第67話 灰色のポップアップと禁断のハイパーリンク
始まりは、昼休みの教室に流れた奇妙な噂だった。
「ねえ、知ってる? 最近流行ってる『赤い部屋』の話」
「あー、あのフラッシュ動画のやつ? 懐かしいな。小学生の頃に流行ったじゃん」
「違うよ。昔のやつじゃなくて、最近『TikTok』とかで流れてくるリンクのやつ。踏んだら最後、スマホの画面が消えなくなって……その日の夜、部屋に『来る』んだって」
ありふれた怪談。ネットの海に無数に漂う真偽不明の都市伝説。
斉藤健太は、いつものようにコンビニパンを齧りながら、クラスメイトたちのそんな会話をBGMとして聞き流していた。
だが、その日の放課後。
事態は無視できない「現実」となって、彼の目の前に現れた。
「――おい、小林! しっかりしろ!」
教室の隅で、ひとりの男子生徒が机に突っ伏したまま、激しい痙攣を起こしていたのだ。
小林という名のその生徒は、健太のクラスメイトであり、善良で目立たない、ごく普通の生徒だった。
「ああか……。あかい……」
小林は、うわ言のように繰り返している。
その顔色は土気色で、瞳孔は開ききっていた。
そして彼の手にはスマートフォンが握りしめられており、その画面には――。
真っ赤な背景に、黒い明朝体で、ただ一言。
『あなたは――すきですか?』
というポップアップウィンドウが、消しても消しても無限に増殖し続けていた。
「……ッ!」
健太は駆け寄ると、教師や他の生徒が来る前に、そのスマートフォンの画面を上着で隠した。
彼の『感知』能力が警鐘を鳴らしていたからだ。
そのスマホから、そして小林の身体から、ドス黒く粘り気のある不吉な霊気が立ち上っているのを。
「(……間違いない。これは『怪異』だ。それも、いつもの物理的な奴じゃない……!)」
鈴木特務官が焼肉屋で警告していた、「ネット怪異」そのものだった。
◇
放課後の『カフェ・ド・レンガ』。
緊急招集された鈴木班の面々は、深刻な表情でテーブルを囲んでいた。
「……小林君は救急車で運ばれました。一応『過労による貧血』ってことになってますけど……」
詩織が沈痛な面持ちで報告する。
彼女は保健委員として、搬送されるまで付き添っていたのだ。
「でも、私の『完全治癒』でも、彼の意識は戻りませんでした。身体的な傷や病気じゃないんです……。魂の奥底が、何かに掴まれて離さないような……」
「精神干渉系の呪いね」
神楽坂瑠璃が、冷めた紅茶を見つめながら断言した。
「『赤い部屋』。ネット黎明期から存在する、最も有名な都市伝説の一つ……。その最新の変異種、といったところかしら」
「……どうすればいいんだ? あいつ、このままだと……」
健太が拳を握りしめる。
「放っておけば死ぬわ。あるいは精神が崩壊して廃人になる。
これは『ルール型』の怪異よ。ポップアップ広告という『入り口』を通して、ターゲットの精神に侵入し、その恐怖心を餌にして内側から食い荒らす……。物理的な除霊は不可能よ」
「そんな……」
田中と鈴木(同級生)が青ざめる。
殴れば倒せる敵なら、彼らはもう怖くない。
だが、見えない、触れない、逃げられない敵。
それが一番恐ろしい。
「……いや、手はあるはずだ」
健太は顔を上げた。
その目には決意の光が宿っていた。
「鈴木さん(特務官)が言ってた。『猿夢』や『きさらぎ駅』のように、異界に入り込んで助けるパターンがあるって」
「ほう?」
瑠璃が面白そうに眉を上げる。
「小林は今、そいつのテリトリーに引きずり込まれてるんだろ? だったら、俺たちもそこへ行けばいい。
あいつのスマホ……俺がこっそり借りてきた」
健太はポケットから、小林のスマートフォンを取り出した。
画面はまだ、あの不気味な赤いポップアップを表示し続けている。
「ここから『因果律』を辿って、奴の結界のほころびをこじ開ける。
そして、俺たちもあえてその呪いを『食らう』ことで、奴の領域に侵入する」
それは、あまりにも無謀で危険極まりない作戦だった。
敵の腹の中に、自ら飛び込むようなものだ。
