第74話 灰色の捜査線と、夢魔の爪痕
土曜日の朝。
曇天の空からは、今にも泣き出しそうな重たい湿気が降り注いでいた。
斉藤健太は、自宅の前の通りに停車している覆面パトカーの助手席に滑り込んだ。
「――おはようございます、真島さん」
「やあ、斉藤君。おはよう」
ハンドルを握っていた真島新が、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
仕立ての良いスーツに身を包んだエリート刑事の顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
目の下の隈が、ここ数日の激務を物語っていた。
「ごめんね。せっかくの休日に呼び出しちゃって。
学校の課題とか、部活とか……忙しい時期だろうに」
「いえ、大丈夫ですよ。部活は幽霊部員みたいなもんですし」
健太はシートベルトを締めながら、軽く首を振った。
「それに剣崎さんから連絡をもらった時、
『真島がどうしても斉藤君の意見を聞きたがってる』って言われましたから。
……あの真島さんに頼られたら、断るわけにはいきませんよ」
少しからかうように言うと、真島は照れくさそうに頭をかいた。
「参ったな。剣崎さん、余計なことを……。
でも事実だ。今回のヤマは……僕ら警察の常識じゃ、どうにも太刀打ちできそうにない」
真島の表情が、刑事のそれへと切り替わる。
「行きましょうか。現場へ」
「ああ、行こう」
車が滑らかに発進する。
目的地は、都内某所の古いアパートだ。
車内で真島が、事件の概要を改めて説明し始めた。
「被害者は二十代の男性会社員。一人暮らしだ。
昨日の朝、無断欠勤を不審に思った同僚がアパートを訪ねて、遺体を発見した。
死因は心不全。……だが、ただの病死じゃない」
真島はハンドルを握る手に力を込めた。
「遺体の顔が……凄まじかった。
眼球が飛び出さんばかりに見開かれ、口は裂けんばかりに開いていた。
恐怖、絶望。……人間が死ぬ瞬間に、あんな表情ができるものなのかと思うほどに」
「……ショック死ということですか」
「監察医の見解ではね。
だが、部屋には争った形跡もなければ、外部から侵入された痕跡もない。完全な密室だ。
薬物反応もなし。持病もなし。
健康な若者が、自宅のベッドで寝ている間に心臓が止まるほどの『何か』を見た」
真島は、ちらりと健太を見た。
「……僕の勘だが、これは『あちら側』の案件だと思ったんだ」
「なるほど。……話を聞く限り、クロですね」
健太も頷く。
以前の彼なら「怖い話ですね」で終わらせていただろうが、今の彼には、その裏にある具体的な「敵」の姿が想像できていた。
現場のアパートに到着すると、すでに規制線が張られ、制服警官が立哨していた。
築四十年は経っていそうな木造モルタルの古びた建物だ。
湿気を含んだ風が、不快なカビの臭いを運んでくる。
「……ここです」
真島が警察手帳を見せて、規制線をくぐる。
健太もそれに続こうとするが、制服警官が怪訝な顔で制止した。
「あ、ちょっと。部外者の方は……。
それに君、まだ学生さんだよね? ここは遊び場じゃないよ」
警官の言葉はもっともだ。私服とはいえ、健太の風貌はどう見ても高校生である。
真島が助け舟を出そうとしたが、それより早く健太が動いた。
彼は懐から黒い革のケースを取り出し、慣れた手つきで警官の目の前に提示した。
そこには金色の旭日章と複雑な紋様が刻まれたエンブレム、そして『特殊事象対策課・捜査協力官 斉藤健太』という文字が輝いている。
もちろん八咫烏が用意した精巧な偽造身分証だ。
だが、その効力は本物の警察手帳以上にある。
「失礼ですが、若く見えるもので」
健太は鈴木特務官や神楽坂瑠璃の立ち居振る舞いを真似て、わざとらしいほど落ち着いた冷徹な口調で言った。
「本庁からの特命で、真島刑事の捜査協力をしています。
……通してもらえますね?」
「え、あ、は、はい! 失礼しました!」
警官は慌てて敬礼し、道を空けた。
「特殊事象対策課」なんて部署は聞いたこともないだろうが、その威圧感と手帳の重み、そして何よりエリート刑事である真島が黙認している事実が、彼を納得させたのだ。
