第73話 灰色の残業手当と新宿最終防衛線
ことの起こりは、新宿駅地下ダンジョンの「数値異常」だった。
八咫烏の監視システムが、ダンジョンの深層部で爆発的な霊力膨張を感知したのが、午後六時。
そのわずか五分後。
かつて健太たちが攻略したはずのダンジョン入り口――新宿駅前の広場のアスファルトが、内側からの圧力で粉々に弾け飛んだ。
ドォォォォォォォォォンッ!!!
噴き出したのは、黒い瘴気の柱。
そして、そこから雪崩のように溢れ出したのは、視界を埋め尽くすほどの「怪異」の群れだった。
ウゥゥゥゥ――ッ!!
新宿全域に、空襲警報のような不気味なサイレンが鳴り響く。
『緊急警報! 緊急警報! 新宿駅周辺にて「百鬼夜行」発生!』
『推定規模、数千! Tier4からTier3の混成部隊です! 地上への流出を確認!』
『一般人の避難が間に合いません! 近くにいるエージェントは、直ちに現場へ急行せよ!』
それは東京が「魔都」に変わった瞬間だった。
◇
「――くそっ! なんて数だ!!」
現場に到着した斉藤健太は、目の前の光景に絶句した。
いつもは見慣れた新宿のビル街が、異形の怪物たちで埋め尽くされている。
ゴブリン、スケルトン、オーク、そして見たこともない奇形の獣たち。
それらが津波のように押し寄せ、機動隊のバリケードを紙屑のように踏み潰していく。
「展開! 前衛ラインを上げるぞ! 絶対に住宅街へ行かせるな!」
健太が叫ぶ。
彼の背後には、田中、鈴木(同級生)、詩織、そして八咫烏の一般隊員たちが数十名。
彼らは即席の防衛線を構築し、絶望的な物量に立ち向かっていた。
「オラァッ! 『鉄拳』!」
田中が『硬質化』した拳でオークを殴り飛ばすが、その隙間に小型のインプが三匹、飛びかかってくる。
「痛っ!? こいつら、噛みついてきやがる!」
「数が多すぎるっすよ! 倒しても倒しても、湧いてくる!」
鈴木(同級生)が悲鳴を上げながら念動力で看板を引き剥がし、ブーメランのように投擲する。
健太もまた、新技をフル稼働させていた。
「『空気弾・乱れ撃ち』!!」
指先から空気の弾丸を、マシンガンのように連射する。
Tier4クラスなら一撃で吹き飛ばせる威力だ。
だが、敵の数が多すぎる。
十体倒す間に、二十体が湧いてくる計算だ。
「……はぁ、はぁ……! 葵さん!」
健太はインカムで後方支援を担当している日向葵に、怒鳴った。
「鈴木さんは!? あの人、まだ来ないんですか!?」
この絶望的な状況を覆せるのは、あの規格外の男しかいない。
だが葵の返答は、無情なものだった。
『ご、ごめん健太君! 先輩、今ちょっと「別件」で出張中なの!』
「はあ!? こんな時に!?」
『埼玉の方で「古井戸から貞子もどきが大量発生した」って通報があって、そっちの処理に行っちゃってて……!
連絡はついたけど、物理的な距離が遠すぎて……!』
「マジかよ……! あの人、いないのかよ!」
健太は愕然とした。
最強の切り札が不在。
つまり、自分たちだけで、この地獄を支えなければならない。
「……大丈夫か? 俺たちだけで」
近くにいた八咫烏の隊員が、震える声で呟いた。
その不安は瞬く間に伝染する。
士気が下がる。動きが鈍る。
そこを怪異たちは見逃さない。
「ギャァァァッ!」
隊員の一人が巨大な蜘蛛型怪異に足を掬われ、引きずり込まれた。
「助け――!」
「くそっ! 『念動・杭』!」
健太が咄嗟に杭を撃ち込み、蜘蛛を粉砕するが、隊員は重傷を負って倒れ込む。
「詩織! 治療を!」
「はい! ……でも、もうマナが……!」
詩織の顔色は蒼白だ。
すでに数十人の治療を行い、彼女の霊力も限界に近い。
ジリジリと防衛線が下がる。
最初は広場で食い止めていたが、今や大通りまで押し込まれている。
このままでは新宿駅が飲み込まれ、地下に避難している数万人の一般人が虐殺される。
「(……俺がやるしかない)」
健太は覚悟を決めた。
「田中、鈴木! 詩織と負傷者を連れて下がれ!
