花を探す王子と笑わない姫
厳かなオルガンの音が教会内に響き渡り、ステンドグラス越しの柔らかな日差しが床に色とりどりの光を落としていた。
大きな結婚式会場の中央で、アンはゆっくりと天井を見上げる。
――きっと、大丈夫だわ。
そう心の中で繰り返しながら。
異国の地に、たった一人で嫁いできたアンは、自国では「機械姫」と蔑まれてきた存在だった。
それというのも、アンは表情が乏しく、感情を言葉にするのも苦手で、人からは不気味だと距離を置かれることが多かったのだ。
成長するにつれ、少しはましになったと自負している。だが頬の筋肉はいまだ固く、笑おうとすれば、まるでギギギと音を立てそうなほどぎこちない。
そんなアンの結婚相手は、隣国の王子・クライオ。
国同士の催しで数回顔を合わせたことはあるが、会話らしい会話を交わしたのは数えるほどだ。アンの記憶に残っているクライオは、年下らしいあどけさの残る、どこかかわいらしい少年だった。
……コルセットで腹部を強く締め付けられ、気分が悪くなり、パーティー会場の外でうずくまっていたアンに声をかけてくれたのも、彼だった。
――もう、あれから十年は経っただろうか。
アンはもう一度、小さく胸の内で呟く。
「きっと、大丈夫」
目を閉じ、静かに深呼吸をすると、来賓たちのひそひそとした声が耳に届いてくる。
「クライオ様が結婚ねえ……」
「あの“氷の王子”でしょう?」
「戦場に出るのが好きで、血を見ることを厭わないとか……」
「王に嫌われて、戦に送り出されているとも聞いたわ」
「あんな方に嫁ぐなんて……お気の毒に」
小声ながら、言葉ははっきりとアンの耳に届いた。
表情は変わらないまま、背中を冷たい汗が伝う。
そして今、結婚式が始まっているというのに、アンが教会の中央で一人立たされている理由――それは、新郎がまだ到着していないからだった。
来賓たちは不審げな視線を交わし、「かわいそうな政略結婚だ」とささやいている。
――式の最中だというのに。
……幼いころのクライオは、しゃがみ込むアンに濡らしたタオルを差し出し、子犬のような瞳で首をかしげながら「……大丈夫?」と声をかけてくれた少年だった。
あの可愛らしい少年が、どう転べば“血を見るのが好きな氷の王子”などという評判になるのだろう。
アンは小さく頭を振る。噂は噂だ。
クライオはほとんど戦場に出ており、王宮の使用人ですら交流が少ないという話も聞いている。
……それはそれで、少し恐ろしいが。
「それにしても、隣国のお姫様……表情が変わりませんね」
「緊張しているのかしら」
「でも、ここまで無表情だと、少し……」
――気味が悪い。
その言葉が耳に届いた瞬間、教会の扉が勢いよく開いた。
来賓たちとともに顔を上げたアンは、思わず目を見開く。
カツ、カツ、と重い足音を響かせながら、大柄な男がアンの隣に並んだ。
アンより頭二つは高い。
恐る恐る見上げると、男もまたアンを見下ろしていた。
何か言おうとしたのか、口を開いたその瞬間――神父の大きな咳払いが教会に響き、男は言葉を飲み込んだ。
「ええ……新郎、クライオ。健やかなる時も病める時も――」
神父の誓いの言葉を聞き、アンはようやく理解する。この隣に立つ大男こそが、クライオなのだと。
横目で見ると、表情はよく見えないものの、陽光を受けた銀髪がきらきらと輝いていた。
「……新婦、アン!」
神父に名を呼ばれ、アンは小さく肩を跳ねさせた。
「…誓いますか?」
「……誓います」
小さな声でそう答えると、式は滞りなく進んでいった。"
"式が終わると、盛大な披露宴が催された。
パーティー会場では次々と来賓がクライオとアンのもとを訪れ、祝福の言葉を口にする。
式の最中に噂話をしていた者たちとも顔を合わせたが、誰もが一様に
「おめでとうございます」
「お二人ともお美しく、お似合いで……」
と、当たり障りのない言葉を並べるだけだった。
アンは微笑んでいるつもりだったが、やはり表情はこわばっていたらしい。挨拶を終えた来賓たちは、最後にはどこか気まずそうに視線を逸らし、足早に去っていく。
――やはり、私は不気味なのだろうか。
クライオと言葉を交わせる機会があれば、と思っていたが、周囲に人が絶えず集まり、結局ほとんど話せないまま時間だけが過ぎていった。
気づけば、パーティーはお開きとなり、一行はクライオの邸宅へと移動していた。
邸宅に揃う使用人たちは皆親切で、アンが戸惑う間もなく、初夜の準備は着々と進められてしまう。
真っ赤な薔薇で飾られた寝室に一人残されたアンは、そっと息を吐いた。
自国を出てからまだ数日しか経っていないというのに、何か月も動き続けてきたかのような疲労が全身にまとわりついている。
今から初夜など、うまくいく気がしなかった。
――正直、今すぐ眠ってしまいたい。
準備を手伝ってくれたメイドたちは口々に「お疲れをお顔に出されないなんて素晴らしいです」と褒めてくれたが、アンの意識はすでに限界に近かった。
クライオが来るのを待つしかないと、ベッドの縁に腰かけて待っていたが、いくら待っても彼は現れない。
一時間、あるいはそれ以上経っただろうか。このままでは夜が明けてしまう。
やがて瞼は重くなり、頭がゆっくりと舟をこぎ、アンの意識は闇に沈んでいった。
次に目を覚ましたとき、部屋には朝日が燦々と差し込んでいた。
――やってしまった。
そう思ったものの、部屋を整えていたメイドはにこやかに「よく眠れましたか」と声をかけてくる。
