第63話 灰色の地下迷宮と黄金の羅針盤
特訓から数日が過ぎた、ある日の放課後。
鈴木班の面々は、いつものように『カフェ・ド・レンガ』のボックス席に集まっていた。
だが今日のテーブルの上にはケーキもコーヒーもなく、代わりに一枚のタブレット端末が置かれ、全員が深刻な顔でそれを覗き込んでいた。
「……ダンジョンですか?」
斉藤健太が、眉をひそめて尋ねる。
「ああ。今朝方、アプリの運営から通知があった」
鈴木太郎が気怠げにタブレットの画面をタップした。
表示されたのは見慣れた新宿駅の構内図……のように見えるが、どこか歪で、複雑怪奇に入り組んだ地図だった。
「『特定危険区域の発生を確認。ハンター諸君は直ちに調査・攻略せよ』だとさ」
「新宿駅……ですよね、これ」
田中学が、地図を指差す。
「ただでさえ『リアル・ダンジョン』って呼ばれてる迷宮駅なのに、これ以上ややこしくしてどうすんすか……」
「笑い事じゃねぇぞ。これは、現実空間が浸食されている現象だ」
鈴木の声が低くなる。
「一般人の立ち入りは、八咫烏の結界班と警察が協力して『ガス漏れ事故』の名目で封鎖している。
だが、いつまでも封鎖し続けるわけにはいかない。首都の大動脈だぞ」
彼は四人の顔を見渡した。
「今回の任務は、この『新宿ダンジョン』の最深部に到達し、空間の歪みの核となっている『主』を排除することだ。……お前らの特訓の成果、実戦で試してこい」
――午後11時。新宿駅東口。
封鎖線の黄色いテープを潜り抜け、健太たちは静まり返った駅構内へと足を踏み入れた。
普段なら終電間際でも酔っ払いや若者でごった返しているはずの場所が、今は墓場のように静まり返っている。
蛍光灯はチカチカと明滅し、空気は冷たく、どこか鉄錆のような臭いが漂っていた。
「……空気が違いますね」
詩織が、自分の腕を抱くようにして震える。
彼女の『完全治癒』の能力は生命力に敏感だ。この場所に満ちる「死」と「異界」の気配を、誰よりも強く感じ取っているのだろう。
「気をつけなさい。ここからは、日本の法律は通用しないわ」
神楽坂瑠璃が、腰に佩いた(ように見える不可視の)刀に手をかけ、油断なく周囲を警戒する。
彼女と鈴木は、あくまで「監督役」として後方待機だ。戦うのは健太たち四人。
「行くぞ。……陣形Aだ」
健太の低い指示と共に、四人は即座に散開した。
先頭に盾役の田中。左右に遊撃の鈴木(同級生)と司令塔の健太。
そして中央後方に詩織。
教科書通りの、しかし強固な探索陣形。
改札を抜け、地下へと続く階段を降りた瞬間、世界が一変した。
そこは、もはや駅ではなかった。
壁はコンクリートではなく、脈動する赤黒い肉のような質感に変わり、床からは鍾乳石のように鋭い棘が生えている。
天井からは、得体の知れない粘液が滴り落ちていた。
「うわキッショ……」
鈴木(同級生)が顔をしかめる。
「来るぞ! 前方三体!」
健太の『感知』が反応した。
鈴木特務官との特訓で掴んだ、薄い膜のような念動フィールド。それに、何かが触れたのだ。
暗闇の奥から姿を現したのは、駅員の制服をボロボロに纏った、顔のない人型の怪異だった。
手には錆びついた改札鋏が一体化している。
Tier4下位『彷徨う駅員』。
「シャアアアアッ!!」
怪異たちが奇声を上げ、人間離れした速度で滑るように迫ってくる。
「田中、受け止めろ!」
「おうよ! 『硬質化』!!」
田中が前に出る。
彼の全身が鋼色に染まり、先頭の怪異が振り下ろした巨大なハサミを、腕一本でガギィッ! と受け止めた。
「ぐっ……! 重てぇけど、通らねぇぞ!」
「ナイスだ田中! 鈴木、右!」
「了解ッス!」
鈴木(同級生)が壁を蹴り、天井へ。
重力を無視した三次元機動で怪異の頭上を取り、その首筋へ強化された踵落としを叩き込む。
そして健太。
彼は、以前のように距離を取って瓦礫を投げることはしなかった。
彼は、自ら前に出た。
「(……見える!)」
特訓の成果か、敵の動きがスローモーションのように感じられる。
振り上げられる腕。踏み込む足。
その「力のベクトル」が、彼の展開した念動フィールドを通じて手に取るように分かる。
一体の怪異が、健太の喉元を狙ってハサミを突き出してきた。
健太は動じない。
突き出されたハサミの切っ先に対し、ほんの僅か数ニュートンの念動力を横から加える。
フッ。
必殺の一撃は、健太の首の皮一枚横を虚しく滑っていった。
「(隙だらけだ!)」
健太は一歩踏み込み、懐に入る。
そして、がら空きになった怪異の胴体へ右の掌を押し当てた。
「――穿て」
ゼロ距離念動砲。
ドォン!!
