第66話 灰色の境界線と迷い子たちの駅
都心を走る首都高速道路。
渋滞の列に巻き込まれながら、鈴木太郎は社用車のハンドルを指先でリズミカルに叩いていた。
助手席には、制服の上から地味なウィンドブレーカーを羽織った斉藤健太が座っている。
「……で、今日の任務の詳細ですが」
健太が手元のタブレット端末(八咫烏支給品)を見ながら、確認を取る。
「『異界探索』及び『行方不明者の捜索・保護』……。
場所は、私鉄S線の地下鉄工事区画付近で発生した局所的な空間の歪み。
間違いないですか?」
「ああ、そうだ。よく予習できてるな」
鈴木は気怠げにアクビを噛み殺しながら答えた。
「どうも一名、一般人が巻き込まれてるらしい。新入社員の男だそうだ。
昨日、定時で退社して、いつも通り電車に乗ったはずが、そのままプッツリと消息を絶った。
GPSの信号も、駅のホーム付近で途切れてる」
「一日経過……ですか」
健太の表情が曇る。
「まだ、生きてますかね?」
「さあな。
運が良けりゃ、異界の入り口付近で気絶してるか、あるいは時間の流れが違う空間で呆然としてるかもしれん。……運が悪けりゃ、今頃は怪異の腹の中か、精神をやられて廃人コースだ」
鈴木は冷淡に事実を告げる。
「お前の役目は、その歪みの中に入って、行方不明者を見つけ出し、現世に連れ戻すことだ。
ただし今回は、お前一人じゃねぇ。警視庁から刑事が一人、同行する」
「刑事さんですか? 剣崎さん?」
「いや、剣崎さんは外で見張りだ。
中に入るのは、剣崎さんの部下の新人刑事だ」
鈴木はバックミラー越しに後続の車を確認した。
「いいか、健太。今回はただの救助任務じゃねぇ。
『一般人(この場合は警察官だが)』を連れて危険地帯を歩くという、護衛任務でもある。
相手は怪異なんて見たこともない、常識の世界の住人だ。
パニックを起こすかもしれんし、足手まといになる可能性が高い」
「……了解です。
最悪の場合、気絶させてでも、俺が念動力で運びます」
健太は頼もしく言い切った。
以前の彼なら不安で押し潰されていただろうが、今の彼には確かな自信と、それを裏付ける実力がある。
「その意気だ。……よし、現場に着いたぞ」
車は高速を降り、再開発が進む私鉄沿線の駅裏へと滑り込んだ。
そこには工事用のフェンスで囲まれた一角があり、関係者以外立ち入り禁止の看板が立てられている。
その前に一台の覆面パトカーと、二人の男が待っていた。
一人は、ヨレヨレのトレンチコートを着たベテラン刑事、剣崎源。
もう一人は、仕立ての良いスーツに身を包んだ、いかにもエリートといった風貌の若い男。
「――よう、剣崎ちゃん。待たせたな」
鈴木が車を降り、親しげに片手を上げる。
「おう、鈴木の旦那。相変わらず重役出勤だな」
剣崎が苦笑いでタバコをもみ消す。
その横で、若い刑事が怪訝な顔で鈴木と健太を交互に見ていた。
「……剣崎さん。この人たちが、例の『専門家』ですか?」
若い刑事――真島新は、明らかに不服そうだった。
くたびれたサラリーマンと、どう見ても未成年の高校生。
彼らが警察の手には負えない事件を解決するエキスパートだとは、到底信じられないのだろう。
「ああそうだ、真島。紹介する。
こっちが内調の鈴木特務官。そんで、そっちの坊主が……」
「斉藤健太です。よろしくお願いします」
健太が礼儀正しく頭を下げる。
だが、真島の眉間には深い皺が刻まれたままだ。
「……子供ですか?」
真島は隠そうともせずに言った。
「こんな高校生を現場に入れるんですか?
