第二話 ライラック
「あの、ここに座ってもいいかな?」
陽の光の透ける柔らかな栗色の髪、穏やかな物腰。社交に疎いシンシアでも知っている人物だった。
(たしか、第一学科のライラックさん、だったかしら)
彼は派手な人間の多い第一学科のなかで、一人穏やかな水面を思い起こさせる人だった。ちょうど目の前の池のように。
「ど、どうぞ」
スケッチブックを抱き寄せながら、あわてて返事をするシンシアに「ありがとう」と落ち着いた声をかけてくれるライラック。隣に座るのかとびっくりしたが、ライラックは小道を挟んだ先にあるもう一つのベンチに腰を下ろす。
彼は特に何をするでもなく、一度長く息を静かに吐き出してから、ただ座っていた。
興味本位で声をかけに来たのかとシンシアは警戒したが、ただただ休みに来ただけのようで、水面を眺めているライラック。
(人混みに疲れたのかしら。それなら私にもその気持ちわかるわ)
はじめは落ち着かない気持ちだったシンシアも、不思議とこの妙な距離感は嫌ではないと思えてきた。
(もうひと作品書いたら帰ろう)
すぐに立ち上がるのも避けているかのように思えてしまうので、しばらくそこで静かに魔法陣を描くことにした。
「邪魔をして悪かったね。人が集まるところではたまに頭痛がしてしまうんだ。ここは静かでいいところだな」
「そうだったんですね」
「僕は第一学科のライラック。よろしく」
ベンチから立ち上がり、歩み寄ってそう挨拶するので、シンシアもスケッチブックを慌てて閉じて名乗る。
「あの、外部コースのシンシアです。よろしくお願いします」
「外部コース? ああ、すごいね」
「え、ええ」
外部コースは、就職することが想定されている学科コースだ。あまり耳慣れなかったのだろう。しかしさわやかに受け止めてくれた。
「課題をしていたのかい? これ以上手をとめてしまっても悪いから、僕は退散するとしよう」
「いえ、気になさらないでください。もともと今描いているものが描きあがったら帰ろうと思っていたところなので」
ちょうど書きあがったところの魔法陣を見せたところ、少し驚いたような表情を見せたライラック。
「魔法陣を描いていたんだね」
「はい、進路と関係があるので」
「そうか。それにしても緻密だ。少し見ても?」
近づいてきた距離感に少し照れながらもスケッチブックを渡すシンシア。
「へえ。面白いね。見たこともない構図ばかりだ」
「オリジナルが多いんです」
「え、オリジナルか。いまさらだけど、見てもよかったのかな?」
「はい。遊びで描いているものが多いので」
「一つ描き写してみてもいいかな? ……試験対策でつまずいているところがあってね」
「ええ、もちろん」
ライラックは持っていた懐からインクペンを取り出し、スラスラと転写し始める。
さすがエリートコースだけあって、どこで躓いているのかわからないほど正確に描き写していく。
シンシアには、その手元が淡く光っているように見えた。
(綺麗な光……。ここまでキラキラしている魔法陣を描く人は初めて)
実はそれは、彼女が抱えるもう一つの悩みだった。彼女は魔力をほとんど持たない反動なのか、他人の魔力が時折漏れるように見えるのである。
しかし、気味悪がられるかもしれないと思い、その話はこれまで誰にもしてこなかった。
今回も漏れでる光のことは話さずに、ただサラサラと動くその手元を眺めていた。
ライラックのよどみなく動くその手つきを見て、ついシンシアはこぼすように言葉を口にする。
「才能、ですかね。一つ歳が違うというだけでは説明できないわ」
魔法陣はただ図を描くだけではない。その理論を認識し、配置、書き順、古代文字の筆記能力など総合的な技能が要される。ただ一つの図を描いただけであるが、ライラックの卓越した技術が垣間見えた。
「えっと。シンシアは19歳だっけ?」
「はい、そうです」
「実は僕も19なんだ。運よく飛び級で入学できてね」
驚きで声が出ないシンシアは、ただただライラックの少し気まずそうに眉を下げている顔を見つめる。
入学するのも難しい王立魔法学園。そこに飛び級で入学するなんて、まさに天才だ。シンシアは、ライラックがエリート中のエリートであると知り、普通なら話すこともないような人物と一緒のベンチに座っていることにいたたまれなくなる。
そんなシンシアの気持ちを知ってか知らずか、黙々と手を動かしているライラックの魔法陣が描きあがったタイミングで、本館前から歓声が聞こえてくる。
二人して目をむけると、本館前の噴水が余興としてなのか、いつもより高く噴き上がっていた。
「そろそろ僕も戻らないと」
ありがとうと言い残し、ライラックはキラキラと水しぶきの舞う本館の方へ戻ってしまった。
人のあまり来ないこの裏庭の池。シンシアにとってここは憩いの場だった。
居心地のいいこの場に訪れた青年。意外な出会いだったが、一緒に過ごしたわずかな時間がいつもより心地のいいものだったことに気が付いてシンシアは戸惑った。
「また会えるといいのにな」
その願いが叶うのはほんの数日後。
柔らかな栗色の毛を揺らしてやってきたライラックは、シンシアの座るベンチに目をやり、かすかに微笑みながらこういう。
「この席は誰かに予約されているのかな?」
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