衝撃波が怪異の体内を駆け巡り、背中から衝撃が突き抜ける。
怪異は声を上げる間もなく吹き飛び、壁に激突して霧散した。
「……よし!」
健太は自分の手を見つめ、握りしめた。
やれる。近接戦闘でも、もう遅れは取らない。
「お見事ね」
後方から、瑠璃の涼やかな声が聞こえる。
「力の使い方が洗練されてきたわ。無駄な破壊がない。……エコでよろしい」
「エコって……」
健太は苦笑いしながらも、素直にその評価を受け取った。
一行は、順調に地下深くへと進んでいった。
地下鉄のホーム、連絡通路、デパ地下。
見慣れた景色が悪夢のように歪められた回廊を、彼らは地図しながら踏破していく。
そして最深部。
かつて大江戸線のホームだったはずの場所。
そこに、その「主」はいた。
線路の上に横たわる巨大な電車――のように見える百足の怪物。
車両の窓の一つ一つが、苦悶の表情を浮かべた人間の顔になっている。
Tier3相当『無限連結・怨念列車』。
「……でけぇ……」
田中が圧倒される。全長は百メートル近い。
「総員散開! 正面には立つな!」
健太の指示と同時に、怨念列車が猛スピードで突進してきた。
轟音。振動。狭いホームを、鉄の塊が暴れまわる。
「詩織、後ろへ! 田中、奴の足止めは無理だ、逸らせ!」
「無理言うなよ! でもやるしかねぇ!」
田中が線路脇の鉄骨を引っこ抜き、突進してくる列車の側面に叩きつける。
軌道がわずかにずれる。その隙に、鈴木(同級生)が車両の連結部を狙って攻撃を仕掛ける。
だが硬い。装甲が厚すぎる。
「ちっ、打撃じゃ通らねぇ!」
「なら中から壊す!」
健太が叫ぶ。
彼は念動力で自らの身体を浮上させ、暴走する列車の屋根へと飛び乗った。
振り落とされそうになるのを、足裏に念動力を集中させて吸着し、耐える。
風圧が顔を叩く。
「(コアは……どこだ!?)」
彼は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませる。
巨大な質量。渦巻く怨念。その中心にある、ひと際強い力の奔流。
「(……先頭車両、運転席!)」
健太は屋根の上を走り出した。
触手のように伸びてくる架線やパンタグラフを、最小限の動きで躱し、弾く。
運転席の真上。
彼はそこで立ち止まり、右手に全身全霊の念動力を収束させた。
「――止まれぇぇぇッ!!」
彼は掌を屋根に叩きつけた。
破壊ではない。「制動」。
巨大な列車の運動エネルギーを、真上からの圧力で無理やり抑え込む力技。
ギギギギギギギギッ!!!
悲鳴のような金属音と共に、列車の車輪が火花を散らし、その巨体が急停止した。
慣性の法則に従い、後ろの車両が前の車両に乗り上げ、ジャックナイフのように折れ曲がる。
その衝撃で、運転席の装甲が弾け飛んだ。
中に見えたのは、運転手の帽子を被った髑髏。
「鈴木、今だ!!」
「うおおおおッ!!」
待ち構えていた鈴木(同級生)が、田中の手のひらを足場にして大ジャンプ。
空中から、剥き出しになった髑髏へ渾身の飛び膝蹴りを叩き込んだ。
パァンッ!
髑髏が砕け散り、巨大な列車は断末魔の汽笛を上げて崩れ落ちた。
光の粒子となって消えていく巨大な影。
後に残されたのは、ボロボロになりながらも勝利を噛み締める四人の姿だった。
「……ふぅ。……終わったな」
健太が屋根(だった場所)から降り立ち、肩で息をする。
「お疲れ様。……なかなかのショーだったわ」
瑠璃が拍手しながら近づいてくる。
鈴木特務官も、缶コーヒーを片手にのんびりと歩いてきた。
「まあ合格点だな。連携も取れてたし、個々の判断も悪くなかった」
「ありがとうございます!」
四人は誇らしげに顔を見合わせた。
その時。
消滅したボスの跡地に、キラリと光るものが落ちているのを、健太は見つけた。
「……ドロップアイテムか?」
彼は近づき、それを拾い上げた。
それは、手のひらサイズの小さな「羅針盤」だった。
黄金色に輝き、針は北ではなくどこか一点を指し示して、小刻みに震えている。
「……なんだこれ? 装備品じゃなさそうだけど……」
健太が首を傾げていると、鈴木がすっと近寄り、その羅針盤を覗き込んだ。
そして、その死んだ魚のような目が、一瞬だけ鋭く細められたのを、健太は見逃さなかった。
「……おい健太。それ、ちょっと貸してみろ」
「え? あ、はい」
鈴木は羅針盤を受け取ると、無言でそれを検分した。
そしてポツリと呟いた。
「……『黄金の羅針盤』か。……厄介なモンが出やがったな」
「厄介なモンですか?」
「ああ。こいつはただのアイテムじゃねぇ。……次の『イベント』への招待状だ」
鈴木は羅針盤を健太に返した。
「針が指してる方向、分かるか?」
健太は羅針盤を見つめる。
針は南西の方角を指していた。
東京から見て南西。
「……神奈川? いや、もっと先か……?」
「富士の樹海だ」
鈴木が、あっさりと答えを告げた。
「樹海……?」
「ああ。そこに運営が用意した次の『特設ステージ』があるらしい。……しかも今度は日本だけじゃねぇ。世界規模のレイド戦になるかもしれん」
世界規模。
その言葉に、健太たちの表情が凍りついた。
「ま、今は考えるな。今日は帰って寝ろ。……残業代は弾んでやる」
鈴木はいつものように言い捨てると、出口へと歩き出した。
だがその背中は、いつもより少しだけ重苦しい空気を纏っているように見えた。
手の中にある黄金の羅針盤。
それは冷たく、しかし確かに脈打つように、次の戦いへのカウントダウンを刻んでいた。
灰色の地下迷宮での勝利は、彼らをさらなる深淵へと誘う、ただの入り口に過ぎなかったのだ。




