第69話 灰色の古豪と、重力の魔弾
土曜日。
地下深くに広がる、八咫烏の訓練施設『鳥籠』は、休日らしく多くの能力者たちで賑わっていた。
爆発音、衝撃音、そして怒号。
コンクリートと強化樹脂で覆われたこの空間は、地上社会の常識が通用しない、力だけが正義の無法地帯――もとい、合法的なストレス発散場と化している。
斉藤健太は、その喧騒から少し離れたエリアで、一人黙々と念動力の制御訓練を行っていた。
宙に浮かせた数十個のビー玉を、互いにぶつからないように、複雑な軌道で旋回させる。
地味だが、神経を削る作業だ。
お台場での大規模レイド、そしてネット怪異との遭遇を経て、彼は「力任せ」の限界と、「精密動作」の重要性を痛感していた。
(……もっと速く。もっと正確に……!)
額に汗を滲ませ、集中力を高める。
その時だった。
「――ほう。なかなか器用なことを、しとるのう」
背後からかけられた、しわがれた声。
健太の集中が途切れ、空中のビー玉たちがガラガラと床に落ちて散らばった。
「……あ」
健太が振り返ると、そこには一人の小柄な老人が立っていた。
身長は160センチほどだろうか。
白髪混じりの頭に、着古したジャージ姿。
腰には手ぬぐいをぶら下げている。
どこにでもいそうな、公園でゲートボールでもしていそうな好々爺だ。
だが健太の『感知』は、その老人から発せられる異質な「静けさ」に、強烈な警鐘を鳴らしていた。
この『鳥籠』にいる他の荒くれ者たちが放つ、刺々しい闘争心とは違う。
まるで凪いだ海のような、底知れない静寂。
「……あ、どうも。こんにちは」
健太は警戒心を隠しつつ、礼儀正しく挨拶をした。
「うむ、こんにちは」
老人は、くしゃりと笑った。
「最近ここに出入りしてるそうじゃないか。
噂の『怪異ハンター』の、念動力使い君」
「……ええ、まあ。斉藤健太です」
「知っとるよ。
若いのにTier4の上位種を単独撃破したとか、新宿のダンジョンを踏破したとか。
若衆の間じゃ、ちょっとした有名人じゃわい」
老人は興味深そうに、健太をまじまじと見つめた。
「ワシもな、ちと気になって挨拶しておきたくてのう。
……同じ系統の能力者としてな」
「……同じ系統? 念動力ってことですか?」
健太が問い返すと、老人はニヤリと笑って、右手を軽く持ち上げた。
すると床に散らばっていた数十個のビー玉が、音もなく、ふわりと浮き上がった。
それだけではない。
ビー玉たちは空中で整列し、まるで生き物のように幾何学模様を描きながら回転し始めたのだ。
健太がやっていた操作よりも遥かに滑らかで、そして自然な動き。
「おう。
ワシのは、お主のようなアプリ産の新品とは違って、80年物のヴィンテージじゃからのう。
年季が違うぞい」
80年。
その数字の重みに、健太は息を呑んだ。
この人はアプリが現れるずっと前から、この力を磨き続けてきた「本物」だ。
「……すごいですね。指先一つ動かさずに、ここまで精密に」
「フォッフォッフォ。褒めても何も出んぞ。
……で、どうじゃ?
せっかく会ったんじゃ。ワシと『比べっこ』しないか?」
「比べっこ……ですか?」
「うむ。模擬戦じゃよ。
最近の若いモンが、どんな力を持っとるのか、肌で感じてみたくてのう」
老人の目が楽しそうに細められた。
その瞳の奥には、武道家のような鋭い光が宿っている。
健太の心臓がドクリと跳ねた。
恐怖ではない。
好奇心と、そして挑戦心だ。
80年の練度を持つ念動力者。
そんな「大先輩」と手合わせできる機会など、滅多にない。
「……へー、面白いですね。良いですよ、やりましょう」
健太は不敵に笑って、その挑戦を受けた。
◇
場所を戦闘訓練用の広いスペースに移す。
周囲には何事かと、野次馬たちが集まり始めていた。
「おい、あれ『玄翁』の爺さんじゃねぇか?」
「相手は誰だ?」
「ああ、最近噂の高校生だよ」
……といった声が聞こえる。
どうやらこの老人、この場所ではかなりの有名人らしい。
「よし、やろうか。
お主の力に合わせて出力は下げてやろうじゃないか。
ハンデじゃ」
老人はジャージのポケットに手を突っ込んだまま、リラックスした様子で立った。
その周囲に、どこからともなく6つの鉄球が浮遊し始める。
大きさはソフトボールほど。
表面は黒く錆びつき、古めかしい。
「……飛び道具ですか」
健太も構えを取る。
彼の周囲には、訓練用に用意されたコンクリートブロックの破片が、数個、衛星のように浮遊している。
「いくぞい」
開始の合図は、あまりにも唐突だった。
老人が視線を動かした――ただそれだけで。
浮遊していた6つの鉄球のうち2つが、弾かれたように健太めがけて射出された。
(……速いッ!!!)
