第3話 毒のお茶会とシミ抜きスキル
翌朝、八時ちょうど。
私が「魔窟」こと宰相執務室の前に到着すると、そこには奇妙な光景があった。
重厚な黒檀の扉の前に、体育座りをしている男が一人。
銀色の髪を少し乱し、膝に顔を埋めている。
まるで、捨てられた大型犬だ。
「……閣下? そこで何をしているのですか?」
私が声をかけると、彼はバッと顔を上げた。
真紅の瞳が、私を認めてパァッと輝く。
「ルシア……! 遅いぞ!」
宰相クラウス・フォン・アイゼン閣下は、立ち上がるなり私に詰め寄った。
「八時ちょうどです。一分の遅刻もありません」
「待ちくたびれた。君がいないと、空気が重くて息ができない」
彼は当然のように私の手を取り、自分の頬に押し当てた。
ひんやりとした肌の感触。
昨日の「丸洗い」の効果か、彼の肌はまだ白く透き通っている。
けれど、肩のあたりにはうっすらと新しい「煤(呪い)」が積もり始めていた。
(一晩でこれか……。代謝が良いというか、呪われすぎというか)
私はため息をつき、彼の手を優しく、しかし断固として引き剥がした。
「廊下でイチャつくのはやめてください。風紀が乱れます(=汚れます)」
「イチャついてなどいない。これは生存に必要なエネルギー補給だ」
「朝食を食べてください。ゼリー飲料の空容器がゴミ箱に溢れていましたよ」
私が注意すると、彼はバツが悪そうに視線を逸らした。
意外と素直だ。
初対面の時の「殺してやる」オーラはどこへ行ったのか。
綺麗になると、中身まで幼児退行するのだろうか。
その時だった。
カツ、カツ、カツ。
廊下の向こうから、ヒールの音が近づいてきた。
現れたのは、これまた絵に描いたような「高貴な侍女」といった風情の女性だ。
ツンと上を向いた鼻先。
私を見る目は、明らかにゴミを見るそれだった。
「あなたが、新しい清掃係ね?」
彼女は封筒を一枚、私に突き出した。
ふわりと、鼻を刺すような甘ったるい香水の匂いが漂う。
(……臭い)
私は反射的に鼻をつまみそうになるのを堪えた。
この匂い、ただの香水ではない。
何か、こう、ドロドロとした科学物質の匂いがする。
「これは?」
「ベアトリス様からのお招きよ。中庭でのティータイムに、特別に参加を許可してくださるそうですわ」
ベアトリス。
その名前を聞いた瞬間、隣にいたクラウス閣下の空気が変わった。
温度が五度は下がった気がする。
「……断る」
閣下が私の前に立ちはだかり、低い声で言った。
その背中から、黒い刺々しいオーラが噴き出す。
「ルシアは公務中だ。ベアトリス如きの遊びに付き合わせる暇はない」
「さ、宰相閣下……!?」
侍女が青ざめて後ずさる。
無理もない。
今の閣下は、昨日の「魔王モード」に戻りかけている。
「閣下、落ち着いてください。煤が出ます」
私は背後から閣下の袖を引いた。
「ですが、行かないわけにはいきませんよね。相手は次期王妃候補筆頭でしょう?」
それに、私は知っていた。
こういう手合いは、無視すればするほど執着してくる。
汚れと同じだ。
小さいうちに処理(掃除)しておかないと、後で頑固なカビになる。
「行ってきます。すぐに戻りますから」
「だめだ! あの女は危険だ。その香水は……」
「大丈夫です。私、鼻炎薬持ってますから」
私は閣下の制止を振り切り、封筒を受け取った。
「では、休憩時間に伺いますと伝えてください」
*
王城の中庭は、色とりどりの薔薇が咲き乱れる美しい場所だった。
けれど、私の目には「異様」に映った。
(……色が、濃すぎる)
薔薇の赤も、葉の緑も。
まるでペンキで塗りたくったような、不自然な鮮やかさだ。
それに、空気が澱んでいる。
甘い香水の匂いが充満していて、換気の悪い喫煙所にいるような息苦しさがある。
「あら、いらしたのね。ドブネズミさん」
白いガゼボ(西洋風東屋)の下で、優雅に紅茶を傾ける女性がいた。
