまに始まり、お面、ぽっぴん、わたあめ、水笛、その他色々。お祭りらしく、かつ、涼しげなものを。これくらいでいいだろう。もうそろそろ戻らなければ。
「三上、私はもう行きます。飴が溶ける前に、主人のところに行かないと。紗綾様がお待ちです」
「えー。何だよ、いいじゃん。女中が付いてるんだろ?」
「戻ります。またあとで」
「当主になれないかもしれない紗綾様に仕えて、楽しいか?」
「……は?」
富樫家を受け継ぐのは、代々直系の男子と決まっている。複数の場合は長男。長男が亡くなった場合は順番で。紗綾には二歳年下の綾人様という弟がいるが。
「知らなかったのか?当主はお認めにならないらしいから、公式なものじゃないけど。紗綾様は身体が弱いから、もし紗綾様が当主になっても跡継ぎが残せるかっていう問題が出てくる。それで、周りから次男の綾人様を特例として時期当主に据えようっていう話があったんだぜ。去年の祭りで、そーゆー意見も結構減ったらしいけどな」
知らなかった。でも。
彼が知らないなどということがあるだろうか。次期当主としていろいろな人と会い、視てきた彼が。気づかないということがあるだろうか。
そんなはず、ない。
紗綾は、俺が今まで見てきた限り、一度も人の想いを視落としたことはない。
じゃあ紗綾は、それを自分一人で抱えていたことになる。俺に相談せずに、たった一人で悩んでいたかもしれない。そうであったとしたら、俺は御付失格の大馬鹿者だ。
「――帰る」
三上に背を向け、林の中を抜ける。ここは俺の領域。万が一にも、三上は追いつけない。たとえ俺が下駄だとしても。
「どうしたんだい、高田くん。ずいぶん早く帰ってきたね。てっきり誰かに捕まっているものだと思ったけれど」
息を切らしたまま、縁側から直接部屋に入る。簾を上げたときに紗綾が眩しそうに目をつむった。
「ほら、飴」
紗綾を直視できない。直視すれば、彼は俺の心を読んでしまう。
顔を背けたまま紗綾にみぞれ玉の入った袋を渡す。
「あ、私は、ここで、失礼します」
女中さんが部屋から出て行った。沈黙が流れる。何を話せばいいのか、分からない。どう切り出せばいいのか、分からない。悔しさだけがつのっていく。
唐突に紗綾が。
「高田くん、君、何で泣いてるんだい?僕が次期当主を継げないかもしれないと知ったからって、君が泣くことはないだろう」
「泣いてなんか」
ないと思った。でも、気づけば頬が濡れている。そして、疑問が浮かんだ。顔を見られるのも構わずに紗綾のほうを向く。
「どうやって、俺の心を読んだ」
「簡単なことさ。僕に言いづらそうにすることなんて、みんな一緒。去年なんか特にそうだったな。祭りのとき、一部の人間が僕に対して引きつった笑みを浮かべた。分かりやすいね。それで、心を読ませてもらって、僕が次期当主になれないかもしれないことが分かった。砂糖菓子で作ったお城より甘く優しい君のことだから、誰かからそれを聞いて、聞くに堪えなくなったんだろう。そして、走って戻ってきたのはいいが僕にどう話しかければいいのか分からないから、とりあえず心を読まれないように顔を背けた。ただの暇つぶしの推理だよ」
「何で、泣いてるって」
「涙は匂いで分かるよ。夏は乾くのが早いだろう?特に匂いが分かりやすくなる」
紗綾の手が伸びる。そばにあった新しい手拭いを掴み、ずいと俺のほうに押し出した。ぷるぷる震えているところからみて、腕を上に上げようとしているに違いない。手を貸して浮かすと、手拭いを俺の顔に放り投げた。予想外の展開にまともに手拭いをくらってしまう。
「君の泣いた顔は面白くない。いつも通り怒るか笑うかしてくれ、調子が狂う」
「……何それ、けなしてんの」