目視できるギリギリの速度。
だが健太の動体視力と『感知』能力は、その軌道を正確に捉えていた。
直線的な軌道。回避は可能だ。
だが健太は、別の選択をした。
(――奪う!)
相手も同じ念動力使いなら、飛んでくる物体の「制御権」を奪えばいい。
こちらの念動力で上書きし、逆に撃ち返してやる。
それは同系統能力者同士の戦いにおける定石だ。
健太は飛来する鉄球に対して、自らの念動力をぶつけた。
見えない手が鉄球を掴むイメージ。
ガシッ。
捕まえた。
……はずだった。
「……っつ!?」
健太の表情が凍りついた。
止まらない。
自分の念動力でブレーキをかけ、停止させようとしたはずの鉄球が、まるで何事もなかったかのように突っ込んでくる。
(なんだ、この重さ……!? ビクともしねぇぞ!?)
見た目はただの鉄球だ。
質量にして数キロ程度のはず。
だが念動力を通して感じるその「重み」は、まるでダンプカーが突っ込んできたかのような、理不尽な質量を持っていた。
「くそッ……!」
制御を奪うのは不可能。
健太は瞬時に判断を切り替え、全力で横に跳んだ。
ヒュンッ!!
鉄球が彼の頬をかすめて通り過ぎる。
その風圧だけで、皮膚が切れた。
だが攻撃は終わらない。
かわしたはずの鉄球が空中で急停止し、直角に曲がって背後から再び襲いかかってきたのだ。
さらに正面からは、残りの4つの鉄球も迫る。
「うわっ、マジかよ!」
健太は全方位に『念動障壁』を展開した。
鈴木特務官との特訓で身につけた、常時展開型のバリアを瞬間的に厚くする。
Tier4クラスの攻撃なら無傷で防げる自信があった。
ドォン!!
重い衝撃音。
鉄球の一つがバリアに激突した。
パリンッ。
乾いた音が響き、健太のバリアが、まるでガラス細工のように粉々に砕け散った。
「――はっ?」
思考が停止する。
バリアを突破した鉄球が、彼の脇腹を深々と抉るように直撃した。
「ぐはぁっ……!!」
激痛。
身体がくの字に折れ、横ざまに吹き飛ばされる。
彼は床を転がり、受け身を取って、なんとか立ち上がった。
脇腹を押さえる手には、べっとりと血がついている。
「な、なんて重さだよ……!
見た目はただの鉄球だけど、これ、どんだけ重いんだよ!!!」
健太が叫ぶと、老人は楽しそうに「カッカッカ」と笑った。
「ハハハ。驚いたか?
この鉄球にはな、特殊な術式で『質量』をプラスしてあるからのう。
見かけは小さいが、一つにつき大体、最大で1トンじゃな」
「……い、1トン……だと……?」
健太は絶句した。
1トンの鉄塊が音速に近い速度で飛んできている。
運動エネルギーの法則に従えば、その破壊力は戦車砲にも匹敵する。
それをこんな軽々と、しかも6つ同時に操っているというのか。
「まあ訓練場じゃから、出力は抑えとるし、急所は外しとるよ。
それに、そっちには優秀な癒やし手がいるからのう。
多少の大怪我も治るぞい」
老人はギャラリーの中にいた詩織の方をちらりと見て、ウィンクした。
詩織は真っ青な顔で、救護の準備をしている。
「さあ、次いくぞい」
老人の指先が動く。
6つの鉄球が再び陣形を組んで、健太を取り囲む。
(……まずい、まずいぞ……!)
健太の額から冷たい汗が噴き出す。
鉄球の重さを聞いてしまったせいで、思考に余計なノイズが混じる。
「当たれば死ぬ」という恐怖。
「防げない」という絶望感。
それが彼の反応を鈍らせる。
ヒュン! ヒュン!
鉄球が次々と襲いかかってくる。
単調な軌道ではない。
加速、減速、急旋回。
老人の意のままに、物理法則を無視した動きで迫る。
(これ、1発なら耐えられるけど……2発同時はキャパシティオーバーだ!
バリアじゃ防げない! 弾くのも無理だ!)
健太は必死に避ける。
『身体能力強化(弱)』による肉体強化と、自身の身体を念動力で押して加速させるサポート。
持てる全ての機動力を駆使して、死の舞踏を踊る。
だが、それでも。
ビュッ!
肩をかすめる。
服が裂け、肉が削げる。
あと数センチ、避けるのが遅ければ腕ごと持っていかれていただろう。
(クソッ! ギリギリだ……!