ベアトリス・ド・パルファン伯爵令嬢。
金の縦ロール髪に、ふわりと広がったピンクのドレス。
お人形のように整った顔立ちは、確かに「社交界の華」と呼ばれるにふさわしい。
けれど。
(うわあ……厚塗り)
私の【洗浄スキル】は、誤魔化しを許さない。
彼女の顔を覆うファンデーションの層。
ドレスの繊維に絡みついた、光沢を出すための魔術的なコーティング剤。
そして何より、彼女自身から立ち上る、タールのような粘着質の「汚れ(悪意)」。
彼女は全身が「加工フィルター」で覆われていた。
「ごきげんよう、ベアトリス様。お招きありがとうございます」
私は清掃員としての礼儀正しさで頭を下げた。
「ふん、礼儀だけは知っているようね。……まあ、座る場所はないのだけれど」
彼女の周囲には、取り巻きの令嬢たちがクスクスと笑いながら座っている。
私に用意された椅子はない。
「いえ、立ち仕事には慣れておりますので」
「そう。……ねえ、あなた。宰相閣下の執務室にいるんですって?」
ベアトリス様が立ち上がり、私に近づいてきた。
香水の匂いが強くなる。
「あの呪われた部屋で、何をしているの? まさか、閣下をたぶらかしているんじゃないでしょうね」
「掃除をしているだけです」
「嘘をおっしゃい! 下級貴族の娘が、色仕掛けで入り込んだという噂よ!」
彼女は扇子で口元を隠しながら、目を細めた。
「身の程を知りなさい。あなたは地べたを這いずり回るのがお似合いよ。……ほら、こうしてね」
次の瞬間。
彼女は持っていたティーカップを、わざとらしく傾けた。
バシャッ。
熱い紅茶ではなく、なみなみと注がれた赤ワインが、私のエプロンにかかった。
「きゃっ! ごめんなさい、手が滑ってしまったわ!」
ベアトリス様が、白々しい悲鳴を上げる。
周囲の令嬢たちが「あらあら」「汚い」「やっぱりドブネズミね」と嘲笑う。
白いエプロンに広がる、毒々しい赤紫のシミ。
普通なら、ここで泣いて謝るか、怒って帰るかだろう。
だが、私は違った。
(……タンニンか)
私は冷静にシミを見つめた。
赤ワインの色素は強力だ。
時間が経てば繊維の奥まで染み込み、酸化して定着する。
だが、今ならまだ間に合う。
液体が表面張力で留まっているこの数秒が勝負だ。
「……あら、何も言わないの? 惨めな格好ねえ」
ベアトリス様が勝ち誇ったように笑う。
その手には、まだワインの滴るグラスが握られている。
私はゆっくりと顔を上げ、ゴム手袋を装着した。
「ベアトリス様」
「何よ?」
「服が汚れているのは、精神衛生上よろしくありません」
私は懐からスプレーボトルを取り出した。
アルカリ電解水と、界面活性剤の混合液。
「綺麗にさせていただきます!」
「は? 何を――」
シュッシュッシュッ!
私は目にも留まらぬ速さで、自分のエプロン、そして――目の前にいたベアトリス様のドレスに噴射した。
「きゃあああっ!? 何をするの!?」
「シミ抜きです! 二次被害(飛び散り)も防ぎます!」
私はエプロンのシミを、クロスで叩くように拭き取った。
スキル発動。
ワインの成分が分解され、水へと変わる。
私のエプロンは、一瞬で真っ白に戻った。
「なっ……!?」
ベアトリス様が目を見開く。
だが、私の仕事はまだ終わっていない。
「ベアトリス様、貴女のドレスにも飛び散っていますよ。……それに」
私は彼女のドレスの袖口を掴んだ。
「このドレス、全体的に『汚れ』がひどいですね」
「は、放しなさい! 汚れなんてあるわけ……」
「いいえ、あります。見栄えを良くするための『幻惑魔法』という名の埃が!」
私の目には見えていた。
安物の生地を高級品に見せるための、安っぽい魔術のコーティングが。
それは繊維の呼吸を妨げる、最悪の「汚れ」だ。
「ついでに洗っておきますね!」
私は容赦なく、彼女のドレス全体にスプレーを浴びせ、拭き上げた。
キュッ、キュッ、キュポンッ!