俺がここで食い止める!」
「なっ!? 死ぬ気かよ、斉藤先輩!」
「バカ言うな、健太! 一人じゃ無理だ!」
「行けッ!!」
健太は叫び、両手を広げた。
「(玄翁爺さん……力を貸してくれ。
俺の全霊力を使って……質量の壁を作る!)」
彼は周囲にある廃棄車両、瓦礫、倒れた街灯……目につく全ての物体に念動力を接続した。
そして、それらに極限の「仮想質量」を付与し、見えない壁として積み上げる。
ズズズズズ……ンッ!
即席のバリケードが完成する。
だが怪異の群れは止まらない。
壁を乗り越え、あるいは壁そのものを食い破り、蟻の群れのように殺到してくる。
Tier3上位『オーガ・ロード』。
Tier3中位『キメラ・ハウンド』。
強力な個体が次々と現れる。
「……はぁ、はぁ……!」
健太の視界が霞む。鼻血が止まらない。
脳が焼き切れそうだ。
それでも、彼は退かなかった。
(……ここで引いたら、俺はただの高校生に戻っちまう。
ヒーローになるんだろ? 斉藤健太!)
ドンッ!
オーガの棍棒が、健太のバリアを叩き割る。
衝撃で身体が吹き飛ぶ。
「がはっ……!」
地面に叩きつけられる。
見上げれば、数十体の怪異が唾液を垂らして、彼を見下ろしていた。
終わった。
そう思った。
――ヒュンッ。
風を切る音など、しなかった。
空気が歪み、空間そのものが「裂けた」ような感覚。
次の瞬間。
健太と怪異の間に、見慣れた背中が立っていた。
「……あれ……?」
ヨレヨレのスーツ。
右手には、なぜか埼玉銘菓『十万石まんじゅう』の箱が提げられている。
「……まったく。埼玉から空間転移で、すっ飛んできたらこれかよ」
その男――鈴木太郎は、目の前に迫るオーガの棍棒を、視線も向けずに左手一本で受け止めていた。
バァンッ! という衝撃音が響くが、鈴木は一歩も動かない。
「す、鈴木……さん……?」
「よう。待たせたな」
鈴木は振り返り、いつもの気怠げな、しかしどこか安心させる声で言った。
「……やっぱり雑魚ばっかりだが、数が多すぎるな。
お前らじゃ捌ききれんのも無理はない」
彼は受け止めていたオーガの棍棒を、デコピン一つで弾き返した。
パチン、という軽い音と共に、オーガの巨体が砲弾のように吹き飛び、後続の怪異たちを数十体巻き込んで粉砕された。
「……え?」
健太が目を疑う。
自分が死ぬ気で戦っていた相手が、デコピン一つで?
