第68話 灰色の地下闘技場と、瑠璃色の幾何学
都内某所。
表向きは老朽化し、テナントもまばらな寂れた雑居ビル。
その地下駐車場には、一般人が決して気づくことのない、隠された区画が存在する。
ダミーの配電盤の裏に隠された認証パネルに、鈴木太郎がIDカードをかざすと、重々しい駆動音と共にコンクリートの壁がスライドし、業務用の大型エレベーターが姿を現した。
鈴木班の一行――鈴木、神楽坂瑠璃、日向葵、そして斉藤健太たち高校生四人組――を乗せた箱は、地底深くへと沈んでいく。
表示板の数字がB5、B6……と現実離れした深度を示し、やがてB50で静かに停止した。
扉が開く。
そこに広がっていたのは、地上の喧騒とは無縁の、冷たく無機質な巨大空間だった。
八咫烏・首都圏第三能力者待機所。
通称『鳥籠』。
無機質なコンクリートと、あらゆる能力干渉を減衰させる特殊な『強化魔導樹脂』で覆われた、東京ドーム二個分ほどの広大な地下空間である。
天井には擬似的な空を模した照明が無機質に輝き、広大なフロアのあちこちでは爆発音や衝撃音、そして何者かの怒号が反響していた。
「うわ……すっげぇ広い……!」
「な、なんですかここ……秘密基地……?」
健太と田中が圧倒されたように口を開け、周囲を見渡す。
空間の中央には巨大なリングのような区画があり、その周囲にはトレーニング機器や休憩スペースが点在している。
そこには、見るからにカタギではない雰囲気の者たちがたむろしていた。
全身に入れ墨を入れた巨漢。
宙に浮きながら読書をしている女。
全身から常に火花を散らしている男。
彼らは一様に鋭い眼光を放ち、新入りたちの登場を値踏みするように睨みつけてくる。
「……ここは基本的に、八咫烏に登録してるだけの能力者の待機所だぞ」
鈴木が心底面倒くさそうに説明した。
彼はポケットに手を突っ込み、周囲の視線から身を隠すように猫背になっている。
「任務のないフリーランスや、力の制御訓練が必要な連中。
あるいは単に、力を持て余した馬鹿どもが、時間を潰すための場所だ。
……要するに公認の溜まり場だな」
「へぇー……なんか治安悪そうですね」
鈴木(同級生)がビクビクしながら呟く。
「実際悪い。……まあ、だからこそお前らの修行場所には、うってつけだ」
鈴木は立ち止まると、瑠璃に向き直った。
「瑠璃、あとは頼んだぞ。
ここでこいつらに『結界術』の基本を叩き込んでやれ。
……俺は帰る」
「えっ? 帰るんですか!?」
健太が驚きの声を上げる。
てっきり鈴木も一緒に指導してくれるものだと思っていたからだ。
「当たり前だろ。……いいか、よく見ろ」
鈴木は顎で周囲をしゃくった。
待機所にいる荒くれ者たちの視線が、新入りである健太たちではなく、明らかに鈴木一人に集中しているのが分かる。
その視線には畏怖と、そしてギラギラとした好戦的な色が混じっていた。
「俺はここにいると、狂戦士共に絡まれて面倒なんだよ。
『手合わせ願いたい』だの、『俺の新しい技を見てくれ』だの……。
俺はただの事務方だって言ってるのにな」
鈴木は深々とため息をついた。
八咫烏内部において、鈴木太郎という男の評価は二極化している。
『いつもサボっている無能な窓際族』か、あるいは『最重要案件のみを担当する規格外の掃除屋』か。
そしてこの『鳥籠』のような実力主義の掃き溜めにおいては、後者の噂を信じ、己の強さを証明するために彼に挑もうとする命知らずが後を絶たないのだ。
「というわけで、俺は定時退社だ。……じゃあな」
鈴木は言うが早いか踵を返し、エレベーターへと戻っていってしまった。
その逃げ足の速さは、まさしく神速だった。
「あ、行っちゃった……」
取り残された健太たちが呆然としていると、葵が苦笑しながらフォローに入った。
「ま、まあ先輩は色々忙しいからね……(主にサボることに)。
ここは先輩が言った通り、暇な能力者のたまり場なんだよね。
自分の力を試したい、強い奴と戦いたいっていう戦闘狂も多いから、先輩みたいな『八咫烏の有名人』がいると、どうしても人が寄ってきちゃうんだよ。
みんな知ってるしね、先輩のヤバさ」
「有名人……なんですか?」
詩織が小首を傾げる。
「うん。……まあ『歩く都市伝説』みたいな扱いかな?