「……正気? 相手はネットの集合的無意識が生んだ化け物よ。その精神世界で戦うことが、どれだけ不利か分かっているのかしら」
「分かってる。でも、これしか助ける方法がないなら、やるしかない」
健太は迷わずに言った。
「俺たちには、あんた(瑠璃)がいる……。それに、俺たちだって強くなった。やれるはずだ」
その真っ直ぐな瞳に、瑠璃はふっと口元を緩めた。
「……いいでしょう。その無謀さ、嫌いじゃないわ。
特訓の成果、見せてもらうわよ」
「俺たちも行きます!」
「仲間を見捨てるなんて、できません!」
田中と鈴木(同級生)、そして詩織も力強く頷く。
「よし。……行くぞ」
健太はスマホの画面をタップした。
『あなたは――すきですか?』
その問いかけに対し、彼は心の中で「いいえ」と答えながら、深く意識をダイブさせた。
視界が歪む。
カフェの風景がノイズのように乱れ、崩れ落ちていく。
そして、世界は赤一色に塗りつぶされた。
◇
気がつくと、彼らは見知らぬ部屋に立っていた。
壁も床も天井も、すべてが赤かった。
ペンキの赤ではない。内臓の内壁のような、生々しく脈動する赤。
部屋の隅々には無数のパソコンモニターが埋め込まれ、砂嵐のようなノイズと断末魔のような悲鳴を垂れ流している。
「……ここは……」
詩織が口元を押さえる。
空気が重い。呼吸をするたびに、鉄錆と血の臭いが肺にへばりつくようだ。
「ここが奴の腹の中……『赤い部屋』か」
健太は念動障壁を展開し、周囲を警戒する。
物理的な広さは六畳ほどしかないように見えるが、感覚的には無限に続いているようにも思える奇妙な空間。
「――たす……けて……」
微かな声が聞こえた。
「小林!」
部屋の中央。
赤いケーブルのようなものが複雑に絡み合った繭の中に、クラスメイトの小林が囚われていた。
彼の身体には無数のコードが突き刺さり、そこから生命力が吸い上げられている。
そして彼の周囲の空間には半透明のスクリーンが無数に浮かび、彼に対して精神的な拷問を続けていた。
『お前のせいだ』
『死ね』
『誰も見ていない』
『赤くなれ』
画面に映し出される罵詈雑言。ネットの悪意の奔流。
「ひどい……!」
詩織が駆け寄り、回復の光を灯そうとする。
だが。
「――おっと。邪魔はさせないよ」
無機質な合成音声のような声が響いた。
ズズズ……と壁の赤い肉塊が盛り上がり、人の形を成していく。
現れたのは、真っ赤なコートを着たのっぺらぼうの巨人だった。
顔があるべき場所には、巨大なQRコードが張り付いている。
Tier3相当、『赤い部屋の管理者』。
「ようこそ、新しいお客様……。君たちも赤くなりたいのかい?」
管理者が手を振ると、空間全体が軋みを上げて歪んだ。
「――総員、戦闘開始! 小林を奪還するぞ!」
健太の号令と共に戦いが始まった。
「うおおおおッ! 『硬質化』!!」
田中が先陣を切って突っ込む。
鋼鉄の拳を、管理者のボディに叩き込む。
だが。
ボフッ。
何の手応えもなかった。
田中の拳は管理者の身体を煙のようにすり抜け、空を切ったのだ。
「なっ!? 物理無効かよ!?」
「その通り。ここは私の世界。物理法則など、私が書き換えれば無意味だ」
管理者が指を鳴らす。
すると田中の足元の床が突然液状化し、彼を飲み込もうとせり上がってきた。
「うわっ、足が……抜けない!?」
「鈴木、上だ! 援護しろ!」
「了解ッス!」
鈴木(同級生)が壁を蹴り、天井から奇襲をかける。
だが天井から無数の赤い手が伸び、彼の手足を拘束した。
「くそっ、動きが読まれてる……!?」
「ここは奴のテリトリーだ! 全ての事象が、奴の有利になるように設定されてるんだ!」
健太が叫ぶ。
彼は念動力で周囲のモニターを引き剥がし、弾丸として射出する。
だがモニターは管理者に当たる直前でピタリと止まり、逆に健太たちの方へと向きを変えた。
『エラー発生』
『アクセス拒否』
モニターから赤いレーザーのような光線が放たれる。
「くっ……! 『念動障壁』!!」
健太は全力でバリアを展開するが、その圧力は凄まじかった。
バリアがミシミシと悲鳴を上げる。
(……強い……! これがテリトリー持ちの怪異か……!)