「……下がってろ、健太。
ここからは『大人の時間』だ」
鈴木はネクタイを緩め、戦場の中心へと歩き出した。
その背中から立ち上る霊気は、これまで感じたどの怪異よりも、どの能力者よりも深く、重く、そして静かだった。
「ギシャァァァァッ!」
新たな獲物を見つけた怪異たちが、一斉に鈴木に襲いかかる。
その数、数百。四方八方からの飽和攻撃。
「……鬱陶しい」
鈴木はまんじゅうの箱を脇に抱え直し、空いた右手で印を結んだ。
それは健太が見たこともない、複雑で美しい指の動きだった。
「――領域展開。
術式解凍。……『瑠璃光・浄土』」
パチンッ。
鈴木が指を鳴らした瞬間。
新宿の風景が消えた。
否、塗り替えられた。
瓦礫もビルもアスファルトも、全てが瑠璃色の幾何学模様に覆われた異空間へと変貌したのだ。
上下左右の概念がない、無限の光の回廊。
そこにいるのは、鈴木太郎と数千体の怪異たち。
そして、観客として巻き込まれた健太たちだけ。
「な、なんだこれ……!?」
田中が腰を抜かす。
「……結界術の極致……」
詩織が美しい光に見とれて呟く。
自らが主となる世界を創造し、現実世界に上書きする神の御業。
鈴木は、その空間の中空に見えない玉座があるかのように座っていた。
「俺の結界内では、全てが俺の掌の上だ」
鈴木の声が脳内に直接響く。
彼は退屈そうに眼下の怪異の群れを見下ろした。
数千の怪異たちは、突然の環境変化に怯え、身動きが取れなくなっている。
「……さて。10秒で終わらせるぞ。
まんじゅうが冷める」
鈴木が右手をかざした。
「――殲滅」
その言葉と共に。
空間を構成していた瑠璃色の光の全てが、鋭利な「霊力弾」へと形状を変えた。
一万、十万、百万。
星の数ほどの光の刃が、全方位から怪異たちに向かって狙いを定めた。
「ガッ……!?」
「ギィ……!」
怪異たちが悲鳴を上げる暇もなかった。
ドォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
光の雨。
いや、光の飽和爆撃。
回避する場所など、原子の隙間ほども存在しない。
絶対的な質量と霊力による、慈悲なき蹂躙。
健太たちはただ目を閉じて、その光の嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
鼓膜を揺らす轟音と、肌を焼くような霊圧の余波。
そして。
きっかり10秒後。
フッ……と光が消えた。
気がつくと、彼らは元の新宿の広場に戻っていた。
壊れたビルも、アスファルトの亀裂も、そのままだ。
だが。
あれほど溢れかえっていた数千体の怪異たちは、影も形もなくなっていた。
塵一つ残さず、完全に「消去」されていた。
静寂。
遠くで鳴るサイレンの音だけが、虚しく響いている。
「……はぁ。疲れた」
広場の中央で、鈴木が肩を回していた。
その手には無傷の『十万石まんじゅう』の箱。
「……あ、ありえねぇ……」
田中が震える声で呟いた。
「一瞬……いや、10秒……。数千体を……?」
鈴木(同級生)が信じられないものを見る目で、鈴木(大人)を見つめる。
健太はふらふらと立ち上がった。
身体中の痛みも忘れて、その背中に歩み寄る。
「……鈴木さん」
「ん? ああ、無事だったか、健太」
鈴木は振り返り、いつものようにニッと笑った。
「よく耐えたな。
お前らが食い止めてくれたおかげで、被害は最小限で済んだぞ」
「……」
健太は言葉が出なかった。
自分たちが命がけで築いた壁が、この人にとっては「時間稼ぎ」に過ぎなかったという事実。
そして、その圧倒的な力への純粋な憧れと畏怖。
「……遠いなぁ」
健太はポツリと漏らした。
「あんたの背中、遠すぎますよ」
「当たり前だ。年季が違う」
鈴木は健太の頭をポンと叩いた。
「ま、高校生にしちゃ上出来だ。
今日は帰って寝ろ。……あ、これやるよ」
鈴木は持っていた、まんじゅうの箱を健太に押し付けた。
「埼玉土産だ。疲労回復に効くぞ。……うまい、うますぎるってな」
「……はは。ありがとうございます」
健太は箱を受け取った。
ずっしりと重いその箱は、今の彼には勲章のように感じられた。
最強の陰陽師による、たった10秒の残業。
それは若きハンターたちの心に、決して消えない強烈な「目標」を刻み込んだ夜となった。