よし! とりあえずここなら、どれだけ暴れても、壁を壊しても、すぐに自己修復機能が働くから大丈夫!
訓練することに関しては、フリーパスにしておくね!」
葵は端末を操作し、健太たちのIDカードに『鳥籠』の使用権限を付与した。
「これで、いつでもここに入れるから、自主練に使っていいよ。……あっ、でも!」
葵は急に真面目な顔になって、人差し指を立てた。
「学校サボって来ちゃダメだよ? これ、絶対!」
「え、あ、はい」
「八咫烏に登録してる能力者って、意外と未成年が多いんだけどね。
力を手に入れると、どうしても学校の勉強とか馬鹿らしくなっちゃうでしょ?
それでここに入り浸って、不登校になっちゃう子が結構いるんだよね……」
葵は困ったように眉を下げた。
「でも表向きはただの学生だから、親御さんに言い訳ができなくて……。
『息子が毎日どこかへ行ってるけど、学校には行ってない。不良グループに入ったんじゃないか』って相談が来たりして。
これが八咫烏の、地味に痛い問題なんだよね……。
保護者対応とか、ホント大変なんだから」
「うっ……気をつけます……」
健太たちは身につまされる思いで頷いた。
確かに、こんな秘密基地へのパスを手に入れたら、毎日でも通いたくなる気持ちは分かる。
だが、それで親を泣かせてはヒーロー失格だ。
「うん、いい子だね!
じゃあ私も次の任務があるから行くね!
瑠璃ちゃん、あとはよろしく!」
葵は手を振って、鈴木とは別の出口へと去っていった。
だだっ広い地下空間に、瑠璃と四人の高校生だけが残された。
周囲の荒くれ者たちは、鈴木がいなくなったことで興味を失ったのか、それぞれ自分のトレーニングに戻っている。
「……さて」
瑠璃は、いつものように冷静に、そして教師としての威厳を纏って、四人に向き直った。
「鈴木特務官からの指示通り、今日は『結界術』の訓練を行います。
あなた達は攻撃や防御の『点』の使い方は覚えてきたけれど、空間そのものを支配する『面』や『立体』の使い方ができていないわ。
結界術を覚えれば、戦術の幅が劇的に広がる。……心してかかりなさい」
「はいっ!」
「まずは結界術の基本中の基本。
『指定』『形成』『結界』の三工程による、単純な立方体結界の作成から始めましょう」
瑠璃は、何もない空間の一点を指差した。
「ではまず、丁寧にやってみるわ。
よく見ていなさい」
彼女の指先に青白い霊力が集束する。
「第一工程――『指定』!」
彼女が指先をくいと動かすと、空間に四つの光の点が灯り、それらが線で結ばれて、一辺が一メートルほどの正方形の枠が空中に描かれた。
空間座標の定義。
ここからここまでが、私の領域であるという宣言。
「第二工程――『形成』!」
次に彼女が手をかざすと、その正方形の枠から奥行きを持った線が伸び、瞬く間に光の立方体のフレームが出来上がった。
枠の中の空気が、陽炎のようにゆらりと揺らぐ。
内部の空間密度が変わり、外部とは異なる法則が適用され始めている証拠だ。
「そして第三工程――『結界』!」
瑠璃が短く唱え、パンと柏手を打つと。
光のフレームの内側に、ガラスのような、あるいは薄い膜のような半透明の壁が一瞬にして張り巡らされた。
完全な立方体の結界が、空中に固定される。
コンコン。
瑠璃がその表面を指で叩くと、硬質な音が響いた。
「おー……! すごい……!」
「完全に、空中に箱が浮いてる……」
田中と鈴木(同級生)が感嘆の声を上げる。
「これが基本形よ。
空間を切り取り、内と外を隔絶する。
この中に敵を閉じ込めたり、あるいは自分が入って身を守ったりするのが、最も初歩的な使い方ね。
……さあ、みんな。
今の私の手順を真似して、やってみなさい!