「褒めてるんだ。珍しいことなんだからありがたく受け取れ」
自分で自分が褒めることを珍しいというとは。
俺は思わず吹き出した。そのまま顔を拭い、また紗綾と顔をあわせる。気恥ずかしくも笑って見せると、紗綾は満足げに頷いた。
「紗綾は良いのか?こんなに束縛された生活送ってきたのに、結局次期当主になれませんでしたって言われても」
俺は嫌だと思う。だって、もしそうなったら。
俺の心の中に気づいているのかどうか、寂しげに彼は言った。
「僕は、もし出られたとしてもこの身体だから。どうせ寝付いていたさ。すでに死んでいたという可能性だってある」
「死んっ……」
そうだ。彼は自分の命を、身体を、心を、どうでもいいと思うという悪癖があるのだ。
他人のそれらは、自分に代えても守るくせに。
「ないと思うかい?僕は他人に比べれば、そうだな……蜉蝣みたいなものだよ」
カゲロウは羽化してからの命が、数時間、そして長くて二・三日。
せっかく外界に出られたとしても短い間しか生きられない。そんな、自分への皮肉なのだろう。
「巧いなんて言わねえぞ」
「言われるつもりもないさ」
紗綾が大きく息をついた。疲れたのだろう。汗がにじんでいる。もう一つ新しい手拭いがあったので汗を拭う。手をまた布団の中に戻そうとすれば、逆に手をつかまれ、じっと見つめられた。
「何だよ、水がほしいか?つか、まだみぞれ玉食ってねえじゃん」
ただただ、紗綾は俺を見ている。
「何なん――」
「僕が今何を考えているか、当ててみるといいよ。当てられなかったら罰ゲーム」
いきなり、何を言うのか。しかし、紗綾はあくまで本気だ。当てなければ、罰ゲーム。
「えー、んー、あ!外に、出たい」
さっき言っていたではないか。自信満々で答えれば、呆れたように眉を上げる紗綾。
「違う。はい、罰ゲーム。話を聞いてもらうよ」
「でも、お前、疲れてるんじゃ」
俺の言うことに聞く耳も持たず、紗綾は話を始めた。
「僕がぐずぐず生きてるから悪いんだねえ。いっそ死んでしまえばいいと思うのに。そうじゃないかい?僕が生きてるから跡継ぎ問題が起きて、富樫家がぐらつく。お父様やお母様もいちいち気を遣わないといけない。綾人も僕と比べられる。君だって」
何を、言うのだ。
「高田家は昔から富樫家に仕えてきて、長男が富樫家の跡継ぎの御付になるんだよね」
確かにそうだ。俺は高田家の人間、しかも長男だから、自動的に次期当主にお仕えすることになる。
「僕が死んでしまえば君はさっさと綾人に仕えられるのに」
紗綾が死んでしまうと、俺は綾人様に仕えることになる。そうだ。
「さっき君は『紗綾が次期当主にならなくなったら、綾人様に仕えることになる』って思っただろう」
思った。しかし、それは。違うんだ。何で分からないんだ。
「君は優しいから、僕に負い目を感じるんだね」
違う。いつもぴたりと真実を当てるのに。彼は何を言っているんだ。俺は、負い目を感じるわけじゃ。何で分からないんだ。
「でも、僕が死んでしまえば」
戯言も、いいかげんにしろ。
「――――」
「は?」
彼が聞きなおす。聞こえなかったのか。もっと小さい音は聞こえるというのに。
「馬鹿だ、紗綾は本当に馬鹿だ、ふざけんじゃねえ、死ぬこと前提かよ、死ぬなんて軽々しく言うなよ、死ねばいいなんて、自分のこと、言うなんて、そんなの」
暑い。熱い。夏の暑さに、ますます目頭が熱くなって。
「俺は、一人にしか、仕える気は、ねえよ。紗綾にしか、仕えたくない。お前が死んだら、そんなこと、考えたくねえけど、俺は」
声がつまる。主人である紗綾の言いつけを守れない俺は馬鹿だと思う。泣くな、笑うか怒るかしろと言われたのに。怒ってもいるが、泣いてもいるなんて。
「高田家を出る」
