第7話 三歳児の矜持と社畜の矜持
土御門晴明三歳。人間としての自我が本格的に芽生え始める“魔の二歳児”期間を、彼は完璧な演技力で乗り切り、今や一族郎党から溺愛される、輝ける三歳児としての地位を確立していた。
彼の主戦場は、相変わらずあの広大なプレイルームである。だが、そこに置かれる玩具のラインナップは、彼の成長に合わせて日々アップデートされていた。最近、彼のお気に入りとなっているのは、イタリア製の真っ赤な三輪車だ。
「じじ……! もっとはやく!」
彼は短い足で一生懸命ペダルを漕ぎながら、隣を並走する祖父・泰山に、たどたどしい言葉で要求する。その表情は真剣そのものだ。
「おお、晴明! なんと速いことか! ですが、これ以上はこの老いぼれの足では……!」
泰山はぜえぜえと息を切らしながら、満面の笑みで答える。日本退魔師協会の頂点に君臨する、この国の裏社会の重鎮が、孫の三輪車に本気で並走し息を切らしている。その光景は、シュールというほかなかった。
(ふっ……。まだまだだな、ジジも)
彼は内心で勝ち誇った。
この一年で、彼の言語能力は爆発的に発達した。もちろん彼は、ずっと前から言葉を理解し、話すこともできた。だが、それを周囲に悟られては面倒なことになる。彼はあくまで「天才ではあるが、年相応の成長をしている三歳児」を演じ続ける必要があった。
初めて「おかあさん」と呼んだ日。母の美咲は、その場で泣き崩れた。
初めて「おとうさん」と呼んだ日。父の泰親は、一瞬固まった後「……ああ」とだけ短く応え、足早に部屋を出ていった。後に女中から、彼が自室で一人肩を震わせていたと聞いた。
そして、初めて「ジジ」と呼んだ日。祖父の泰山は「うおおおお!」と雄叫びを上げ、屋敷中の人間を集めて三日三晩の宴会を開いた。
(……大げさなんだよ、いちいち)
その度に彼は、冷めた目で大人たちの狂騒を眺めていた。だがその一方で、家族というものの温かさを――前世では決して得ることのできなかったその温もりを――確かに感じてもいた。
そして、彼にとってこの一年で最も大きな変化。それは家族が一人増えたことだった。
「晴明お兄様、ただいま戻りました」
プレイルームの入り口から、ひょこりと顔を覗かせたのは式神の小雪だった。その腕には、小さな柔らかな産着に包まれた赤ん坊が抱かれている。彼の妹。土御門 光と名付けられた、新しい家族。
(……おう、おかえり)
彼は三輪車からひらりと飛び降りると(もちろん空中浮遊の術を併用している)、てちてちと妹の元へと歩み寄った。『天理の眼』で妹の様子を窺う。その魂は、まるで磨き上げられた水晶のように、どこまでも澄み切っている。内包する霊力は清らかで膨大。歴代の土御門家の人間の中でも、間違いなく最高クラスの器だ。
(……まあ、俺には遠く及ばないけどな)
それでも彼女が、この家の血筋に相応しい超優秀な才能の持ち主であることは、疑いようもなかった。
「ひーちゃん、ねんね?」
「はい。先ほどミルクを飲まれて、お眠りになりました」
彼は小雪の腕の中で、すやすやと眠る妹の小さな顔を覗き込んだ。自分とよく似た寝顔。その、あまりにも無防備でか弱い存在を見ていると、彼の胸に今まで感じたことのない奇妙な感情が芽生えてくる。
(……こいつは、俺が守ってやらないとダメか)
それは兄としての自覚。あるいは、この世界で唯一、自分と同じ「異常」を共有しうる存在への共感。理由は、彼自身にもよく分からなかった。
並行して。彼のもう一つの人生は、ますますその過酷さを増していた。
夜の帳が下りた都心。一台の、何の変哲もない黒いセダンが首都高速を滑るように走っていた。運転席に座るのは、くたびれたスーツ姿の男――鈴木太郎の姿を借りた、晴明の式神ボディだ。そして助手席には――。
「せーんぱい! 次の現場、あとどれくらいで着きますー?」
元気で、少し間の抜けた声が車内に響いた。声の主は、助手席でスマートフォンの画面をいじりながら尋ねてきた。日向 葵。八咫烏に入って半年。三ヶ月前から彼の相棒としてコンビを組むことになった、後輩のエージェントだ。