まずは『指定』からよ!」
「はい!」
四人はそれぞれ間隔を開けて立ち、何もない空間に向かって指を突き出した。
「指定……! ここから、ここまで!」
健太が念じる。
彼のSSR念動力は空間把握能力に優れているためか、比較的スムーズに光の点をイメージすることができた。
だが他の三人は苦戦している。
「うぬぬ……点が……定まらないっす……」
「イメージが……霧散しちゃう……」
田中と詩織が呻く。
何もない空中に明確な座標を固定するというのは、想像以上に高度な集中力を要する作業だった。
「焦らないで。
目で見るのではなく、脳内でそこに『枠』があると信じ込むのよ。
霊力はイメージに従うわ。
あなたがそこに壁があると思えば、壁は生まれる」
瑠璃が一人一人の間を回りながら、的確にアドバイスを送る。
「形成! ……ああっ、歪んだ!」
「結界! ……うーん、シャボン玉みたいに割れちゃいますね……」
失敗の連続。
だが彼らは諦めなかった。
何度も何度も指をさし、イメージを固め、霊力を練り上げる。
そして――1時間後。
「……『指定』。『形成』。……『結界』!!」
健太の声と共に、彼の目の前に一辺五十センチほどの小さな、しかし確かな存在感を持つ半透明の立方体が出現した。
「――出来た!!」
「おおっ! 斉藤先輩、すげぇ!」
それに続くように、他の三人からも歓声が上がる。
「こっちも出来たっす! ちょっと歪んでるけど!」
「私も……! 維持できてます!」
全員が不格好ながらも、結界の形成に成功していた。
「おー、出来ましたね! みんな凄いです!」
詩織が自分の作った小さな結界を、愛おしそうに撫でる。
「……ふむ。悪くないわね」
瑠璃が腕を組み、感心したように頷いた。
「結界術は、術式の中では比較的構造が単純な部類よ。
でも、全くの初心者が、わずか1時間でここまで形に出来るというのは正直驚きだわ。
通常、退魔師協会の修行生でも数日はかかる工程よ」
「へへっ、そうですか?」
田中が鼻の下をこする。
「ええ。……おそらくあなた達の中に、あらかじめ『結界』というものに対する明確な視覚的イメージがあったからでしょうね」
瑠璃は分析する。
「アニメ、漫画、ゲーム。
あなた達の世代は、サブカルチャーの中で『結界』や『バリア』といった概念に触れ続けている。
『ATフィールド』然り、『サイコバリア』然り。
“見えない壁”が、どういう風に展開し、どうやって攻撃を防ぐのか。
その共通認識が脳内に刷り込まれているから、術式の構築に必要な『設計図』をゼロから描く必要がなかったのよ」
「あー……確かに」
健太は納得した。
彼が結界を作るとき、脳裏にあったのは、昔見たロボットアニメの防御フィールドの映像だった。
鈴木(特務官)が言っていた「フィクションの知識が現実の能力を後押しする」という理論は、ここでも正しかったのだ。
「そうですね。わりかし簡単にイメージ出来ましたし……。
なんかこう、パリーンって割れる感じとかも想像しやすくて」
鈴木(同級生)が言う。
「そう、その『想像しやすさ』こそが、現代の能力者の最大の武器よ。
……さて、形を作ることは出来た。
次は、その箱に中身を詰める作業よ。
ただの空気の壁じゃなくて、意味を持たせるの。
――次は属性を付与するわよ?」
瑠璃の瞳が、いたずらっぽく、そして厳しく光った。
「属性……?」
「ええ。結界は用途に応じて、様々な特性を持たせることができるわ。
物理防御、対魔防御、認識阻害、環境調整……。
まずは基本中の基本、『隠密』からいきましょう」
瑠璃は、自らが展開した結界の中に手を差し入れた。
「自分の周りに、他者の認識を逸らす『隠密結界』を作成する!
