第71話 灰色の暴走と真夜中の物理学
深夜一時。首都高速道路都心環状線。
眠らない街・東京の大動脈であるこの場所も、この時間帯ばかりは交通量が減り、オレンジ色のナトリウム灯がアスファルトの路面を寂しげに照らし出している。
時折通り過ぎるタクシーや長距離トラックの走行音が、遠い潮騒のように響くのみだ。
だが、その静寂は突如として、けたたましいサイレンの音と警察無線の緊迫した怒号によって引き裂かれた。
『――現在位置C1外回り、銀座付近! 対象車両、速度を落とさず暴走中! 繰り返す、対象は停止の呼びかけに応じない!』
『パトカー三台が大破! これ以上近づけません! 物理的な干渉を受け付けない……いや、弾き飛ばされます!』
『積載物は「劇物」指定の化学薬品! 衝突すれば都心部に有毒ガスが拡散するぞ! 絶対に止めるんだ!』
パニックに陥る警察無線。
その混乱の中を、一台の黒塗りのセダンが制限速度を遥かに超えるスピードで疾走していた。
八咫烏の社用車である。
「……たく、剣崎の旦那も人使いが荒いぜ。非番の日に限って、これだ」
ハンドルを握る鈴木太郎が悪態をつきながら、アクセルを踏み込む。
その横顔はいつもの気怠げな社畜のものだが、目は笑っていない。
前方を見据える視線は、獲物を追う狩人のように鋭い。
「文句言ってる場合じゃないですよ、鈴木さん! 無線聞きました!? 化学薬品ですよ!?」
助手席でタブレットの地図情報を確認している斉藤健太が、焦りを隠せずに叫ぶ。
後部座席には、神楽坂瑠璃、田中、鈴木(同級生)、そして桜井詩織が、互いの身体を支え合うようにして座っていた。
急カーブのたびに身体が左右に振られるが、文句を言う者はいない。
事態の緊急性は、全員が理解していた。
「分かってるよ。……だからこうして法定速度を『少しだけ』オーバーして、急行してるんだろうが」
鈴木は涼しい顔で時速140キロでカーブを曲がり切る。
タイヤが悲鳴を上げ、車体がきしむが、彼の超絶的なドライビングテクニック(と、密かに行使している車体制御の術式)によって車はレールの上を走るかのように安定していた。
「……見えてきたわ」
後部座席の中央に座る瑠璃が窓の外を指差して、静かに告げた。
彼らの視線の先。
数百メートル前方の闇の中に、異様な存在感を放つ巨大な影があった。
大型のタンクローリーだ。
だが、ただのトラックではない。
車体全体が赤黒い瘴気のようなオーラに包まれ、ヘッドライトは血走った目のように赤く輝いている。
エンジン音とは違う、獣の唸り声のような重低音が周囲の大気を振動させていた。
Tier4上位・憑依型怪異『暴走車輪』。
古くなった車や事故車に、行き場を失った浮遊霊や地縛霊が憑依し、集合体となって暴走する現代の妖怪だ。
今回はその器が、あまりにも悪すぎた。
「で、デカいっすね……。あんなの、止められるんすか……?」
田中がごくりと喉を鳴らす。
質量にしておよそ20トン。
それが時速100キロ近い速度で暴走しているのだ。
運動エネルギーの塊である。
戦車が突っ込んでくるのと変わらない。
「止めるしかねぇんだよ」
鈴木が短く言い放つ。
「いいか、状況を整理するぞ。
運転手は恐らく気絶しているか、すでに取り込まれている。ブレーキは効かない。
そして一番の問題は、この先の『箱崎ジャンクション』だ」
鈴木は前方を顎でしゃくった。
「あそこは常に渋滞が起きやすい。今も深夜工事で車線規制中だ。
このまま突っ込めば、工事車両や一般車を巻き込んでの大惨事になる。