こっちは必死なのに、爺さんは一歩も動いてねぇ!)
老人は最初の位置から動いていない。
ただ指先を、指揮者のように動かしているだけだ。
圧倒的な格の差。
(だけど……防戦一方じゃ勝てない!
なんとかしないと……!!)
健太は思考を巡らせる。
鉄球の操作に集中している今なら、本体は無防備なはずだ。
こちらのコンクリート片を、隙を見て撃ち込めば――。
彼が反撃の糸口を探そうとした、その時だった。
「ふむ。追いかけっこは飽きるからのう。
若者が必死に踊る様は、見てるだけで楽しいが……ここらで戦況を変えるか」
老人がつまらなそうに呟いた。
(……なんだ!?)
健太の『感知』が異変を捉えた。
鉄球の動きが止まったわけではない。
だが老人の周囲の空気が、急激に「重く」なったような感覚。
莫大な念動力が、老人の手元に収束していく。
(……何か仕掛ける!?)
老人が右手を、銃のような形にした。
親指を立て、人差し指と中指を健太に向ける。
子供の遊びのような仕草。
だがその指先には、目には見えないが、恐ろしいほどの密度で圧縮された「何か」があった。
「――空気弾」
老人が引き金を引くように、指を弾いた。
瞬間。
バァンッ!!!
空気が弾ける轟音。
目に見えない衝撃波の塊が、音速を超えて健太へと放たれた。
「――ッ!?」
鉄球より速い。
そして何より、「見えない」。
健太は本能的な恐怖に従い、全力の念動力で正面に多重のバリアを展開した。
さらに近くにあったコンクリートブロックを盾として、間に挟む。
だが。
ドォォォォォンッ!!!
コンクリートブロックが粉微塵に粉砕された。
展開したバリアが紙屑のように破られる。
「――鉄球よりヤバイ!!!!」
健太がそう認識した時には、衝撃はすでに彼の身体を捉えていた。
まるで巨大なハンマーで全身を叩かれたような衝撃。
肺の中の空気が強制的に排出され、視界が白く染まる。
健太の身体は木の葉のように吹き飛ばされ、十メートル後方の壁に激突した。
ズルズルと床に崩れ落ちる。
意識が遠のいていく。
(……あれ……? 俺……)
暗転。
◇
「……ん……」
健太が目を開けると、そこは『鳥籠』の休憩スペースのベンチだった。
脇腹には包帯が巻かれ、痛みは引いている。
詩織の治癒のおかげだ。
目の前には心配そうに覗き込む仲間たちの顔と、ニカっと笑う老人の顔があった。
「おう、目が覚めたか」
老人が缶のお茶を差し出してくる。
「……爺さん……」
健太は身体を起こそうとして、ふらついた。
「俺……負けたんですね」
「ハハハ。まあ完敗じゃな」
老人はあっさりと認めた。
「年季が違うからのう。
ワシに勝とうなんざ、100年早いわい」
「……くそぉ」
健太は悔しげに唇を噛んだ。
手も足も出なかった。
Tier4や新宿のボス相手には通用した力が、この老人相手には子供の遊び扱いだった。
「だがな」
老人は真面目な顔で続けた。
「鉄球だけじゃなくて、最後の『空気弾』を切らせたのは、大したもんじゃぞ、坊主。
そこらの半端者なら、鉄球のプレッシャーだけで自滅しとる。
最後まで勝機を探して、ワシの隙を窺っておったな?
その『眼』と『度胸』は合格点じゃ」
「……」
「空気弾はな、周囲の空気を念動力で超圧縮して、弾丸のように撃ち出す技じゃ。
鉄球のような媒体がいらんから、武器がない時や不意打ちには重宝するぞ。
お主の出力なら、練習すれば撃てるようになるじゃろう。
……覚えた方がいいのう」
それは勝者からの惜しみないアドバイスだった。
ただ力を誇示するだけでなく、後進を育てようとする老人の懐の深さ。
健太は差し出されたお茶を受け取り、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました。勉強になりました」
負けた悔しさはある。
だが、それ以上に、この敗北は彼に新たな「可能性」を見せてくれた。
質量操作による重い攻撃。
空気を媒体にした不可視の攻撃。
念動力という能力の、さらなる深淵。
「フォッフォッフォ。素直でよろしい。
またいつでも相手になってやるぞい。……次は10秒くらいは耐えてみせろよ?」
老人はそう言って笑い、手ぬぐいで汗を拭きながら去っていった。
その背中は、かつて見た鈴木特務官の背中と同じくらい大きく、そして高く見えた。
「……強くなるしかねぇな」
健太は呟き、お茶を一気に飲み干した。
灰色の敗北は彼を、また一歩、最強への道へと押し上げたのだった。