ここは遊び場じゃないんですよ」
「おい、真島。口を慎め」
剣崎が低く窘める。
「すまんね、鈴木ちゃん、健太君。
こいつ配属されたばっかの新人でな。頭はいいんだが、まだ『こっち側』の常識を知らねぇんだ。……八咫烏のことも、お伽話程度にしか思ってねぇ」
「いいえ、事実ですし……」
健太は苦笑いした。
高校生であることは事実だ。見た目で判断されるのは慣れている。
「でも剣崎さん!
一般市民の安全を守るのが警察の責務です!
こんな子供を危険な現場に同行させるなんて、コンプライアンス的にも……!」
真島が食い下がる。正義感が強いのだろう。
だが、それは今の状況では邪魔なだけだ。
「バーカ」
剣崎が呆れたように、真島の頭を軽くはたいた。
「いてっ!?」
「いいか、よく聞け。
そこの健太君はな、お前の10倍……いや、100倍は強いぞ?
柔道有段者だか何だか知らねぇがお前が束になってかかっても、指一本触れられねぇよ。
異能持ち(スペシャリスト)を舐めんな」
「……はぁ? そんな馬鹿な……」
真島は納得がいかない様子だ。
「ハハハ。まあまあ、剣崎ちゃん。それくらいでいいでしょう」
鈴木が笑って仲裁に入る。
「百聞は一見に如かずですよ。中に入れば、嫌でも分かります。
……さて、さっさと始めますか。日が暮れると、『あっち』の気配が濃くなる」
鈴木はフェンスの奥、工事現場の資材置き場の陰へと歩いていく。
そこは何の変哲もない空間に見えた。
だが鈴木と健太には見えていた。
空間が陽炎のように歪み、そこから異質な瘴気が漏れ出しているのが。
「……ここだな」
鈴木は立ち止まり、無造作に右手を空間にかざした。
呪文も印も結ばない。
ただ、そこにあるカーテンを開けるかのような、あまりにも軽い動作。
「――開」
短く呟き、指先で空気を「裂いた」。
ブォンッ!!
重低音と共に、何もないはずの空間に漆黒の亀裂が走った。
亀裂はみるみるうちに広がり、人が通れるほどの大きさの「穴」となる。
その向こう側には、現実の景色とは似て非なる、薄暗く淀んだ駅のホームのような風景が見えていた。
「なっ……!?」
真島が腰を抜かしそうになりながら後ずさる。
物理法則を無視した現象。
目の前で起きた「奇跡」に、彼のエリートとしての常識が音を立てて崩れ去っていく。
「ほい。開いたぞ」
鈴木は何事もなかったかのように振り返った。
「今回の歪みは『きさらぎ駅』の亜種だな。入り組んでるぞ。
じゃあ健太。新人君、連れて行ってきな。
俺と剣崎さんはここで、万が一の時のために退路を確保しとく」
「了解です」
健太は真島に向き直り、手を差し出した。
「行きましょう、真島さん。……離れないでくださいね」
「……あああ……」
真島はまだ信じられないものを見る目で鈴木と亀裂を交互に見つめていたが、刑事としての矜持だけでなんとか立ち上がり、健太の後ろに続いた。
「あっ、健太」
鈴木が呼び止める。
「アレ、忘れんなよ」
「もちろんです。常に『展開』してますから」
健太はニカっと笑うと、黒い穴の中へと足を踏み入れた。
◇
異界の内部は静寂に包まれていた。
見慣れたはずの地下鉄の駅だが、壁の広告は文字化けしたように歪み、蛍光灯は不規則に明滅して、この世のものではない色を放っている。
空気は冷たく、鉄錆とカビの混じったような異臭が鼻をつく。
「……なんなんだ、ここは……」
真島が拳銃に手をかけながら、震える声で呟く。
「異界です。
現実世界とよく似てますが、ここは『あちら側』のルールで動いています。
物理的な距離も、方向感覚も当てになりません。……俺の背中から離れないでください」
健太は冷静に周囲を警戒しながら歩を進める。
彼の周囲には、目には見えないが、微弱な念動力のフィールドが常に展開されている。
鈴木との特訓で身につけた、常時展開型の防御壁だ。
二人は誰もいない歪んだホームを歩く。
カツン、カツン、という足音だけが不気味に反響する。
その時だった。
「……ん? おい、あそこ!」
真島が叫び、ホームの端を指差した。
薄暗いベンチの陰に、誰かがうずくまっているのが見える。
制服姿の小さな女の子のように見えた。
「行方不明者……いや、女の子だ……!
