第1話 配属先はゴミ屋敷でした
王城の人事局は、カビ臭かった。
書類の湿気た匂い。
長年洗濯されていない絨毯の埃っぽい匂い。
そして、目の前に座る人事官の男性から漂う、整髪料と加齢臭が混ざった独特の匂い。
私は膝の上で、白い布手袋をはめた両手をきゅっと握りしめる。
不快感を堪えるための、いつもの癖だ。
「……ベルンシュタイン男爵令嬢。本当にここでいいのかね?」
人事官が、手元の書類と私の顔を交互に見比べながら言った。
同情とも、侮蔑とも取れる視線だ。
私は背筋を伸ばし、迷いなく頷く。
「はい。募集要項にあった『特殊清掃係』を希望します」
「いや、しかしだね。君のような若い娘が志願する場所ではない。あそこは……その、色々と事情があってね。人が定着しないのだよ」
「手当は、基本給の三倍と伺っておりますが」
「それは事実だが……」
「でしたら問題ありません。私、掃除には自信がございますので」
食い気味に答えると、人事官は深い溜息をついた。
まるで、屠殺場へ向かう羊を見るような目だ。
「……後悔しても知らんぞ。配属先は『宰相執務室』だ」
その名前が出た瞬間、周囲で聞き耳を立てていた他の職員たちが、一斉に顔をしかめたのが分かった。
宰相、クラウス・フォン・アイゼン公爵。
若くして国の実権を握る切れ者でありながら、冷徹無比な独裁者。
彼の執務室は、通称「魔窟」と呼ばれている。
逆らった部下が翌日には消えているとか、部屋から女性の悲鳴が聞こえるとか、黒い噂には事欠かない。
けれど、私にとって重要なのはそこではない。
「採用、ということでよろしいですね?」
「ああ。君の身元引受人は実家の男爵か。……万が一のことがあっても、文句は言わないように」
人事官は、厄介払いができたという安堵を隠そうともせずに判を押した。
私は心の中でガッツポーズをする。
これで、実家の屋根が直せる。
雨漏りのする家で、バケツリレーをする日々とはおさらばだ。
借金取りの怒鳴り声に比べれば、冷徹宰相の小言など恐れるに足りない。
*
人事局を出て、私は指定された西棟へと向かった。
王城の廊下は、一見すると豪華絢爛だ。
磨き上げられた大理石の床。
壁に飾られた名画の数々。
天井で輝くシャンデリア。
けれど、私の目をごまかすことはできない。
(……汚い)
私の視界には、清掃が必要な箇所がうっすらと赤く光って見えている。
これは私の【洗浄スキル】に付随する、特異体質のようなものだ。
シャンデリアの傘には、三ヶ月分の埃が積もっている。
大理石の床の隅には、ワックスが剥がれて黒ずんだ層ができている。
すれ違う貴族たちの服もそうだ。
香水の匂いで誤魔化しているが、襟元には皮脂汚れが、袖口にはインクの染みがこびりついている。
ムズムズする。
今すぐ雑巾がけをして回りたい衝動を、私は必死で抑え込んだ。
今は仕事中だ。
私の戦場は廊下ではない。
西棟の最奥。
重厚な黒檀の扉の前には、二人の衛兵が立っていた。
彼らはなぜか、分厚いマスクのようなもので口元を覆っている。
私が近づくと、衛兵の一人がぎょっとして槍を構えた。
「何だ、貴様は! ここが何処か分かっているのか!」
「本日付で配属されました、特殊清掃係のルシア・ベルンシュタインです」
辞令を見せると、衛兵たちは顔を見合わせ、あからさまに動揺した。
「おい、正気か? こんな華奢な娘が?」
「また人事局の嫌がらせか……」
「嬢ちゃん、悪いことは言わん。今すぐ引き返せ。中で何を見ても、俺たちは助けられないぞ」
「ご忠告ありがとうございます。ですが、仕事ですので」
私は愛想笑いを浮かべ、スカートのポケットから商売道具を取り出した。
愛用のゴム手袋だ。
パチン、と手首のところで音を立てて装着する。
「では、失礼いたします」
衛兵たちが止める間もなく、私は重い扉を押し開けた。
*
入室した瞬間、感じたのは「重さ」だった。
空気が、べとりと肌にまとわりつく。
湿度が高い梅雨時の、換気扇を回していない地下室のような不快感。
ツンとする刺激臭が鼻を突き、思わず眉をひそめる。
(……うわあ)
広い執務室だった。
壁一面の本棚、高級そうな調度品。
しかし、それら全てが「黒」に埋もれていた。
床には書類が散乱し、その上を黒い煤のようなものが覆っている。
窓ガラスは汚れで曇り、外の光を遮断していた。
部屋の四隅には、綿埃が塊になって転がっている。
そして、部屋の中央。
執務机の向こうに、その「山」はあった。
人の形をした、黒い影。
積み上げられた書類の塔に埋もれるようにして、男が座っている。
髪も、服も、肌さえも。
すべてが煤に塗れ、黒く変色していた。
男がゆっくりと顔を上げた。
赤い目が、暗闇の中でギラリと光る。
喉の奥から絞り出すような、低い声が響いた。
「……何用だ」
空気がビリビリと震える。
普通の人間なら、腰を抜かして逃げ出す場面かもしれない。
あるいは、命乞いをするかもしれない。
だが、私の反応は違った。
(何なの、この部屋!)
