第2話 宰相様を丸洗い
「……誰の差し金だ」
美貌の青年──宰相クラウス・フォン・アイゼン閣下は、警戒心を露わにして私を睨みつけた。
拭き清められたばかりの頬には、まだ少し水滴が残っている。
宝石のような赤い瞳が、私を射抜くように見据えていた。
「答えろ。第二王子の放った刺客か? それとも隣国の密偵か? 私の結界を素手で破るなど、ただの掃除係であるはずがない」
低い声には、確かな殺気が籠もっていた。
けれど、私はそれどころではなかった。
(……ああ、もう!)
私は彼を無視して、視線を床に向けた。
さっき拭いたばかりの床に、また黒い煤が落ちている。
パラパラと、まるでフケのように。
視線を上げると、クラウス閣下の肩や髪から、黒い煙のようなものが立ち上っていた。
換気扇を回していない焼肉屋のような煙たさだ。
「聞いていますか、閣下」
「質問しているのは私だ! 貴様、何者だ!」
「見てください、ここ!」
私は床を指差して叫んだ。
「さっき拭いたばかりなんです! なのに、貴方が動くたびに汚れるじゃありませんか!」
「は……?」
クラウス閣下が虚を突かれた顔をする。
私の【洗浄スキル】による視界には、はっきりと見えていた。
彼の毛穴という毛穴から、どす黒いヘドロのような汚れが噴き出しているのが。
これでは、いくら部屋を掃除してもいたちごっこだ。
雨漏りのする部屋で、床だけ拭いているようなもの。
原因を断たねばならない。
私は決意を固め、ゴム手袋をパンッと鳴らした。
「閣下、お風呂はどこですか?」
「……何?」
「シャワーでも構いません。まずは発生源である貴方を丸洗いします」
「何を言って……貴様、正気か? 私の体に触れれば、貴様とてタダでは――」
「問答無用!」
私はズカズカと歩み寄り、彼の手首を掴んだ。
「っ!?」
細い。
軍服の上からでも分かるほど、手首は骨ばっていた。
栄養状態が悪いのか、それとも汚れ(ストレス)に蝕まれているのか。
「こ、こら! 放せ! 触るなと言っている!」
「暴れないでください、埃が舞います!」
私は抵抗する閣下を、半ば強引に引きずっていった。
彼は成人男性とは思えないほど軽かったし、何より動きにキレがない。
汚れが関節に詰まって、動きを阻害しているに違いない。
部屋の奥、重厚な扉を開けると、そこは予想通りバスルームだった。
ただし、ここも酷い有様だ。
大理石の浴槽は湯垢で黒ずみ、鏡は水垢で曇って何も映らない。
床にはカビのコロニーができている。
「ひどい……」
絶句する私を見て、クラウス閣下が荒い息で言った。
「だ、だから言っただろう。ここは呪いが吹き溜まる場所だ。普通の人間は入るだけで気が触れる」
「湿気対策がなっていません!」
私は怒りのままにシャワーの栓を捻った。
幸い、王城の魔導給湯器は生きているようだ。
少し錆び混じりの水が出た後、温かいお湯が出てきた。
「服を脱いでください」
「は……断る!!」
閣下は顔を真っ赤にして、自分の襟元をかき合わせた。
「貴様、恥じらいというものがないのか!」
「恥じらいで汚れは落ちません。……いいでしょう、ならば着衣のまま洗います。どうせその軍服も煤まみれですから」
私は棚から木製の椅子(カビていたので一瞬で浄化した)を取り出し、彼を座らせた。
「座ってください」
「くっ……命令するな……」
閣下は不承不承といった様子で、それでも大人しく椅子に座った。
彼も、私の勢いに毒気を抜かれているらしい。
あるいは、単純に体力が尽きているのか。
私はエプロンのポケットから、とっておきの秘密兵器を取り出した。
「さあ、覚悟していただきます」
手には、自家製の「重曹入りオレンジオイル配合シャンプー」。
界面活性剤の力で、どんな頑固な油汚れも分解する最強の洗浄液だ。
「いくら私の【洗浄スキル】でも、物理的な媒介があった方が効果は倍増しますからね」
私はシャワーヘッドを構えた。
「頭からいきますよ!」
「待っ――ごぼっ!?」
容赦なくお湯を浴びせかける。
黒い汚れが混じった排水が、足元を流れていく。
それを見るだけで、私はゾクゾクするほどの快感を覚えた。
これだ。
この汚いものが流れ去る瞬間こそ、掃除の醍醐味。
「ぐ、うぅ……熱い……いや、違う……?」
クラウス閣下が呻き声を上げる。
私は構わず、たっぷりとシャンプーを泡立て、彼の頭に指を這わせた。
ワシャワシャワシャ!
