第65話 灰色の補習授業と瑠璃色の基礎理論
八咫烏本部地下の小会議室。
無機質なホワイトボードの前で、神楽坂瑠璃は指示棒(どこから調達してきたのか、先端が猫の手の形をしたファンシーなものだ)を、ピシりと鳴らした。
彼女は今日、いつもの制服姿に加えて、伊達眼鏡をかけている。
それは彼女なりの「教師モード」へのスイッチであり、同時に、この場を支配する絶対的な権威の象徴でもあった。
机を並べて座っているのは、斉藤健太、桜井詩織、田中、鈴木(同級生)の四名。
彼らの表情は真剣そのものだ。
なぜなら事前の通達で、「この復習テストで赤点を取った者は、次回の実戦任務への参加を禁止し、一週間の基礎体力作り(地獄のランニング)のみとする」と宣告されていたからだ。
部屋の後ろでは、鈴木太郎(特務官)がパイプ椅子に浅く腰掛け、いつものように缶コーヒーを啜りながら、その光景を気怠げに眺めていた。
「――さて。先日の焼肉での鈴木特務官の話を聞いて、あなた達も理解したはずよ」
瑠璃の声が、冷涼な空気を震わせる。
「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。……あなた達は実戦で感覚的に戦うことには慣れてきたけれど、理論的な裏付けが圧倒的に不足しているわ。
特に、『怪異』という存在そのものへの理解がね」
彼女は眼鏡のブリッジを、中指でクイと押し上げた。
「というわけで、今日は徹底的に『怪異理論』の復習を行います。……いいこと?
これはゲームの攻略情報を覚えるのとは、わけが違うわ。
あなた達の命を守るための、必須科目よ」
「「「はいっ!!」」」
四人の元気な返事が響く。
「では第一問。基本中の基本からいきましょう」
瑠璃はホワイトボードに大きな文字で、『怪異とは何か?』と書き殴った。
「斉藤健太。答えてみなさい」
指名された健太が、弾かれたように立ち上がった。
「ハイ!
怪異の発祥や起源は、土地の伝承、人間の情念、自然現象の具現化など、多岐にわたるため、一言でその全てを説明することはできません。……が!」
彼は一度言葉を切り、八咫烏から配られた教本の内容を正確に暗唱した。
「八咫烏における定義としては、『人間以外の存在であること』、かつ、『生物学的に分類される現存している種族ではないモノ』を指します。
古来より、妖怪、妖魔、魔物、あやかし……等々、様々な名称で呼ばれてきましたが、現代においては、これらを総称して『怪異』と定義しています!」
「……ふむ」
瑠璃は口元に微かな笑みを浮かべた。
「正解よ。よく暗記できているわね」
「へへっ、まあ、これくらいは」
健太が鼻の下を擦って座る。
リーダーとしての面目は保たれた。
「――ですが、補足が必要です」
瑠璃は鋭い視線を、教室全体に巡らせた。
「今の定義だけだと、『人間以外で未確認の生物は全部敵なのか?』という誤解を生みかねないわ。……鈴木君(同級生)。
怪異は、必ずしも人類に有害であると言えるかしら?」
「えっ、俺っすか!?」
不意打ちを食らった鈴木(同級生)が慌てて立ち上がる。
「えーと……たぶん、違います!