こんなところに子供が……!」
真島のエリートとしての、そして警察官としての正義感が、恐怖を上回った。
彼は健太の制止も聞かず、女の子の方へと駆け出した。
「保護しなくては!
おい君! 大丈夫か!?」
「――あっ、ちょっと待って!! 真島さん!!」
健太が鋭く叫ぶ。
彼の『感知』には、その女の子から発せられる異様な霊気が、はっきりと捉えられていた。
それは人間のものではない。飢えた獣のそれだ。
だが真島は止まらない。
女の子のすぐ側まで駆け寄り、その肩に手を伸ばす。
「大丈夫かい?
怖くないよ。お兄さんは警察官だ……」
女の子がゆっくりと顔を上げた。
長い髪の隙間から見えたその顔に、真島は息を呑んだ。
そこには目も鼻もなかった。
あるのは顔の半分以上を占める、耳まで裂けた巨大な「口」だけ。
その口の中には、サメのような鋭利な歯がびっしりと並んでいた。
「――だいじょうぶ……?」
女の子――いや、怪異が、不協和音のような声でオウム返しにする。
「ひっ……!?」
真島が硬直する。
その隙を、怪異は見逃さなかった。
ガアッ!!
怪異の口が、人間の骨格を無視して大きく開き、真島の頭を丸呑みにしようと襲いかかった。
「うわあああああああぁぁあああ!!」
真島は情けなく悲鳴を上げ、腰を抜かして尻餅をつく。
死ぬ。食われる。
そう確信し、目を瞑った。
ガギィンッ!!
硬質な音が響いた。
痛みは来なかった。
恐る恐る目を開けると、目の前数センチのところで、怪異の巨大な口が見えない「壁」に阻まれて止まっていた。
怪異は必死に噛み付こうとしているが、透明な壁はビクともしない。
「な、なんで……??? なんで……??」
真島が呆然と呟く。
「だから言ったじゃないですか、離れないでって」
いつの間にか健太が真島の前に立っていた。
彼はポケットに手を突っ込んだまま、面倒くさそうに怪異を見下ろしている。
「俺が常に守ってますから。
そんな雑魚の攻撃、通じないですよ」
「ま、守って……?」
健太は目の前の怪異――Tier4下位の『人食い迷子』に対し、右手をすっとかざした。
「……悪いな。人探しで忙しいんだ」
彼が軽く手を握り込む動作をする。
その瞬間。
ギャ!
