第9話 王城大掃除作戦
「……許さない」
濡れ鼠になったベアトリス様が、泥の中でゆらりと立ち上がった。
その形相は、もはや人間のものではなかった。
剥がれ落ちた化粧の下から、どす黒い血管が浮き上がり、目が赤く発光している。
「私が汚れているですって? ……なら、この国ごと汚してやるわよ!!」
彼女が絶叫し、床に拳を叩きつけた。
ズズズズズ……ッ!
地鳴りが響いた。
シャンデリアが激しく揺れ、悲鳴が上がる。
「な、なんだ!?」
「床が……割れるぞ!」
大広間の床石が、ビスケットのように砕け散った。
その裂け目から、噴水のように溢れ出したのは――水ではない。
「うわあああ! なんだこの黒いのは!」
「臭い! 腐った卵の臭いだ!」
黒いヘドロだ。
粘着質で、生き物のように蠢く泥。
それが津波となって、会場の貴族たちに襲いかかった。
(……最悪だ)
私はテラスからその光景を見下ろし、顔をしかめた。
あれはただの泥じゃない。
私の目には見える。
あれは、この城の地下深くに溜め込まれていた「生活排水」と「呪いの滓」の集合体だ。
何百年分もの悪意、嫉妬、怠惰……そういった「精神的ゴミ」が、処理されずに地下タンクに詰め込まれていたのが、一気に逆流したのだ。
「配管詰まりの放置……これだからメンテナンスは重要なんです!」
ヘドロは瞬く間に広がり、逃げ惑う人々を飲み込んでいく。
触れた場所から、美しいドレスが腐食し、肌がただれていく。
「皆、下がれ!!」
その濁流の前に、一人の男が立ちはだかった。
クラウス閣下だ。
彼は両手を広げ、襲い来る黒い波を一身に受け止めた。
「閣下!?」
「くっ……おおおおおっ!」
閣下の体が黒く染まっていく。
彼はヘドロを弾いているのではない。
「吸い込んで」いるのだ。
「私が……全て引き受ける……!」
彼の背中から、無数の黒い管のようなものが伸び、床の裂け目へと突き刺さる。
溢れ出る汚染を、自分の体というフィルターを通して濾過しようとしている。
「ダメだ、逃げろルシア! これは私の役目だ!」
彼が叫ぶ。
その顔半分は、既に黒い結晶に覆われ始めていた。
綺麗な銀髪が、また煤で汚れていく。
「私が魔獣となって、この呪いを封じ込める! 君だけは、君だけは逃げてくれ!」
自己犠牲。
悲劇のヒーロー気取り。
それが彼の「悪い癖」だ。
プチンッ。
私の中で、何かがキレた音がした。
「……ふざけないでください」
私は手すりを乗り越えた。
「ルシア!?」
「私が! せっかく綺麗にしたのに!」
私はテラスから飛び降りた。
ドレスの裾を翻し、重力魔法(先ほど閣下が使った残滓を利用した)でふわりと着地する。
私は泥だらけの床を走り、ヘドロに飲み込まれかけている閣下の背中に飛びついた。
ガシッ!
「なっ、ルシア!? 離れろ、汚れるぞ!」
「汚れる? 今さら何を言ってるんですか!」
私は彼に抱きついたまま、その耳元で怒鳴った。
「貴方は私の管理下にある『洗浄対象』です! 勝手に汚れることは許可しません!」
「しかし、これを止めなければ国が……!」
「止めなくていいんです! 洗えばいいんです!」
私は彼から離れ、ヘドロの発生源である床の裂け目に仁王立ちした。
黒い濁流が私の足元に迫る。
聖水で加工された靴のおかげで、直撃は免れているが、時間の問題だ。
規模が違う。
相手は城全体、いや、この国の歴史そのものの汚れだ。
私の魔力だけでは、スプレー一本で火事を消すようなもの。
「……閣下、魔力を貸してください」
私は振り返り、手を差し出した。
「は?」
「貴方の膨大な魔力を、私に直結してください。私が『変換』します」
「し、しかし……私の魔力は呪い混じりだぞ? 君が耐えられるはずが……」
「信じて!」
私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「貴方の汚れは、私が全部落とすって言ったでしょう?」
赤い瞳が揺れる。
一瞬の逡巡。
そして、彼は覚悟を決めたように、私の手を力強く握り返した。
「……分かった。私の命ごと、君に預ける!」
ドクンッ!
繋いだ手から、膨大なエネルギーが流れ込んできた。
重く、冷たく、そして少し悲しい魔力。
でも、私のフィルターを通せば、それは純粋な「動力源」に変わる。
(いける……!)