物理攻撃は無効化され、環境そのものが敵対し、こちらの能力は減衰させられる。
まさに「アウェイ」での戦い。
「きゃあぁッ!」
詩織が悲鳴を上げる。
いつの間にか背後に回り込んでいた赤い手が、彼女を捕らえようとしていた。
「詩織!」
健太が助けに行こうとするが、床から伸びた触手に足を取られ、動けない。
「無駄だよ。君たちはここで、新しいデータ(肥料)になるんだ」
管理者が嘲笑う。
絶体絶命。
――その時。
凛とした涼やかな声が、赤い空間に響き渡った。
「……まったく。見ていられないわね」
カツン、という硬質な足音。
それは、このブヨブヨとした不快な空間には似つかわしくない、清廉な音だった。
神楽坂瑠璃が一歩前に進み出た。
彼女の周囲だけ、赤い色が退き、清浄な空気が漂っている。
「か、神楽坂さん……!」
「いいこと? よく見ていなさい」
瑠璃は腰に佩いた不可視の刀の柄に手を添え、静かに目を閉じた。
「敵のテリトリーに取り込まれた時、最も愚かなのは、敵のルールに従って戦おうとすることよ。
物理が効かないなら、物理で殴ろうとするな。環境が敵対するなら、環境に順応しようとするな」
彼女が目を開く。
その瞳は瑠璃色に輝いていた。
「――塗り替えればいいのよ。こちらの『色』にね」
彼女は素早く印を結んだ。
「――臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前。
万魔退散、邪気浄化。
展開――『清浄結界・瑠璃光』!!」
瞬間。
彼女の身体から爆発的な霊力が奔流となって溢れ出した。
それは目も眩むような鮮やかな瑠璃色の光。
光は波紋のように広がり、触れるもの全てを浄化していく。
赤い壁が剥がれ落ちる。
不気味なノイズが静寂に変わる。
床の触手が光に焼かれて消滅する。
わずか数秒で、おぞましい「赤い部屋」は、神聖な神社の境内のような清浄な青い空間へと上書きされた。
「な、なんだこれは……!? バグか!? 私の世界が……!」
管理者が狼狽する。
彼の身体からQRコードが剥がれ落ち、ただの醜い肉塊へと戻っていく。
「無敵」のルールが解除されたのだ。
「さあ、形勢逆転よ」
瑠璃は刀を抜いた。青白い光刃が煌めく。
「私の結界内では、私のルールが適用される。
――ここではあなたは『ただの斬れるモノ』よ」
「ひひいぃぃッ!?」
管理者が後ずさる。
「健太! 今よ! 実体化したわ!」
瑠璃の指示が飛ぶ。
「――おうよ!!」
健太は拘束から解放され、吼えた。
今の彼には、もう迷いはない。
「田中、鈴木! 総攻撃だ!」
「らあぁぁぁッ!!」
田中の鋼鉄の拳が、今度こそ管理者の顔面にめり込んだ。
確かな打撃の手応え。
「グギャアッ!?」
「逃がすかよ!」
鈴木(同級生)が空中から旋回蹴りを叩き込む。
よろめく管理者。
その隙だらけの胴体に、健太は全霊力を込めた念動力を収束させた。
「これで……終わりだァッ!! 『念動・杭』!!!」
見えざる巨大な杭が、管理者の胸を貫いた。
管理者は断末魔の叫びと共に、光の粒子となって砕け散った。
同時に囚われていた小林を縛るコードも消滅し、彼はその場に崩れ落ちた。
「小林!」
詩織が駆け寄り、抱き起こす。
『完全治癒』の光が彼を包む。
数秒後、小林の顔に赤みが戻り、穏やかな寝息を立て始めた。
「……よかった。助かりました……」
詩織が涙ぐむ。
空間が揺らぎ、元の『カフェ・ド・レンガ』の景色が戻ってきた。
外は、もう夜になっていた。
「……ふぅ。疲れた」
健太は椅子に深々と座り込んだ。
どっと疲れが出た。だが、心地よい疲労感だった。
「……助かりました、神楽坂さん。あの結界がなかったら全滅してました」
健太は素直に頭を下げた。
瑠璃は涼しい顔で紅茶(いつの間にか新しく淹れ直されていた)を一口飲むと、静かに言った。
「勘違いしないで。今のは『奥の手』よ」
「え?」
「敵のテリトリーの中で、それを上回る強度の結界を展開して塗り替える……。
これは至難の業よ。膨大な霊力を消費するし、失敗すれば術者自身が汚染されるリスクもある。
……Tier2クラスの私だからできた芸当だと思いなさい」
彼女は釘を刺すように言った。
「本来、敵のテリトリーに引きずり込まれた時の最善手は、ターゲットを確保して『即時撤退』することよ。
倒そうなんて思わないこと。
今回はたまたま勝てたけれど、相手がもっと格上だったら全滅していたわ」
「……はい。肝に銘じます」
健太たちは神妙に頷く。
「でも」
瑠璃は少しだけ表情を和らげた。
「力押しでも勝てない敵ではない、ということは分かったでしょう?
物理が無効なら、理を変えればいい。
結界術を覚えれば、敵のフィールド効果を無効化したり、自分たちに有利な場を作ることもできる。
……あなた達も、そろそろ『殴る』以外の戦い方を覚える時期ね」
「結界術……ですか」
健太は自分の手を見つめた。
念動力と結界。もしそれを組み合わせることができれば……。
新たな可能性の扉が、また一つ開いた気がした。
「まあ、今日はよく頑張ったわ。小林君も無事だし、及第点よ」
瑠璃は空になったカップを置いた。
「さあ、解散しましょう。……明日はテスト勉強もしなきゃいけないんだから」
「うわっ、そうだった! 現実の敵も強敵だ……」
健太たちが頭を抱える。
灰色の恐怖を乗り越えた彼らの顔には、学生らしい屈託のない笑顔が戻っていた。
瑠璃色の結界に守られた夜。
彼らはまた一つ、この世界の深淵を知り、そして強くなったのだった。