茶色く染めた髪をポニーテールに揺らし、少し派手なメイクの下には、まだあどけなさの残る顔立ち。一見すると、どこにでもいる今時の若い女の子にしか見えない。だが、彼女もまた八咫烏にスカウトされた、紛れもない「因果律改変能力者」だった。
「次のスポットまでは、あと十分くらいだ」
「りょーかいです! ……はあ、今日はあと三件ですか。最近、怪異多くないです?」
「まあな。季節の変わり目だからだろう」
「下っ端の私達でもこんなに仕事が多いんだから、上の人たち、ちゃんと寝てるんですかねぇ」
葵はそう言って、大きく伸びをした。
「まあ、その分お給料はしっかり貰ってますけどね! 見てくださいよ、先輩! この前ボーナスで新しいブランド物のバッグ買っちゃったんですよ!」
彼女は後部座席に置いていた、真新しい革のバッグを嬉しそうに指差した。その値段を晴明は知らない。だが、前世の安月給ではおそらく一生縁のない代物だろうということだけは分かった。
「でも、この仕事してると旅行とかしてる暇がないのが悩みなんですよねー。せっかく稼いでも、使う時間がないっていうか。あーあ、どっか温泉とか行きたいなー。休暇取りたいですー」
「……休暇ねぇ」
彼はハンドルを握りながら、ぽつりと呟いた。
「俺はここ一年、休みなしで働いてるぜ?」
「えっ!? まじですか!?」
葵は信じられないという顔で、彼をまじまじと見つめた。
「うそ……。一年無休……? なんで休暇欲しくないんですか? 鉄人ですか、先輩?」
「休暇ねぇ……」
彼は少しだけ、考えるそぶりを見せた。本当の理由は言えるはずもない。この身体は式神だ。休息など必要ない。そして何より、彼には帰る家も待つ家族も、趣味も何もないのだから。赤子の本体が眠っている夜の間だけ――それが彼の唯一の活動時間。休んでしまったら、本当に何もすることがなくなってしまう。
「……仕事してる方が、よくねぇ?」
「いやですよ! 仕事ばっかりなんて!」
葵は心底嫌そうな顔で、ぶんぶんと首を横に振った。
「うわー……。先輩、もしかして仕事人間なんですね……。ちょっと引きました」
「……そうかよ」
彼は短く、そう返すことしかできなかった。
「あー……。そういえばそうでしたね、記憶喪失でしたね。ごめんなさい、先輩」
葵は慌てて謝罪の言葉を口にした。彼の「記憶喪失」という設定は、八咫烏の内部では公式情報として登録されている。
「……別に気にしてない」
「そうだ! 先輩!」
葵は何か名案を思いついたというように、ぱんと手を叩いた。
「今度、地方の仕事受けません? ちょっと遠いところの泊まりがけのやつ! それなら仕事ついでに観光とかもできるじゃないですか!」
「……地方の仕事?」
「はい! 美味しいもの食べて、温泉入って! それなら先輩もちょっとは息抜きになるでしょ?」
その提案は、彼の心にさざ波のように静かに響いた。地方。観光。前世では、仕事の出張で何度か行ったことがある。だが、それは常に時間に追われ、神経をすり減らすだけの苦い記憶でしかなかった。だが今なら――この超人的な身体と、後輩との二人旅。
(……ああ。良いな、それ)
素直にそう思った。土御門の家では、決して味わうことのできない自由。
「今度、上に言ってみるか」
「ほんとですか!? やったー!」
葵は子供のように、無邪気に喜んだ。その笑顔を見ていると、彼のささくれだった心が、ほんの少しだけ和らいでいくような気がした。
車はやがて、目的地の古い雑居ビルの前に静かに停車した。二人は顔を見合わせ、頷き合う。その表情は、もはや先ほどまでの気の抜けたものではなかった。プロのエージェントの顔へと切り替わっていた。
「さてと」
彼はシートベルトを外し、ドアを開けた。
「仕事しますか」
夜の闇が二人を静かに飲み込んでいった。平穏なスローライフへの道は、まだまだ遠い。だが、この面倒で刺激的なもう一つの人生も、存外悪くないのかもしれない。彼はそんなことを、少しだけ思い始めていた。