私は床に膝をつき、両手をヘドロの中に突っ込んだ。
「汚い……でも、これなら!」
意識を拡張する。
床下へ、壁の中へ、天井裏へ。
城中に張り巡らされた魔力ラインを、私の「水道管」としてイメージする。
地下タンクに溜まったヘドロ。
壁に染み付いた怨念。
ベアトリス様がばら撒いた悪意。
その全てを「洗濯物」としてロックオン。
「起動、全自動洗濯モード!」
私は叫んだ。
「【ロイヤル・グランド・ウォッシュ】!!」
カッ!!!!
城全体が、まばゆい青白い光に包まれた。
ゴゴゴゴゴゴ……!
城が震える。
だが、それは崩壊の振動ではない。
巨大な洗濯機が回り始めた振動だ。
「な、なんだ!?」
「水が……泡が!?」
床の裂け目から溢れ出していた黒いヘドロが、光に触れた瞬間、ブクブクと白く泡立ち始めた。
地下から汲み上げられた地下水と、閣下の魔力が変換された洗浄成分が混ざり合い、激流となって城内を駆け巡る。
ジャブジャブジャブジャブ!!
「うわあああ! 流されるぅぅ!」
貴族たちが泡の波に飲まれる。
だが、誰も溺れない。
その泡は優しく彼らを包み込み、こびりついた汚れだけを吸着していく。
「あ、洗われている……?」
「体が軽い……」
黒いヘドロの中心にいたベアトリス様も、巨大な泡に包まれた。
彼女の体から、どす黒い煙が抜けていく。
それは断末魔のようであり、安堵の溜息のようでもあった。
「閣下、もっと魔力を! 脱水まで一気にいきます!」
「あ、ああ……! すごい、私の魔力が、浄化の光に変わっていく……!」
閣下は私を支えながら、恍惚とした表情で魔力を注ぎ続ける。
私たち二人は、光の渦の中心にいた。
世界が白く染まる。
天井も、壁も、床も。
長年の澱みが剥がれ落ち、本来の白亜の輝きを取り戻していく。
「仕上げです! 柔軟剤投入!」
私が指を鳴らすと、弾けた泡がキラキラとした光の粒子に変わった。
シトラスとシャボンの香りが爆発的に広がる。
シュァアアアアア……。
光が収まると、そこには信じられない光景があった。
床の裂け目は塞がり、新品の大理石のように輝いている。
壁の煤けは消え、シャンデリアはダイヤモンドのような光を放っている。
濡れ鼠だった貴族たちの服は、なぜか乾いてパリッとしており、肌艶も良くなっていた。
そして、窓の外。
夜空にかかっていた分厚い雲(魔導スモッグ)が消え去り、満月がくっきりと浮かんでいる。
さらに、月の光を浴びて、王都の上空に巨大な「夜の虹」がかかっていた。
「……綺麗……」
誰かが呟いた。
誰もが言葉を失い、生まれ変わった城の美しさに魅入っていた。
私はフラリと力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。
「ルシア!」
閣下が私を抱きとめる。
「大丈夫か!?」
「……はい。ちょっと、魔力酔いしました」
私は彼の胸に顔を埋めた。
いい匂いがする。
先ほどまでの呪いの臭いは完全に消え、陽だまりのような匂いがした。
「見てください、閣下。綺麗になりましたよ」
私が指差すと、彼は周囲を見回し、そして信じられないものを見る目で私を見た。
「……城だけじゃない。私の体の中の呪いも……空っぽだ」
彼の真紅の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
それは透明で、美しい涙だった。
「君は……本当に、奇跡だ」
「奇跡じゃありません。技術です」
私が強がって言うと、彼は愛おしそうに笑い、私を強く抱きしめた。
「ありがとう。君が、私の世界を洗い流してくれたんだ」
会場の片隅では、憑き物が落ちたベアトリス様が、老婆のような姿ではなく、年相応の(しかし化粧の落ちた地味な)女性として、呆然と座り込んでいた。
彼女もまた、過剰な装飾という「汚れ」から解放されたのかもしれなかった。
「さて、閣下」
私は彼の腕の中で、ふぅと息を吐いた。
「大掃除は終わりましたけど……これ、後片付け(事後処理)が大変そうですね」
ピカピカになりすぎて、逆に落ち着かない城内を見渡し、私は苦笑した。
「構わない。君となら、どんな面倒事も片付けられる気がする」
閣下は私の額にキスをした。
「それに、これからは私が君の手足となって働く。……一生、君の掃除道具にしてくれ」
「それはちょっと嫌です」
即答すると、閣下は幸せそうに声を上げて笑った。
こうして、王城史上最大かつ最速の「大掃除」は、幕を閉じたのだった。