怪異が短い悲鳴を上げたかと思うと、その身体が四方八方から見えないプレス機で圧縮されたかのように、グシャリと潰れた。
血飛沫一つ上げることなく、怪異は黒い霧となって消滅した。
圧倒的な力。
一瞬の瞬殺。
「……ふー。大丈夫でした? 真島さん」
健太が振り返り、手を差し伸べる。
「今のも怪異です。
この空間が作り出した幻影みたいなもんですね。行方不明者じゃありません」
「あ……ああ……」
真島は健太の手を借りて、よろよろと立ち上がった。
足が震えて力が入らない。
彼は今、自分がどれほど愚かで無力だったかを痛感していた。
子供扱いしていたこの少年が、自分とは次元の違う世界で戦っている「本物」であることを、まざまざと見せつけられたのだ。
「……すまない……。俺が……勝手なことを……」
プライドの高いエリート刑事が、素直に頭を下げた。
「いえ、無事でよかったです。……怪我はありませんか?」
「ああ……大丈夫です」
「じゃあ行きましょう。まだ本物の行方不明者がいます。
この奥……微かですが、人間の生体反応があります」
健太は頼もしく前を向いた。
その後二人は、さらに奥へと進んだ。
何度か小型の怪異に襲われたが、全て健太が指先一つ動かすことなく、念動力のバリアで弾き飛ばし、あるいは壁に叩きつけて排除した。
真島はただ、その後ろ姿を畏敬の念を持って見つめることしかできなかった。
そして駅の最深部。
かつて駅長室だったと思われる部屋の中に、その男はいた。
スーツ姿の若い男が部屋の隅で、気を失って倒れていた。
顔色は悪いが、呼吸はしている。
「……いた! 生きてます!」
健太が駆け寄り、脈を確認する。
「よかった……。衰弱してますけど、外傷はなさそうです。
精神的ショックで気絶してるだけみたいですね」
「……確保ですね」
真島も安堵の息をつく。
「じゃあ出ますか」
健太はそう言うと、気絶している男性の身体を念動力でふわリと浮かせた。
担ぐ必要すらない。
まるで重力がないかのように、男性の身体は健太の後ろに漂う。
「……本当にすごいな、君は……」
真島が感嘆のため息を漏らす。
「便利屋みたいなもんですよ」
健太は照れくさそうに笑った。
帰りはスムーズだった。
健太が来た道を逆走し、空間の裂け目を目指す。
出口の光が見えた時、二人は心底ほっとした。
◇
「――お、戻ってきたか」
現実世界の工事現場。
裂け目から健太と真島、そして空中に浮遊する行方不明者が飛び出してきたのを見て、鈴木が缶コーヒーを飲み干して言った。
「ご苦労様」
鈴木が軽く手を上げる。
健太は男性を丁寧に地面に降ろした。
「よし、行方不明者救出、間に合ったか……。
とりあえず、こいつは病院送りだな。
記憶の処理はあとで専門部隊に任せるとして……」
鈴木はテキパキと指示を出す。
そこへ剣崎が近づいてきた。
「よう、お疲れさん。無事で何よりだ」
剣崎は青ざめた顔をしている真島の肩を、バンと叩いた。
「どうだった、真島?
初めての『あちら側』は」
「……はい」
真島は深々と頭を下げた。
「……いや、自分の考えの浅さを思い知りました……。
僕は……何もできませんでした。斉藤君がいなければ、死んでいました」
その言葉には、もはや以前のような傲慢さは微塵もなかった。
あるのは未知への恐怖と、己の無力さを知った者だけが持つ謙虚さだった。
「まあ、そんなもんだ」
剣崎は優しく笑って、タバコに火をつけた。
「誰だって最初はビビる。俺だってそうだった。
落ち込むな。失敗することもある。
大事なのは、そこから何を学ぶかだ」
「……はい。肝に銘じます」
「じゃあ、あとは任せてください」
鈴木が車のキーを回した。
「健太、行くぞ。明日は学校だろ? 送ってく」
「あっ、はい! ありがとうございます!」
健太は真島と剣崎に向かって一礼した。
「今日はお疲れ様でした。真島さん、また現場で」
「ああ……!
ありがとう、斉藤君。君は……本物のヒーローだ」
真島の言葉に、健太は少し顔を赤くして「ただのバイトですよ」と笑って車に乗り込んだ。
走り去る鈴木の車を見送りながら、剣崎は紫煙を夜空に吐き出した。
「……いい目をするようになったな、あいつらも」
「ええ……。僕も負けてられませんね」
真島は夜の闇を見つめながら、強く拳を握りしめた。
彼の中で、何かが変わり始めていた。
刑事としての、そして「この街を守る者」としての、新しい覚悟が芽生えようとしていた。
灰色の境界線を越えた夜。
それは若き能力者にとっても、若き刑事にとっても、忘れられない成長の一夜となった。




