第10話 世界一クリーンな執務室でプロポーズを
あの大掃除から二週間。
王城は、劇的に変わっていた。
「あら、ルシア様! ごきげんよう!」
「ルシア様が通るぞ、道を開けろ!」
廊下を歩くだけで、貴族たちがモーゼの海割れのように左右に下がる。
彼らの眼差しはキラキラと輝き、まるで女神でも見るようだ。
(……やりにくい)
私は愛想笑いを浮かべつつ、内心で溜息をついた。
手にはいつものバケツとモップ。
格好は地味な清掃服のまま。
なのに、今の私は「掃除の聖女」と呼ばれているらしい。
国を救った英雄。
淀んだ空気を一掃した救世主。
いや、私はただ、頑固な汚れを業務用の洗剤で洗い流しただけなのだが。
「ルシア様、こちらの床、私どもで磨いておきました!」
「いえ、窓拭きなら私が!」
最近では、貴族たちがこぞって「掃除」を真似し始めている。
清潔であることがステータスとなり、城内は常にピカピカだ。
良いことだ。
衛生環境の改善は、私の悲願だった。
でも。
(私の仕事、もうないんじゃない?)
私はピカピカすぎて顔が映る床を見下ろした。
どこを見ても埃一つない。
私の【洗浄スキル】が反応する「赤い光」が見当たらないのだ。
掃除屋とは、汚い場所があってこそ輝く職業。
これだけ綺麗なら、もう専門家はいらない。
普通のメイドで十分だ。
「……潮時、かな」
私は懐に入れた封筒を、服の上からぎゅっと握った。
中身は「辞職願」。
実家の借金も、例の「瓦礫撤去費用」と相殺してもお釣りが来るほどの特別ボーナスで完済した。
これ以上、城に居座る理由はない。
私はモップを倉庫に片付け、最後の挨拶をするために宰相執務室へと向かった。
*
「失礼します」
ノックをして扉を開ける。
そこは、かつて「魔窟」と呼ばれた場所だった。
今はどうだ。
窓からは明るい日差しが降り注ぎ、観葉植物が生き生きと葉を広げている。
書類はきっちりと分類され、空気は高原のように澄み渡っている。
そして、その中心に座る銀髪の宰相閣下。
「……ルシア」
クラウス・フォン・アイゼン閣下が顔を上げた。
真紅の瞳が、私を捉えて揺れる。
今日も完璧な美しさだ。
肌は透き通り、髪はシルクのように滑らか。
私の毎日のメンテナンスの賜物である。
「お疲れ様です、閣下。少しお時間よろしいですか?」
私がデスクに近づくと、彼はペンを置き、緊張した面持ちで立ち上がった。
「その……懐に入れているものは、なんだ?」
「え?」
「さっきから、胸元を気にしているだろう。白い封筒……」
彼は私のポケットを凝視している。
さすが国の諜報を取り仕切る男。目ざとい。
「ああ、これですか」
私は観念して、封筒を取り出した。
「実は、お暇をいただこうかと」
その瞬間。
世界の終わりのような音がした気がした。
ガタッ!!