あの鈴木さんから海藤支部長の話とか、大阪の虎谷さんの話とかありましたけど……。
怪異の中には、知性や思考があって、人間を襲わないで共存してるやつらもいるって……」
「その通りよ」
瑠璃は頷いた。
「怪異だからといって、即座に駆除対象となるわけではないわ。
古くからその土地に根付き、人間と一定の距離を保って共存している『善良な怪異』や、あるいは神格化されて祀られている『土地神』クラスの怪異も数多く存在する。……彼らは無闇に人間を襲わないし、時には守り神として益をもたらすことさえあるわ」
彼女はそこで声を一段低くした。
「……とはいえ。私たちが現場で遭遇する怪異の“大半”は、人間に明確な敵意を持っている。
あるいは、存在すること自体が人間に害をなすモノたちよ」
「それは……どうしてですか?」
詩織がおずおずと手を挙げて質問する。
「良い質問ね。……それは、多くの怪異が『負の感情』や『穢れ』を核として発生しているからよ」
瑠璃は説明を続けた。
「恨み、辛み、妬み、恐怖。
そういったマイナスのエネルギーから生まれた存在は、本能的に『正のエネルギー』を持つ人間を妬み、憎み、そして喰らおうとする。……彼らにとって人間は『敵対者』であり、同時に『餌』でもあるの。
だから基本的には『敵』と認識して、警戒を怠らないこと。……分かったかしら?」
「はい!」
「よろしい。では次。これも実戦では生死を分ける重要な知識よ」
瑠璃はホワイトボードの文字を消し、新たに『Tier(脅威度等級)』と書き込んだ。
「私たちが使っているアプリ『KAII HUNTER』、そして八咫烏が採用している怪異のランク分けについて。
田中君、説明して!」
「うっす! 任せてください!」
田中が自信満々に立ち上がる。
彼は肉体派だが、こういう「強さランキング」的な話は大好きなのだ。
「えーと、まず一番下の『Tier5』!
これは雑魚っすね。数が多いだけで、単体なら一般人がバットで殴っても勝てるレベル……いや、勝てるかもしれないレベルです。
でも集団になると、知能を使って連携してくるやつらもいるんで、油断は禁物です!」
「そうね。ゴブリンもどきや小型の獣型怪異が、これに当たるわ。……続けて」
「次は『Tier4』!
ここからは明確な『能力』を持たないまでも、身体能力が人間離れしてたり、皮膚が硬かったりするやつらです。
俺らみたいな能力者なら、同じTier4までならタイマンでも対処可能です!
でも特殊な攻撃……毒とか麻痺とか持ってるやつもいるんで、やっぱり油断はダメっす!」
「正解。ここまでは『物理でなんとかなる』領域ね。……次からは?」
田中の顔が少し引き締まる。
「『Tier3』……ここからはヤバいです。
明確な『異能』を使ってくる強敵です。炎を吐いたり、姿を消したり、精神攻撃してきたり。
同じTier3の能力者なら対処可能ですけど、相手の能力との相性が悪いと、あっさり殺される可能性があります。
だから相手の能力を見極めて、対処法を変える必要があります!」
「その通りよ。現代怪異(ネット怪異)の多くも、このTier3以上の危険度判定を受けることが多いわ。
理不尽な『ルール』という能力を持っているからね。……さて、その上は?」
「『Tier2』!
これはもう、俺らが戦ったお台場のボスとか、指揮官ゴブリンみたいな『王』クラスです。
集団戦ならワンチャンありますけど、ソロで遭遇したら基本的には『死』あるのみです。
逃げるが勝ちっす!」
「的確な判断ね。そして頂点は?」
「『Tier1』は、国家転覆が可能なレベルの大怪異。自衛隊とかが出てくるレベルっすね。絶対近づいちゃダメです。
そして『Tier0』……これはもう神様です。災害とか天変地異そのものなんで、敵対するとかそういう次元じゃないっす。
祈るしかないです!」
田中が一気にまくし立てて、ドヤ顔で座る。
「……概ね正解よ。よく勉強しているわね」
瑠璃は満足げに頷いた。
「補足するとね。あなた達能力者は基本的に『自分と同じTierの怪異なら一対一で対処可能』という基準でランク付けされているわ。