これは光を曲げる光学迷彩とは違うわ。
周囲の風景や気配に同調し、敵の意識から『自分』というノイズを消し去る術式よ。
……さっきの『指定・形成・結界』の手順の中に、『同調』のイメージを織り交ぜなさい。
自分が空気の一部になるように。
石ころになるように」
「同調……空気の一部……」
健太たちは目を閉じ、再び集中を開始する。
これは瑠璃との鬼ごっこで培った「気配遮断」の応用でもあった。
あの時は自分の体内の霊力を抑えることで気配を消したが、今度はそれを結界という外部装甲で行うのだ。
数十分後。
訓練場の端で、鈴木(同級生)の姿が、ふっと薄くなったように見えた。
「……あれ? 鈴木、どこ行った?」
田中がキョロキョロする。
鈴木(同級生)はそこにいる。
目では見えているはずなのに、脳が彼の存在を「背景」として処理してしまっているような、奇妙な感覚。
「成功よ、鈴木君! その感覚を忘れないで!」
瑠璃が声を上げる。
「次は『硬化』!
壁に出来るように、固くするのよ!
ただの空気の膜じゃなくて、鉄板やコンクリートのような質量と硬度をイメージしなさい。
田中君、あなたは得意なはずよ。
『硬質化』の能力の応用だからね」
「うっす! 硬く……硬く……! カチカチになれぇ!」
田中が気合を入れると、彼の前の結界がガラスのような光沢を帯びて実体化した。
健太が試しに小石を念動力でぶつけてみると、カァン! と甲高い音を立てて弾かれた。
「おおっ! マジで硬い!」
「よし、いいペースね。
では最後。……これが今日一番の難関よ」
瑠璃は自ら作った直方体の結界の上に、ひらりと飛び乗った。
彼女は空中に浮いた透明な板の上に、まるで地面に立っているかのように安定して立っている。
「その次は、結界に乗ってみる!
最終的に乗ることが出来れば、空中戦もできるわ!
足場のない場所でも移動できるし、高所からの攻撃も可能になる。
……ただし、これは難しいわよ。
自分の体重を支えるだけの強度を維持しつつ、それを自分の足裏に固定し、さらに移動させる。
複数の処理を同時にこなす必要があるからね」
「乗る……! 空を歩くってことか!」
健太の目が輝く。
念動力で自分を浮かせることはできるが、それはあくまで「浮遊」だ。
空中にしっかりとした「足場」を作ることができれば踏ん張りが効く。
攻撃の威力も段違いになるはずだ。
「やってみます!」
健太は足元に畳一畳分ほどの平たい結界を形成した。
強度を高め、慎重に片足を乗せる。
グニャリ。
結界が体重に耐えきれず、歪んだ。
「うわっと!」
「甘いわ! もっと密度を高めて!
足場にするなら、一点にかかる負荷は分散させなきゃダメ。
イメージしなさい。
水面に氷を張るように。
あるいは、見えない階段を作るように!」
瑠璃の檄が飛ぶ。
四人は汗だくになりながら、見えない階段作りに没頭した。
転んで落ちて、また作って。
『鳥籠』の床に何度も身体を打ち付ける音が響く。
だが、誰も音を上げなかった。
新しいことができるようになる感覚。
自分の世界が上下左右に広がっていく感覚。
それが楽しくて仕方なかったからだ。
やがて健太が、ふらつきながらも空中の結界の上に両足で立つことに成功した。
地上五十センチ。
わずかな高さだが、彼にとっては大きな一歩だった。
「……立った……!」
「いいわ、斉藤君!
そのまま重心を安定させて!
次は鈴木(同級生)君!
あなたはジャンプ力が高いから、空中に足場を作れれば最強の機動力を手に入れられるわよ!」
「はいっ! ……とうっ!」
鈴木(同級生)が跳躍し、空中に作った小さな結界を蹴って、さらに高く跳ぶ。
二段ジャンプ。
ゲームのような挙動が、現実のものとなる。
「すごい……! 私たち、空を飛んでる……!」
詩織も、ふわりと浮かんだ結界の上で、感動したように呟いた。
無機質な地下空間に、若者たちの熱気と、色とりどりの霊力の光が満ちていく。
それは、ただの力任せの暴力ではない。
知恵と技術、そして想像力によって組み上げられた、美しい「術」の体系だった。
瑠璃は教え子たちの成長を満足げに見守りながら、小さく呟いた。
「……まったく。教えがいのある生徒たちだこと」
その口元には、厳しい教官の仮面の下に隠された、年相応の無邪気な笑みが浮かんでいた。
灰色の地下闘技場で行われた、瑠璃色の幾何学講義。
この日学んだ「守り」と「移動」の技術は、やがて来る過酷な戦場において、彼らの命を繋ぐ最強の命綱となるのだった。