閣下が椅子を蹴倒し、猛スピードで回り込んできた。
「な、なぜだ!? なぜ辞める!?」
彼は私の両肩を掴み、必死の形相で揺さぶった。
「ぐわんぐわんします、閣下!」
「待遇か? 給金が足りないのか? なら倍にする! いや、十倍だ! 城の権利書も付けよう!」
「いりません! 管理が面倒です!」
「なら、なぜ!?」
「だって、もう掃除する場所がないじゃないですか!」
私は部屋を見渡した。
「見てください、この輝き。私のスキルなんて、もう無用の長物です。これからは普通の掃除婦を雇えば……」
「ダメだ!!」
閣下の悲痛な叫びが響いた。
彼は私を抱きしめるようにして、その場に膝をついた。
上等なズボンが床につくのも構わずに。
「普通の掃除婦ではダメなんだ。君じゃなきゃ、意味がないんだ」
「閣下……」
「君がいなくなったら、私はまた汚れる。……いや、前よりも酷くなる。君という光を知ってしまったから、もう闇の中では生きられない」
彼は縋るように私を見上げ、私の手を取った。
その手は震えていた。
「ベアトリスが言っていたな。君は地味だと。……とんでもない。私にとって、君はこの世で一番眩しい存在だ」
「……買い被りすぎです」
「事実だ。君は私の人生の『煤』を払い、本来の私を掘り起こしてくれた」
彼は私の手の甲に、額を押し当てた。
「頼む、ルシア。……行かないでくれ。私のそばにいてくれ」
その声は、かつて私を威圧した冷徹宰相のものではない。
ただの、寂しがり屋の青年の声だった。
私は溜息をついた。
困った人だ。
国のトップが、こんな床に這いつくばって。
でも、不思議と嫌な気分ではなかった。
むしろ、胸の奥が温かくなる。
「……分かりましたよ」
「本当か!?」
「ただし、条件があります」
「なんだ? 何でも聞く!」
私は彼の手を引いて立たせた。
そして、彼の襟元についた小さな糸くず(先ほど暴れた際についたもの)を、指先で摘み取った。
「貴方は、放っておくとすぐ汚れる。精神的にも、物理的にも」
私が指摘すると、彼はバツが悪そうに視線を逸らした。
実際、今も不安のせいで、うっすらと肩に煤が溜まり始めている。
「だから、専属の管理人が必要だとは思います」
「そ、そうだろう!?」
「でも、ただの雇用契約では不十分です」
私は彼を見据えた。
「貴方はこれから、もっと忙しくなる。国を立て直し、新しい時代を作るために。……そんな貴方を、一番近くで支え続けるには、掃除婦という立場では限界があります」
「ルシア……?」
「夜会のパートナーも、公務の同伴も、掃除婦では務まりませんからね」
私が何を言わんとしているのか、彼はようやく気づいたようだ。
赤い瞳が見開かれ、そして歓喜の色に染まっていく。
「それなら……!」
彼はポケットから、小さな箱を取り出した。
用意していたのか。
「……これを」
パカッ。
箱の中には、指輪が入っていた。
宝石ではない。
それは、透明で、どこまでも澄んだ結晶だった。
光を吸い込み、虹色に輝いている。
「これは、私の魔力を極限まで精製し、固めたものだ」
「魔力結晶……?」
「ああ。絶対に曇らないし、傷つかない。……君の瞳のように」
彼は震える手で、指輪を取り出した。
「ルシア・ベルンシュタイン嬢。……私の人生の汚れも、苦しみも、全て君が引き受けてくれるか?」
それは、プロポーズの言葉にしては、あまりに実務的で、彼らしい言葉だった。
「その代わり、君の人生の悲しみは、私が全て遮断する。君を一生、世界で一番清潔で、幸福な場所に住まわせると誓う」
彼は私の左手を取り、薬指に指輪を滑り込ませた。
サイズはぴったりだった。
指輪が、指に吸い付くように馴染む。
「……返事は?」
彼が不安そうに覗き込んでくる。
私は指輪をかざして、光に透かしてみた。
一点の曇りもない、完璧なクリア。
(合格ね)
私はニッコリと笑った。
「……手のかかる旦那様ですね」
「ルシア……!」
「私の管理能力は高いですよ? 覚悟してくださいね」
「望むところだ!」
彼は私を抱き上げ、くるくると回った。
子供みたいに笑って。
「うわっ、目が回ります! 降ろしてください!」
「嫌だ! もう二度と離さない!」
「服に皺がつきますってば!」
執務室に、私たちの笑い声が響く。
窓の外では、王都の鐘が鳴り響いていた。
それは新しい時代の始まりを告げる鐘の音。
かつて「魔窟」と呼ばれたこの部屋は、今や愛と光に満ちた、世界で一番クリーンな場所になった。
*
数年後。
アイゼン公爵家には、一つの伝説が生まれた。
「王城よりも綺麗な場所がある」と。
そこには、銀髪の美しい宰相と、彼を尻に敷く……いや、彼をピカピカに磨き上げる「お掃除公爵夫人」がいるという。
夫人の口癖は、
「あら、また汚して。換気しますよ!」
そして宰相は、嬉しそうに目を細めてこう答えるのだ。
「ああ、頼む。……君にしか、私は任せられないからな」
二人の周りには、いつだって爽やかな風が吹いている。
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