「……やるな、斉藤君」
階段を上がりながら、真島が苦笑いする。
「鈴木さんの真似ですよ。……ハッタリも実力のうちらしいですから」
健太は肩をすくめた。
内心では心臓がバクバクしていたが、顔には出さない。これも訓練の成果だ。
被害者の部屋は、二階の角部屋だった。
ドアを開けた瞬間、独特の死臭と、それとは違う饐えた臭いが鼻をついた。
「……うっ」
健太は思わず鼻を押さえた。
臭いだけではない。空気が重い。
肌にまとわりつくような、ねっとりとした不快感。
(……間違いない。残ってる)
彼の『感知』レーダーが、部屋全体に漂う黒い靄のような残留思念を捉えていた。
「どうぞ。鑑識は済んでいますが、現状維持のままにしてあります」
真島が靴カバーを渡し、先に中へと入る。
ワンルームの狭い部屋だ。
コンビニ弁当の空き容器や、脱ぎ捨てられた服が散乱している。典型的な独身男性の部屋といった感じだ。
だが、部屋の中央にあるベッドだけが異様な存在感を放っていた。
シーツは激しく乱れ、枕元には何かが引きちぎられたような跡がある。
ここで被害者が、死の瞬間にどれほどのたうち回ったかが想像できた。
「……斉藤君。どうだ?」
真島が真剣な眼差しで問う。
「……少し、調べさせてください」
健太はベッドに近づき、しゃがみ込んだ。
目を閉じ、意識を集中させる。
SSR『念動力』の応用。
物質に残された微細な「歪み」や「力」の痕跡を読み取る、擬似的なサイコメトリー。
彼は手をかざし、ベッドの周りの空間を撫でるように動かした。
(……酷いな。部屋中が恐怖で塗りつぶされてる)
被害者の最期の感情が、ノイズのように脳内に流れ込んでくる。
『助けて』、『来ないで』、『ごめんなさい』。
絶叫、哀願。
そして、その感情の濁流の中に、異質な「何か」の痕跡を見つけた。
「……これだ」
健太は目を開け、枕の一部を指差した。
肉眼では、ただの汗染みのようにしか見えない。
だが健太の目には、そこにどす黒い手形のようなものが、べったりと焼き付いているのが見えた。
「……枕に、怪異の跡があります」
「怪異の跡?」
真島が目を凝らす。
「ええ。それも、外側からついたものじゃない。
……内側から滲み出てきたような跡です」
健太は枕に手をかざしたまま、分析を続けた。
「この手形……物理的な圧力はかかっていません。
なのに布の繊維が、霊的に変質している。
これは、こいつが『夢』を通して、被害者の精神に直接干渉してきた証拠です」
「夢……?」
「はい。以前、鈴木さんから聞いたことがあります。
『猿夢』のようなネット怪異や、強力な悪霊の中には、ターゲットの夢の中に侵入し、精神を破壊して殺すタイプがいると」
健太は立ち上がり、部屋を見渡した。
「恐ろしい形相で死んでいたのは、そういうことです。
彼は夢の中で、逃げ場のない恐怖に追い詰められ、殺された。
現実の肉体には傷一つつけずに、魂だけを握りつぶされたんです」
「……なんと」
真島が息を呑む。
警察の捜査では、絶対に辿り着けない真相だ。
「……防げなかったのか?」
「対霊の御札さえあれば、あるいは結界を張っていれば防げたかもしれません。
でも一般人が、そんなもの持ってるわけないですよね」
健太は悔しげに唇を噛んだ。
「それに……この怪異、かなり小賢しいです。
部屋に残る気配から察するに、昨日今日憑いたものじゃない。
おそらく数日、いや、一週間くらい前から被害者に憑依していたはずです」
「一週間……?」
「ええ。いわゆる『潜伏期間』です。
最初はただの悪夢を見せる程度で、徐々に精神を削り、恐怖心を煽って十分に『熟成』させてから……昨夜、一気に食った」
「……悪質だな」
真島が拳を握りしめる。
「不審死扱いだったが……夢で取り殺されたか。
これじゃあ司法解剖しても、死因が出るわけがない」
健太は再び部屋の中を歩き回り、手がかりを探した。
机の上にはパソコン。スマートフォンは警察が証拠品として押収済みだ。
本棚にはオカルト雑誌や旅行ガイドブック。
「……真島さん。被害者の最近の行動で、何か変わったことはありませんでしたか?」