何か栓が抜けるような音がして。
次の瞬間、ベアトリス様のドレスから、まばゆいピンク色の輝きが消え失せた。
「え……?」
現れたのは、色褪せた薄汚い布切れだった。
鮮やかだったピンクはくすんだ灰色になり、レースはほつれ、あちこちに虫食いの穴がある。
「い、いやぁあああ! 私のドレスが!?」
「あら、魔法というファンデーションを落としたら、随分と年季の入ったドレスですね。古着ですか?」
「ち、違う! これは最高級の……!」
「それに、ここ」
私は彼女の右袖を指差した。
魔法の輝きで隠されていたその部分に、べったりと黒いインクの染みが浮き出ていた。
「このインク……特殊な『改竄防止魔術』に使われるインクですね。普通の洗濯じゃ落ちませんよ?」
「ひっ……!」
ベアトリス様の顔色が、化粧の下で真っ青になるのが分かった。
改竄防止インク。
それは公文書や、裏帳簿のような重要書類に使われるものだ。
それが袖についているということは、彼女が何らかの不正な書き換えを行った証拠。
それを隠すために、ドレス全体に幻惑魔法をかけていたのだ。
「なるほど、このシミを隠すために厚塗りを……。感心しませんね。汚れの上から塗装しても、下地が腐るだけですよ」
私が淡々と説教をすると、周囲の令嬢たちがざわつき始めた。
「ねえ、あのドレス……」
「ボロボロじゃない?」
「インクって、まさか横領の噂……?」
ヒソヒソという声が、ベアトリス様に突き刺さる。
彼女はわなわなと震え、真っ赤になって私を睨みつけた。
「お、覚えてらっしゃい! この無礼者!」
言うなり、彼女はボロボロになったドレスの裾を掴み、脱兎のごとく走り去っていった。
その後ろ姿からは、ポロポロと剥がれ落ちた「メッキ(見栄)」が見えるようだった。
*
「……やれやれ」
私はスプレーをポケットにしまい、手袋を外した。
中庭の空気は、あの毒々しい香水の匂いが消え、少しだけ爽やかになっていた。
「さて、仕事に戻るか」
私は何事もなかったかのように、執務室へと足を向けた。
部屋に戻ると、クラウス閣下が血相を変えて飛んできた。
「ルシア! 無事か!? あの女に何をされた!」
彼は私の肩を掴み、頭のてっぺんから爪先まで検分する。
「ただのお茶会ですよ。少しワインをこぼされましたが、すぐ落としました」
「ワインだと……? 貴様、怪我はないか? 毒は入っていなかったか?」
「大丈夫です。それより閣下」
私は彼の鼻先に、人差し指を突きつけた。
「貴方こそ、私がいない間にまた部屋を散らかしましたね?」
彼の手を離れ、執務机を見る。
そこには、心配のあまり彼が無意識に放出したであろう、新しい煤の山ができていた。
「あ……いや、それは……君が心配で……」
「言い訳無用です。……ほら、座ってください」
私はため息をつきながら、クロスを取り出した。
彼を椅子に座らせ、煤まみれになった髪を拭いてやる。
「……ん」
閣下が目を細め、大人しくされるがままになる。
その顔は、先ほどまでの鬼気迫る表情が嘘のように緩んでいた。
「……いい匂いだ」
彼がボソリと呟く。
「洗剤の匂いです」
「違う。君の……いや、何でもない」
彼は何か言いかけて口をつぐみ、私の手に自分の頬を擦り寄せた。
「……ありがとう、無事でいてくれて」
その声が震えているのを聞いて、私は少しだけ手を止めた。
ベアトリス様のドレスを暴いた時のような爽快感はない。
けれど、この少し手のかかる上司の汚れを落としている時のほうが、なぜか心が落ち着く。
「……当然です。この部屋の掃除が終わるまでは、どこにも行きませんよ」
私がそう言うと、彼は嬉しそうに、そして少し泣きそうな顔で微笑んだ。
(まったく。これじゃあ、どっちが主人なんだか)
私は苦笑しながら、彼の手についた黒い煤を、丁寧に拭き取ってやった。
私の戦いは、まだまだ続きそうだ。
主に、この甘えん坊な宰相閣下のお世話という名の掃除が。