この一言は、はっきり出た。
紗綾が、目を見開いた。
「何を言っているんだい。それに、泣くんじゃないと言っているだろう?」
紗綾の命令だ。なのに、涙を止められない。しまいに俺は、嗚咽を漏らして泣いていた。掴んでいた紗綾の腕はやはりとても細くて。少し力を込めれば霞のように消えてしまいそうで。そんな儚げな存在が、誰よりも優しく強いのだと知っていて。それがずっと在ってほしいと願っている自分を知っていて。
「俺は、俺は、っ」
言わなくても、彼は分かるのだ。掴んだ腕の手が、子供をあやすように規則的に俺の腕をぽんぽん叩いた。小さい頃にかえった気がした。怖い夢を見た子供のように。俺は、泣いた。
どれくらい経っただろうか。
涙がやっと止まる。冷静になる。自分の行動を省みる。紗綾の規則的な動きにつられて、頭もよく働く。
「あ、涙止まった。もう大丈夫かい?高田くん」
つまり、俺は、五歳も年下の紗綾にあやされていたということになる。中一の男子が。
「……ごめん、もう大丈夫、あ、ありがとう」
真っ赤になってやっとのことで声を出す。穴があったら、入りたい。
「別に。綾人もお父様に怒られたら僕のところに泣きに来るよ。君もいつも見ているじゃあないか。ただ、感情が抑えきれなくなっただけ。人間なら誰だってあることだよ。謝ることない」
俺は、五歳児と同一視されているらしい。
でも、いつも通りの紗綾だ。
「そうだな。――紗綾、疲れてないか?」
「いや、お腹すいた。君、お祭りで何か買ってきただろう?そっちを食べるよ」
そうだ、わたあめ。
「やべ、溶けてねえかな。あ、大丈夫だ。紗綾、りんご飴とわたあめがあるけど、どっち食べる?」
「わたあめ。りんご飴は君が食べたまえ。あ、一口ほしいかもしれないが」
「どっちだよ」
わたあめを出す。一口大の大きさに取り、紗綾の口に入れた。自分の口にも入れる。それをしばらく繰り返した。
「他には何を買ってきたのかな。見てみたい」
紗綾が、笑ってそう言った。仕えてきたから分かる、彼の本当の笑顔。紗綾は本当に笑うとき、判別できるぎりぎりのところまでしか口角を上げないのだ。
「ほら、お面。かぶっとくとお祭り気分だろ。それに、かざぐるまだろ、それに……」
「ははっ、本当に。お祭りに行ったみたいだ。僕がほしいと思うものばかりじゃないか。これも一種のお祭り気分だな」
ざらり
「?それは」
黄色いネット。中には様々な色、様々な大きさの玉。
「ビー玉。好きだろ、紗綾」
開けて、中身を彼の手の上に乗せてやる。
こぼれた。
畳にころころと広がるガラス玉。
「いけね、今拾う」
「いいよ。このままにして」
「なんで」
「高田くんも横になれば分かるよ。やってみるといい」
つまり、横になれということか。言われたとおり、紗綾の視界の少し下で横になる。
「わ」
「ね、高田くん。綺麗じゃないかい?だから、このままでいいよ」
ビー玉が、簾の隙間から差す陽を反射してきらきら輝く。ビー玉自身は、外の景色を映し、自分の中に閉じ込めている。
なんだろう。幻想的だ。
「さっきの、僕の発言を訂正する」
いきなり彼は言った。
「今僕は蜉蝣だけれど、いつかあのビー玉みたいになりたいと思う。生きる時間はもっと短くなる、映す景色は一瞬でしかないけれど、それでもいい。誰かに覚えていてもらえるような、忘れられないような綺麗なものを残したい」
ねえ?高田くん。
彼は俺にそう問うた。
――そんな、簡単なことか。
――もう、叶っているじゃないか。
――紗綾に仕えて、俺はもう紗綾から。
――忘れられないくらい綺麗なものをもらったのに。
俺の心を読んだのだろうか。
熱に浮かされていただけだろうか。
紗綾は、頷くようにゆっくりまぶたを閉じた。