逆に言えば、自分より上のTierの怪異には、単独ではまず勝てないということ。
アプリのレーダーで敵のTierを確認し、格上だと判断したら即座に撤退、あるいは増援を呼ぶ。……この判断の速さが、生存率を上げるのよ」
後ろで聞いていた鈴木が、缶コーヒーを置いて口を挟んだ。
「ちなみにTier判定ってのは、あくまで『推定値』だ。
アプリのレーダーは、対象が放出している霊力の総量を計測して、ランク付けしてるに過ぎねぇ。
だから霊力を隠蔽している知能犯や、条件次第で出力が跳ね上がるタイプの怪異には、レーダーの表示が当てにならないこともある。
『Tier5だと思って近づいたら、擬態したTier3だった』なんて笑えない話もあるからな。……数字だけを鵜呑みにするなよ」
「……はい、肝に銘じます」
健太たちが神妙に頷く。
「さて、ここからが今日の本題よ」
瑠璃はホワイトボードを綺麗に消すと、四つの大きな枠を描いた。
「怪異の強さ(Tier)については理解したわね。
次は怪異の『種類』についてよ。
敵のタイプを見誤れば、どれだけレベルが高くても足元を掬われる。……桜井さん、説明できるかしら?」
「は、はい!」
詩織が立ち上がり、ノートを見ながら丁寧に答える。
「えっと……まず一つ目は『生物型(物理型)』です。
これは肉体をしっかりと持っていて、物理的な攻撃……殴ったり、斬ったり、健太さんの念動力で物をぶつけたりすることが有効なタイプです。
私たちが普段戦っている雑魚怪異の多くは、これに当てはまります」
「そうね。一番対処しやすい、分かりやすい敵よ。……次は?」
「二つ目は『憑依・精神干渉型』です。
特定の場所や物、あるいは人間に取り憑いて、周囲に精神汚染を撒き散らしたり、幻覚を見せたりするタイプです。
……前の廃校で戦った『人面瘡』などが、これですね。
物理攻撃よりも、本体を見つけ出して祓うか、精神防御の術が必要になります」
「ええ。物理特化の田中君や鈴木君にとっては、相性の悪い相手ね。……三つ目は?」
「三つ目は……先日教えていただいた『現代怪異・ルール型』です。
ネットロアや都市伝説から生まれた『ルール』や『呪い』そのものが実体化したタイプ。
物理攻撃が無効だったり、特定の条件を満たすと即死したりする、非常に危険なタイプです」
「その通りよ。これについては前回の焼肉講義で鈴木特務官から散々脅かされたでしょうから、割愛するわ。……そして最後の一つは?」
詩織は少しだけ声を震わせながら答えた。
「……『霊型怪異』です」
その言葉に、教室の空気が少しだけ重くなった。
「人間や動物の霊魂が、死後、強い未練や怨念によって現世に留まり、怪異化したモノです。
一般的に『悪霊』とか『地縛霊』『浮遊霊』と呼ばれるモノたちが、これに該当します」
「正解よ。……そして、この『霊型』には他の怪異とは決定的に違う、ある厄介な特徴があるわ。それは何?」
「……『基本的に目に見えない』というルールを、強いてくることです」
詩織が答える。
「そうです。生物型の怪異は異形の肉体を持っているから、霊感のない一般人でも(認識できるかどうかは別として)視覚的に捉えることは可能です。
でも霊型怪異は純粋な精神体に近い存在です。
だから基本的には物理的な肉体を持ちません。
普通の人間には見えないし、触れない。声も聞こえない。……でも向こうからはこちらは丸見えで、一方的に干渉してくるんです」
「その通り。……これが一番厄介なのよ」
瑠璃はホワイトボードに、『不可視の恐怖』と書き込んだ。
「見えない敵と戦うことほど、恐ろしいことはないわ。
気づかないうちに背後に立たれ、気づかないうちに首を絞められ、気づかないうちに生気を吸われる。
原因不明の病気、事故、自殺……。
そういった『不幸』として処理されている事象の裏には、この霊型怪異が関わっているケースが非常に多いの」
「……じゃあ、どうやって戦えばいいんですか?」
田中が不安そうに尋ねる。