恐怖よりも先に、怒りが湧き上がってきた。
私はズカズカと部屋の中へ踏み込む。
靴底が、床に積もった煤を踏みしめてジャリリと音を立てた。
「……貴様、聞こえないのか。出て行けと言って――」
「窓を開けます!」
私は男の言葉を遮り、部屋の奥へと直行した。
「は……?」
男が呆気に取られたような声を出す。
構うものか。
こんな劣悪な環境で仕事をしていたら、病気になってしまう。
この空気の淀みようは、労働安全衛生法(前世の記憶にある法律だ)に違反するレベルだ。
私は分厚いカーテンを力任せに引き開けた。
埃が舞い上がり、咳き込みそうになる。
窓の鍵は錆びついて固くなっていたが、体重をかけてレバーを押し上げた。
ガギンッ!
不快な金属音と共に、窓が開け放たれる。
ひゅううう、と風が吹き込んだ。
新鮮な空気が、部屋に充満していた澱んだ空気を押し出していく。
「貴様……! 何をしている! 私の結界を開放するなど正気か!?」
男が立ち上がり、机を叩いた。
その衝撃で、彼自身の体からボロボロと黒い塊が落ちる。
ああ、もう。
散らかさないでほしい。
私はくるりと振り返り、仁王立ちで彼を見据えた。
視界の中の彼は、全身が真っ赤に光っている。
つまり、彼自身が「汚れの発生源」だということだ。
「宰相閣下とお見受けします。掃除係のルシアです」
「掃除係だと……? 今すぐ出て行け! 私に近づけば、貴様の精神が保たんぞ!」
「いいえ、出て行きません。この部屋を綺麗にするまでは!」
私はポケットから、特製のスプレーボトルを取り出した。
中身は、教会の聖水と、薬草から抽出した酸を独自の配合で混ぜた洗浄液だ。
「くっ……来るな!」
男が手をかざす。
黒い靄のようなものが、彼と私の間に壁を作った。
拒絶の意思。
あるいは、攻撃のための魔法かもしれない。
けれど、私の目にはそれもただの「頑固な油汚れの膜」にしか見えなかった。
「汚いです!」
私は躊躇なくスプレーを噴射した。
シュッシュッ! と小気味よい音が響く。
液体がかかった黒い霧が、ジュワジュワと音を立てて泡立った。
「なっ……!?」
男が目を見開く。
私は間髪入れずに、右手に持ったマイクロファイバークロス(これも特注品だ)で、その空間を拭き取った。
キュッ、キュッ。
「ば、馬鹿な……私の闇魔法を、雑巾で拭き取っただと……?」
「こびりついてますね。でも、ふやかせば落ちます」
私はさらに踏み込んだ。
男の目前まで迫り、その黒く汚れた顔面にスプレーを向ける。
「ひっ」
国の最高権力者が、短く悲鳴を上げた。
構わず噴射。
そして、ゴシゴシと力強く拭う。
「ぐ、うあああ……っ!?」
男が呻き声を上げるが、痛がっているわけではなさそうだ。
むしろ、長年背負っていた重荷を下ろしたような、呆けた声を漏らしている。
汚れは手強かった。
まるで皮膚に張り付いたタールだ。
だが、私の【洗浄スキル】は概念に干渉する。
「そこにあるべきでないもの」を剥離し、本来の輝きを取り戻す力。
「ええい、落ちなさい!」
最後の仕上げに、私は親指で彼の頬を強く擦った。
ポロリ、と。
厚い泥の仮面が剥がれ落ちるように、黒い煤が消え去った。
そこから現れたのは。
「……え?」
私は思わず手を止めた。
銀色の髪。
透き通るような白い肌。
そして、宝石のように煌めく真紅の瞳。
そこにいたのは、すすけた中年男でも、恐ろしい怪物でもなかった。
神話に出てくる美神と見紛うような、絶世の美青年だったのだ。
彼は呆然とした表情で、自分の頬に触れた。
その指先も、白く輝いている。
「汚れが……消えた……? 嘘だろ、二十年も取れなかった呪いが……」
震える声で呟く彼を見て、私は冷静に判断を下した。
(顔立ちは綺麗だけど、まだ耳の裏が汚れているわね)
私はクロスを裏返し、満足げに頷いた。
「とりあえず、表面の汚れは落ちました。ですが閣下、この部屋は大掃除が必要です」
私は彼の呆然とした顔を指差して、宣言した。
「追加料金をいただきますが、よろしいですね?」
これが、私と「魔窟の主」との出会いだった。