「行動か……。
同僚の話だと、先週の連休に有給を取って旅行に行っていたらしい。
帰ってきてからは『体がだるい』、『よく眠れない』とこぼしていたそうだ」
「旅行……。行き先は?」
「確か北関東の山間部だ。……そうだ、S県だ」
S県。
健太の脳裏に、地図上のとあるポイントが浮かんだ。
八咫烏のデータベースで見たことがある。心霊スポットとして有名な廃神社や旧トンネルが点在するエリアだ。
「……もしかして、心霊スポット巡りとかしてたんじゃないですか?」
健太が指摘すると、真島はハッとした顔をした。
「……あり得るな。彼のスマホの履歴に、廃墟検索サイトへのアクセスログが残っていた。
趣味だったのかもしれん」
「だとすれば、そこで『悪いもの』に引っかかった可能性が高いですね」
健太は断言した。
「心霊スポットに入って、結界や封印を破ってしまったか、あるいは単に運悪く憑かれたか。
いずれにせよ、その場所を特定して祓う必要があります。
この怪異、一度味を占めたら、次の獲物を探すタイプかもしれません」
「……なるほど。元を断たなきゃならんわけか」
真島は手帳を取り出し、メモを取り始めた。
「じゃあ警察の方で、彼の足取りを徹底的に洗い直すよ。
S県のどこに行ったのか、何をしたのか」
そこで真島の手が止まった。
「……待てよ。
心霊スポットに、一人で行くか?」
その言葉に、健太も気づいた。
「……確かに。マニアなら一人もあり得ますけど、普通は肝試し感覚で誰かと一緒に行きますよね」
「被害者が、心霊スポットに一人で行ったとは考えにくい。
レンタカーの記録を調べれば分かるはずだ。同乗者がいたかどうか」
真島の目が、刑事の鋭い光を帯びる。
「もし知人が、一緒に行っていたとしたら……」
「その知人も、同じように憑かれている可能性があります」
健太が言葉を継いだ。
「同じ死に方をするか……あるいは今現在、同じように夢に怪異が出て苦しんでいるかもしれない」
「……急がないとな」
真島はすぐに携帯を取り出し、本庁の仲間に連絡を取り始めた。
レンタカーの照会、交友関係の洗い出し、同僚への再聴取。
矢継ぎ早に指示を出すその姿は、頼もしいプロフェッショナルそのものだった。
数分後、真島が電話を切った。
「……ビンゴだ。
大学時代の友人と二人でレンタカーを借りていた記録が出た。
友人の名前は木村。連絡は……まだ取れていない」
「マズいですね」
「住所は分かった。ここから車で三十分ほどの距離だ。
すぐに行こう」
「はい!」
二人はアパートを飛び出し、覆面パトカーへと乗り込んだ。
車内で健太はポケットから一枚の和紙を取り出した。
それは瑠璃から「お守り代わりに持っておきなさい」と渡されていた、八咫烏謹製の簡易御札だった。
三角形に折られたそれは、微かだが清浄な気を放っている。
「真島さん。これ、持っていてください」
「……これは?」
「八咫烏の簡易御札です。
本格的な除霊は無理ですが、夢への侵入を防ぐくらいの結界効果はあります」
健太はそれを真島に手渡した。
「もし、その友人に会えたら、これを身につけるように言ってください。
俺みたいな高校生が言うより、警察官の真島さんが『捜査の一環で重要なお守りだ』とでも言って渡せば、信用して持ってくれるでしょうから」
「……なるほど。君の配慮には恐れ入るよ」
真島は御札を大切そうに胸ポケットにしまった。
「分かった。必ず渡すよ。
……しかし君は持っていなくていいのか?」
「俺は大丈夫です。自前でバリア張れますし、いざとなれば精神世界に殴り込んで叩き潰しますから」
健太はニカっと笑った。
その笑顔に真島も、つられて微笑んだ。
「……頼もしいな、相変わらず」
車は木村という友人のマンションへと急行した。
到着すると、インターホンには応答がなかったが、管理人に頼んで鍵を開けさせ、踏み込んだ。
そこにはリビングのソファで、毛布にくるまり、ガタガタと震えている青年の姿があった。
目の下には隈があり、憔悴しきっている。
「……木村さんですね?」
真島が声をかけると、青年はビクッと跳ね上がり、怯えた目でこちらを見た。
「……だ、誰だ……!