「対策は二つあるわ」
瑠璃は指を二本立てた。
「一つは、あなた達が持っている『KAII HUNTER』のアプリ。
あのアプリには霊的な波長をデジタル信号に変換して、スマートフォンの画面越しに『強制可視化』させる機能が備わっているわ。
AR(拡張現実)機能みたいなものね。
スマホのカメラを通せば、そこにいる霊の姿がはっきりと見える」
「なるほど……。ポケ○ンGOみたいに探せってことか」
「そうね。
でも戦闘中にいちいちスマホの画面を見ながら戦うなんて、隙だらけで現実的じゃないでしょう?」
「た、確かに……」
「だから、もう一つの対策が必要になるの。
それは……あなた達自身の『目』を、霊が見えるようにチューニングすることよ」
「チューニング……?」
「そう。『霊視』や『霊感』と呼ばれる能力ね。
生まれつき持っている人もいるけれど、後天的に鍛えることも可能よ。
あなた達はすでに能力者として覚醒し、霊力を扱えるようになっている。
ならば、その霊力を『網膜』と『視神経』に集中させ、現世と幽世の境界を透かして見る術を覚えればいい」
瑠璃は自分の目を指差した。
「これを『霊眼の開眼』と呼ぶわ。
これができなければ、霊型怪異との戦闘は不可能よ。
見えない相手には、こちらの攻撃も当たらない。
霊型怪異はね、こちらが『認識』して初めて、向こうも物理的な干渉を受け入れるという性質があるの。
『見る』こと自体が、最大の攻撃の第一歩なのよ」
「……見ることで実体化させるってことか……」
健太が難しそうに眉をひそめながらも、理解を示す。
「そういうこと。
さらに霊型怪異は、物理的な攻撃(打撃や斬撃)に対して強い耐性を持っていることが多いわ。
中身がスカスカの幽霊を、バットで殴ってもすり抜けるだけでしょう?
だから攻撃には必ず『霊力』を纏わせる必要がある。
念動力にも、硬質化した拳にも、しっかりと自分の霊力を乗せて叩き込む。
そうすれば霊体にも、ダメージを与えられるわ」
「……霊力を乗せるか」
田中が自分の拳を見つめる。
「あと霊型怪異の攻撃手段についても、注意が必要よ。
彼らは肉体がない分、精神や魂に直接干渉してくる攻撃が得意よ。
『憑依』されて身体を乗っ取られたり、強力な『霊障』を受けて体調不良や不幸に見舞われたり。
最悪の場合、ポルターガイスト現象を引き起こして、周囲の家具や建物を凶器に変えて襲ってくることもあるわ」
「ポルターガイスト……。よくいる『出張説明会』の中学生の子も、それでしたね」
健太が思い出す。
「ええ。あれは彼自身の能力の暴走だったけれど、悪霊が引き起こすポルターガイストはもっと凶悪よ。
殺意を持って、包丁やガラス片を飛ばしてくるからね」
瑠璃は講義を締めくくった。
「いい?
これからの戦いでは、今までのような『物理で殴れば死ぬ』相手ばかりではないわ。
見えない敵、触れない敵、ルールで縛る敵。
そういった多種多様な『理不尽』に対応できるよう、知識と感覚を研ぎ澄ませなさい。
……今日の授業はここまで。何か質問は?」
四人は圧倒的な情報量に頭を抱えつつも、充実した表情でノートを取っていた。
その様子を見て、後ろの鈴木がボソリと呟いた。
「……ま、知識があっても死ぬ時は死ぬがな。
一番大事なのは『ヤバいと思ったら逃げる』って直感だ。
特に霊型怪異の場所(心霊スポット)は、空気が淀んでる。
『なんか嫌な感じがする』『寒気がする』……そういう動物的な勘を無視するなよ。
……それがお前らが人間である証拠であり、最後の安全装置だからな」
その言葉は、教科書には載っていない、現場を知る者だけが持つ重みのあるアドバイスだった。
「はい! ありがとうございます!」
健太たちは、瑠璃と鈴木、二人の師に向かって深々と頭を下げた。
灰色の補習授業は終わった。
だが彼らの頭の中には、新たな知識という武器が、確かに刻み込まれていた。
それは、これから待ち受けるであろう、より深く暗い闇の中での戦いを生き抜くための、小さな、しかし確かな灯火となるはずだった。