さらにタンクが破損してガスが漏れれば、首都高は毒ガスの通り道だ」
「……最悪ですね」
「警察の方じゃ、最悪の場合は機動隊の特殊車両をぶつけて無理やり止めるか、あるいは……発砲してタイヤを撃ち抜く算段もしてるらしいが、どっちにしろリスクが高すぎる。横転すれば終わりだ」
鈴木はハンドルを切り、タンクローリーの右側車線へと並走を始めた。
窓を開けると、凄まじい風切り音と怪異が発する腐臭が車内に流れ込んでくる。
「……だから俺たちがやる。
『傷つけずに』『爆発させずに』、この鉄の塊をソフトランディングさせる。
……健太。プランはあるか?」
試すような視線。
健太は暴走する巨大な鉄塊を見上げ、脳内で高速の計算を行った。
力任せに止めようとすれば、慣性の法則で車体はひしゃげ、タンクは破裂する。
念動力で持ち上げようにも、20トンの質量を高速移動中に制御するのは今の彼には荷が重すぎる。
だが。
彼には、あの老人――玄翁から授かった「知恵」があった。
「……やれます」
健太は覚悟を決めた目で、鈴木を見返した。
「質量と速度。……この二つの要素を、俺の念動力で『騙し』ます」
「ほう。……いい答えだ」
鈴木はニヤリと笑った。
「よし。総員、配置につけ!
俺が車を寄せる。……飛び移れ!」
鈴木がアクセルを踏み込む。
黒塗りのセダンが唸りを上げて、タンクローリーの真横、わずか数十センチの距離まで接近する。
回転する巨大なタイヤが、すぐ目の前で轟音を立てている。
「行くぞ!!」
健太の合図と共に、後部座席のドアが開かれた。
「うおぉぉぉっ! 死ぬ気で跳ぶぞ!」
鈴木(同級生)が先陣を切る。
彼はSR『身体能力強化(中)』とR『跳躍力強化』をフル稼働させ、走行中の車から車へと軽業師のような身のこなしで飛び移った。
ローリーの側面に張り付いていたメンテナンス用のハシゴをガシッと掴む。
「田中、来い!」
「おうよ!」
田中が続く。
彼の『硬質化』した腕が鈴木(同級生)の手を掴み、その巨体を引き上げる。
二人は風圧に耐えながら、ローリーのキャビン(運転席)の上へとよじ登っていく。
「詩織、瑠璃さん! 俺に掴まって!」
健太は詩織と瑠璃の腰に腕を回すと、念動力で自らの身体を浮上させた。
並走する車から、ふわりと宙に浮く。
相対速度はゼロでも、風圧は台風並みだ。
彼は念動障壁を流線型に展開し、風を受け流しながらローリーの屋根へと着地した。
「……ふぅ。まずは第一段階、クリアね」
瑠璃が乱れた髪を直しながら、涼しい顔で言う。
彼女にとっては、これくらいは朝飯前なのだろう。
「――グルルルルゥゥ……!!」
屋根に着地した瞬間、車体全体が大きく震えた。
異物が侵入したことに気づいた怪異が、拒絶反応を示したのだ。
車体表面の塗装が剥がれ落ち、そこから赤黒い触手のようなものが無数に伸びてくる。
「うわっ!? なんか出てきた!」
鈴木(同級生)が叫ぶ。
「迎撃だ! 田中、前衛! 詩織を守れ! 瑠璃さん、援護を!」
健太が指示を飛ばす。
「任せろ! 『硬質化』!」
田中が前に出て、襲い来る触手を鋼鉄の腕で弾き返す。
バギンッ! という硬質な音が響く。
「邪魔よ」
瑠璃の手元で不可視の刃が閃く。
風の刃が走り、触手たちを根元から切り裂いていく。
揺れる足場、轟音、襲い来る触手。
カオスな状況下で健太たちは必死に体勢を維持しながら、運転席の上部へと進んでいく。
並走するセダンの運転席から、鈴木太郎が無線で声を飛ばしてきた。
『――おい、時間がないぞ! あと3キロで箱崎JCTだ! 渋滞の最後尾が見えてきた!