け、警察……?」
「そうです。友人の……Aさんの件で来ました」
Aさんの名前を出した瞬間、木村の顔が絶望に染まった。
「……あいつ、死んだんだろ……?
俺も……俺も殺されるんだ……!
毎晩……毎晩、あいつが来るんだよぉ……!」
彼は錯乱していた。
やはり、彼も憑かれていたのだ。
「落ち着いてください!」
真島が肩を掴み、揺さぶった。
「大丈夫です。助けに来ました。
……これを」
真島はポケットから御札を取り出し、木村の手に握らせた。
「これは特殊な力を持った『お守り』です。これを持っていれば、奴は近寄れません。
警察が保証します」
その言葉と、御札から伝わる微かな温もりに、木村の震えが少しだけ収まった。
「……本当……ですか……?」
「ええ。必ず助けます。だから、何があったか話してください。
……あの廃神社で、何をしたんですか?」
木村はポツリポツリと語り始めた。
肝試しで訪れた神社の裏手、封印されていたと思われる古い石塔を、面白半分で動かしてしまったこと。
その直後から、悪寒と悪夢が始まったこと。
「……原因は特定できましたね」
部屋の隅で話を聞いていた健太が、小声で真島に告げた。
「石塔に封じられていた悪霊が解放され、二人に憑依した。
……本体は、まだその石塔付近にいるはずです」
「……よし。これで戦う相手と場所は分かった」
真島は木村を保護し、警察病院への搬送を手配した。
御札の効果で、とりあえず今夜は安眠できるだろう。
全ての処理が終わった頃には、日はすっかり暮れていた。
真島は健太を、自宅マンションの前まで送り届けた。
「……今日はありがとう、斉藤君。
君がいなければ真相にはたどり着けなかったし、もう一人の被害者を出すところだった」
真島が運転席から、深々と頭を下げた。
「いえ。俺も勉強になりました。
やっぱり警察の情報網と、足を使った捜査はすごいですね。
俺たちだけじゃ、レンタカーの特定なんて無理でした」
健太も素直に敬意を表した。
異能の力だけでは解決できないことがある。
現実社会のシステムと連携してこそ、守れるものがある。
それを学べた一日だった。
「……S県の廃神社の件は、こちらから八咫烏の本部に正式に浄化要請を出しておくよ。
プロの術師が派遣されるだろう」
「はい。それが一番確実ですね」
「……じゃあ、ゆっくり休んでくれ。
また何かあったら、頼むかもしれない」
「いつでもどうぞ。……あ、でもテスト期間中は勘弁してくださいね?」
「ははは、善処するよ」
真島は笑って手を振った。
「ええ。ありがとうございます!」
健太は車を降り、走り去る覆面パトカーのテールランプを見送った。
夜風が心地よい。
灰色の捜査線は、一つの解決を見た。
だがこの街には、まだ無数の怪異と、それに怯える人々がいる。
(……俺たちも、もっと頑張らなきゃな)
健太はポケットの中のスマートフォンを握りしめた。
そこには仲間たちからのメッセージが届いているはずだ。
彼は自宅の門をくぐり、いつもの「日常」へと帰っていった。
その背中は、朝よりも少しだけ大きく、そして頼もしく見えた。
刑事と高校生。
立場は違えど、同じ街を守る二人のバディの物語は、これからも続いていくのだろう。