指の腹を使って、頭皮にこびりついた汚れを揉み出すように洗う。
髪の毛一本一本に絡みついた「呪い」という名のタールを、泡で包み込み、引き剥がす。
「あ、が……あ……っ」
閣下の口から、苦しげな、でもどこか甘い吐息が漏れた。
「痛いですか?」
「いや……痛く、ない……。重みが、抜けていく……」
「それは良かったです。かなり固まっているので、強めにいきますね」
私はさらに力を込めた。
爪は立てず、指圧するように。
彼の体から立ち上っていた黒い煙が、私の手元で中和され、白い泡へと変わっていく。
本来なら、この黒い汚れ(呪い)に触れた者は、皮膚が爛れたり精神錯乱したりするらしい(後で聞いた話だ)。
けれど、私のスキル「自己浄化膜」の前では、ただの「ちょっと落ちにくい泥」に過ぎない。
「よし、次は背中です」
私は彼の背中に回り込んだ。
濡れた軍服が肌に張り付いている。
その背中からは、刺々しい黒い結晶のようなものが生えていた。
肩こりの原因はこれか。
「失礼します」
私はスポンジに洗浄液を含ませ、背中をゴシゴシと擦った。
「ひっ……!」
閣下が背中を反らせる。
「そこ、は……! 感覚が……!」
「じっとしていてください。ここが一番汚れています」
私は黒い結晶の根元に狙いを定め、スキルを全開にした。
イメージするのは「剥離」。
不要な付着物を、あるべき姿から切り離す。
パキンッ!
乾いた音と共に、黒い塊が砕け散った。
排水溝へと流れていく黒い濁流。
後に残ったのは、白磁のように滑らかな背中だった。
「ふう……」
私は額の汗を拭い、シャワーで泡を洗い流した。
「どうですか、閣下」
タオルで彼の髪を乱暴に拭きながら、顔を覗き込む。
そこには、もはや「魔物」の面影はなかった。
濡れた銀髪は、照明の光を浴びてキラキラと輝いている。
まつ毛の先まで汚れが落ち、真紅の瞳は澄み渡っていた。
肌の血色も良くなり、病的な白さではなく、透き通るような美しさを放っている。
ただ、その表情だけが奇妙だった。
彼はとろんとした目で私を見上げ、どこか夢見心地な様子なのだ。
「……消えた」
彼が自分の手を見つめて呟く。
「頭の中のノイズが……焼けるような痛みが、ない」
「汚れが落ちれば、スッキリするのは当然です」
私が胸を張って答えると、彼はゆっくりと顔を上げ、私を見た。
その目には、先ほどまでの警戒心はない。
あるのは、信じられないものを見るような驚きと、そして――縋るような熱っぽい光。
ぎゅっ。
不意に、彼の手が私のエプロンの裾を掴んだ。
「か、閣下?」
「……もう一度だ」
「はい?」
「もう一度、触ってくれ。君の手が離れると……また寒くなる」
彼は震えながら、私の手を自分の頬に押し当てた。
冷たい手だった。
けれど、頬ずりをするその仕草は、雨に濡れた捨て犬が温もりを求めているようで。
「ちょ、ちょっと! 困ります!」
私は慌てて手を引っ込めようとしたが、彼は意外な強さで離さない。
「頼む……。生まれて初めてなんだ。こんなに、息がしやすいのは」
潤んだ瞳で見上げられ、私はたじろいだ。
さっきまで「殺す」とか言っていた男と同一人物とは思えない。
(……やりにくい)
汚れているなら容赦なく洗える。
文句を言われても言い返せる。
でも、こんなふうに無防備に甘えられると、調子が狂う。
私は咳払いをして、プロとしての仮面を被り直した。
「……本日の業務は終了です。これ以上のサービスをお求めなら、契約内容の見直しが必要です」
私は彼の手を丁寧に、しかし力強く剥がした。
「え……」
絶望したような顔をする閣下。
そんな顔をされても困る。
私は清掃員であって、セラピストではないのだ。
「明日は朝八時に出勤します。それまでにまた汚していたら、次は漂白剤を使いますからね」
私は逃げるようにバスルームを出た。
背後から、「待ってくれ、行かないでくれ……!」という悲痛な声が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにした。
*
執務室を出ると、廊下で待機していた衛兵たちが腰を抜かしていた。
「お、おい! 生きてるぞ!」
「あの中に入って、五体満足で戻ってきたのか!?」
大騒ぎする彼らを横目に、私は重い息を吐いた。
(とんでもない職場に来てしまった……)
手袋を外すと、指先が少し震えていた。
恐怖ではない。
あの感触。
汚れが落ちて、本来の美しさが現れた瞬間の、あの快感。
そして何より。
あの綺麗な顔で、「君が必要だ」と言わんばかりに見つめられた時の、胸のざわつき。
「……汚れてるわ、私」
私は自分の頬が熱いのをごまかすように、手で扇いだ。
明日はもっと強力な洗剤を持ってこよう。
あの宰相閣下をピカピカに磨き上げるまで、私の戦いは終わらないのだから。