温かいタオルを受け取り顔を拭きながら、アンは小さく尋ねた。
「……クライオ様は?」
メイドは気まずそうに視線を伏せ、「……朝食はご一緒したいとおっしゃっていました」とだけ答えた。
彼女の反応を見るに、昨夜クライオは部屋に来なかったのだろうか。
アンは、ほっとしたような、少し寂しいような、不思議な気持ちのまま着替えを手伝ってもらう。
そばにいるメイドが、ちらりとアンの顔を見ては、また目を逸らす。
――きっと『何を考えているのかわからない』と混乱しているのだろう。
安心してほしい。自国のメイドたちも、皆同じ反応だった。
食堂に通されたアンは、広い室内を見渡したが、やはりクライオの姿はない。
促されて席に着くと、向かいの席にも食事が用意されていた。
朝食は一緒に、と言っていたのも本当なのか疑わしい。
沈黙が流れる。
アンがカトラリーに手を伸ばさないため、周囲のメイドたちも困った様子だ。
「……いただいても?」
そう尋ねると、そばのメイドがにこりと微笑み、「ご一緒のお飲み物はいかがなさいますか」と暗に許可をくれた。
しばらく食事を口に運んでいたが、耐えきれずアンは尋ねてしまう。
「……クライオ様は、どちらに?」
メイドたちは顔を見合わせ、言葉に詰まる。
「……いいの。ごめんなさい、困らせて」
アンがそう言うと、彼女たちは慌てて「そのようなことは」「私たちも詳しくは……」と頭を下げた。
――これは、ただの政略結婚。
アンもクライオも、この十数年で顔を合わせたのは数えるほど。
アンは自国で「機械姫」と揶揄われ、どこからも嫁ぎ先がないと噂されていた。
そんな姫を引き取ってもらえただけでも、感謝すべきなのだ。
昨日、よい関係を築けたらなどと考えていた自分が、少し恥ずかしく思えた。
食事を終えたアンは、視線を伏せたまま言う。
「……クライオ様には、帰宅されても無理に私に構わなくてよいとお伝えください」
メイドは困った顔をしたが、アンは立ち上がった。
「……そうね。手紙でも書くわ」
その瞬間――
食堂の扉が、荒々しい音を立てて開いた。
昨日の教会と同じだ、とアンは肩を跳ねさせる。
「食べ終わってしまいましたか!」
――クライオが、鎧姿で立っていた。まるで今まで戦場にいたかのような出で立ちだ。
兜を勢いよく脱いだクライオは、ふぅと息を吐き汗でしっとりとした銀髪を揺らした。
「た、食べ終えてしまいました」
アンがそう答えると、クライオは慌てた様子で近づいてくる。
「アンが好きだと言っていた花を、パーティーのあと探しに行ったのですが、なかなか見つからなくて!」
土にまみれた手が差し出され、アンは一輪の花を受け取る。
それは、かつて二人で庭を抜け出したときに咲いていた、雑草のような白い花。
自国ではよく見るが、この国では珍しい。
――あのとき、安心すると呟いたのを、覚えていてくれたのだ。
「……摘んできてくださったのですか」
「知らない国で、心細いだろうと思って」
そう言って笑うクライオを見て、アンは花から目を離せなかった。
「殿下、国境近くまで探しに行かれて……」
後ろの騎士がため息をつく。
「……うれしいです」
アンがそう言うと、「僕もです!」とクライオは笑った。
その後、召使いたちに半ば連行されて風呂に入れられたクライオは、改めてアンの部屋を訪ねてきた。
部屋には、先ほどの花が丁寧に活けられている。
「昨日は……申し訳ありませんでした」
隣に腰かけたクライオは、自然にアンの手を握り、耳の垂れた犬のように頭を下げる。
アンは緊張で「いえ」としか言えず、手のひらに汗をにじませた。
彼は無理な日程で戦に出ており、どうしても式に間に合わなかったらしい。
「……噂では、戦好きの氷の王子と聞いていましたが」
アンがそう言うと、クライオは微笑んだ。
「確かに、そうは見えませんよね」
「……今お話ししているクライオ様は、そんな方には思えません」
「僕は、ずっとアンに憧れていました」
その言葉に、アンは思わず顔を上げる。
「あなたは美しくて、かっこよくて……僕もそうなりたいと思ったんです」
困惑するアンに、クライオは過去を語る。
「僕は頼りないと、威厳がないと、よく言われていました」
そして、あの日の庭での出会い。
「少し休んで、すぐに立ち上がり……表情一つ変えずに戻るあなたを見て、雷に打たれたような衝撃を受けました」
――そんなふうに見られていたなんて。
「優しくて、強くて……」
「……ど、どこがですか?」
「僕を気にかけて、声をかけてくれました」
アンは思い出す。確かに、数えるほどだが声をかけたことがあった。
「僕は、あなたに憧れて強くなれました」
そして――
「だから、あなたに結婚を申し込めた」
アンは言葉を失う。
「あなたは機械なんかじゃない。とてもかわいらしい人です」
クライオの視線がまっすぐで、アンは混乱した。
「勝手なことをして、申し訳ないとは思っています」
視線を落とす彼を見て、アンは思わず小さく笑ってしまった。
「あ、笑いましたね」
「……すみません。なんだか、かわいらしくて」
「僕は真剣です」
「私のような者と結婚したいなんて、酔狂なのはクライオ様くらいでしょう」
「それでいいのです」
「……アン、抱き寄せても?」
「……はい」
勢いよく抱き寄せられ、クライオは幸せそうに息を吐いた。
「これから毎日、花を送ります」
そう言って、彼はアンの額にそっと口づけた。