衝突まであと2分弱! やるなら今しかねぇ!』
「了解です!」
健太は運転席の真上に立つと、足元の鉄板を見据えた。
透過する『感知』能力で、内部の様子を探る。
運転手は気絶してハンドルに突っ伏している。
アクセルペダルには怪異の触手が絡みつき、ベタ踏み状態で固定されていた。
「……ブレーキも破壊されてる。エンジンを切っても、この慣性じゃ止まらない……!」
20トンの鉄塊が時速100キロで進み続けるエネルギー。
それをゼロにするには、途方もない力が必要だ。
普通なら。
「(……思い出すんだ。玄翁さんの教えを、鈴木さんの言葉を)」
健太は深く呼吸をし、目を閉じた。
周囲の喧騒が遠のいていく。
頭の中に、冷徹な物理式が浮かび上がる。
運動エネルギー = 1/2 × 質量(m) × 速度(v)の二乗。
この巨大なエネルギーを消し去るには、ブレーキ(摩擦)で熱エネルギーに変換するか、壁にぶつかって破壊エネルギーに変換するかしかない。
だが、どちらも今回は使えない。
ならば。
変数をいじるしかない。
速度(v)はいじれない。
ならば質量(m)だ。
「……みんな、俺に捕まれ! 絶対に離すなよ!」
健太が叫ぶ。
仲間たちが健太の身体や、屋根の突起にしがみつく。
「――いくぞ……!!」
健太は両膝をつき、両手を屋根の鉄板に押し当てた。
そして己の持つ全精神力、全霊力を、この巨大なトレーラー全体へと流し込んだ。
イメージするのは「風船」。
鉄を発泡スチロールに書き換える。
重力を否定する。
「――仮想質量変換!! 定義『マイナス』!!!」
ブォン……ッ!!
世界が歪むような感覚と共に、トレーラーを包む空気が変わった。
20トンの重量が、健太の認識の中で急速に「軽く」なっていく。
10トン、5トン、1トン……そして数百キロへ。
ガガガガッ……!
タイヤのグリップ音が変わった。
車体が浮き上がるような感覚。
地面に押し付けられる力が弱まり、トレーラーはまるで氷の上を滑るように不安定に揺れ始めた。
「うわああっ!? 浮いてる!? 車が浮いてるぞ!?」
鈴木(同級生)が悲鳴を上げる。
そう、車体が軽くなりすぎて路面との摩擦力が激減したのだ。
このままでは、少しの横風で横転し、空中に放り出されてしまう。
「(……ここからだ!)」
健太は歯を食いしばる。
質量を減らすだけでは止まらない。
摩擦がなくなれば、いつまでも滑っていくだけだ。
必要なのは「逆方向の力」。
軽くなった車体を強引に押し留めるためのブレーキ。
「――瑠璃さん! 前方防御をお願いします!」
「任せなさい!」
瑠璃が前方に結界を展開し、空気抵抗による風圧から健太たちを守る。
健太は今度は進行方向――前方に向かって右手を突き出した。
「(空気よ……集まれ……!)」
彼はトレーラーの前方にある膨大な量の空気を、念動力でかき集めた。
圧縮し、凝固させ、見えない壁を作る。
いや、壁ではない。
爆発させるための「弾薬」だ。
超高密度の空気塊。
それを進行方向とは逆向きに、ジェットエンジンの逆噴射のように炸裂させる。
玄翁から盗んだ技。
『空気弾』――その最大出力版。
「――とまれええええええええええッ!!!!」
健太の絶叫と共に、空気が弾けた。
ドォォォォォォォォンッ!!!!!!
巨大な空気の大砲が、前方へ向けて発射された。
その反作用。
凄まじい反動が、軽くなったトレーラーを襲う。
ギギギギギギギギギッ!!!
目に見えない巨人の手がトレーラーを正面から押し留めたかのように。
時速100キロで暴走していた車体が、急激に減速を始めた。
90キロ、80キロ、60キロ……。
「グオオオオオッ!?」
車体に憑依していた怪異が悲鳴を上げる。
急激なGに耐えきれず、構成していた霊体が剥がれ落ちていく。
「(まだだ……! まだ止まらない……!)」
目の前には渋滞のテールランプの列が迫っていた。
あと100メートル。
今の速度は時速40キロ。
普通の車なら止まれる距離だが、タイヤのグリップが失われた今の状態では、そのまま滑走して突っ込んでしまう。
「(摩擦だ……! 摩擦を戻さなきゃ……!)」
健太は質量操作を解除しようとした。
重さを戻せばタイヤが路面を噛み、ブレーキがかかる。
だが今、急激に重さを戻せば、慣性で車軸が折れ、車体が分解してしまうかもしれない。
絶妙なバランス制御。
少しずつ重さを戻しながら、空気の壁で押し続ける。
脳が焼き切れそうだ。
鼻からツーと鮮血が流れる。
「健太君!」
背後から、詩織の手が健太の背中に添えられた。
温かい光。
『精神感応』によるダイレクトな精神力の譲渡。
彼女の生命力が、枯渇しかけた健太の脳を潤す。
「……ありがとな、詩織!」
健太の目が、再び輝きを取り戻す。
「――今だ! 質量、全解放ッ!!」
残り30メートル。
健太はマイナス質量の定義を解除した。
同時に田中と鈴木(同級生)が車体の左右に飛び降り、地面に足を着いて人力で車体を支えようとする。
「止まれぇぇぇぇッ!!」
20トンの重量が戻る。
タイヤが白煙を上げ、アスファルトを削り取る。
空気の壁が最後の抵抗を見せる。
そして。
ズズズズズ……ンッ。
トレーラーは渋滞の最後尾にいた軽自動車のバンパーまで、あとわずか数センチというところで完全に停止した。
静寂。
もうもうと立ち込めるタイヤの焼ける煙と白煙。
その中で、トレーラーのボンネットから黒い靄のような怪異の本体が抜け出し、弱々しく空へと逃げようとした。
「――逃がすかよ」
並走していたセダンから降り立った鈴木太郎が、煙草に火をつけるかのような手つきで一枚の呪符を指に挟んでいた。
「――急々如律令。滅」
ヒュッ。
放たれた呪符は正確に怪異の核を射抜き、青白い炎となって燃え上がらせた。
断末魔の叫びと共に、怪異は完全に消滅した。
「……ふぅ。ギリギリだったな」
鈴木はふぅと、煙草の煙(に見せかけた霊気)を吐き出した。
トレーラーの屋根の上では、健太たちが力尽きて大の字になっていた。
「……し、死ぬかと思った……」
鈴木(同級生)が呻く。
「俺の腕……筋肉痛確定だわ、これ……」
田中が自分の腕をさする。
「……でも止めたわね」
瑠璃が少しだけ乱れた髪を直しながら、満足げに微笑んだ。
「物理学と呪術の融合。……悪くない発想だったわよ、斉藤健太」
健太は鼻血を袖で拭いながら、空を見上げた。
東京の空は都会の光で明るく、星は見えない。
だが今の彼には、それが最高に美しい夜景に見えた。
「……へへっ。計算通りですよ」
強がりを言う声は震えていたが、その表情は晴れやかだった。
その夜、首都高の「奇跡の停車」はニュースで「熟練運転手の決死のブレーキ操作」として報じられた。
だが本当の英雄たちが誰なのかを知る者は、この場にいた数人だけだった。
鈴木太郎は後処理のために集まってきた八咫烏の処理班に指示を出しながら、遠くで安堵の笑みを浮かべる健太たちを眺め、小さく呟いた。
「……まったく。成長が早すぎて、こっちの胃が痛くなるぜ」
その言葉とは裏腹に、彼の顔には部下の成長を喜ぶ上司の柔らかな表情が浮かんでいた。
真夜中の物理学実験は大成功で幕を閉じた。
灰色の暴走は食い止められ、彼らの青春はまた一つ、確かな「自信」という色を重ねたのだった。




