第62話 灰色の特訓場と不可視の鎧
八咫烏本部地下三十階。
無機質なコンクリートと特殊合金で覆われたその空間には、今日も今日とて、肉体がぶつかり合う鈍い音と、荒々しい呼吸音、そして容赦のない怒号が響き渡っていた。
「――切らすなと言ったはずだ! 脳みそが焼き切れても維持しろ!」
鈴木太郎の鋭い声が、訓練場に轟く。
その視線の先、訓練場の中央で膝に手をつき、滝のような汗を流しているのは斉藤健太だ。
彼の顔色は蒼白で、その瞳は焦点が定まらないほどに揺らいでいる。
「はぁ……はぁ……くっ……!」
健太の全身は、陽炎のような薄い光の膜に包まれていた。
SSR『念動力』による自己防衛障壁。
だがそれは、普段彼が使うような、敵の攻撃に合わせて展開する分厚い壁ではない。
皮膚の表面、わずか数ミリの場所に、第二の皮膚のように常に張り付かせる極薄のバリアだ。
「いいか健太。実戦において『見てから防ぐ』なんてのは、三流のやることだ」
鈴木は、手にしたストップウォッチを見つめたまま、冷徹に説く。
「不意打ち、死角からの狙撃、あるいは知覚できないほどの高速攻撃。
それらに対応するには、常時展開の防御しかねぇ。
寝てても、風呂に入ってても、飯を食ってる時でもだ。
無意識下で、常に身体を念力でコーティングし続けろ」
「……言ってることは……分かりますけど……!」
健太が、呻くように返す。
理屈は分かる。だが、その負担は想像を絶するものだった。
念動力とは、己の精神力を物理干渉力へと変換する能力だ。
それを常時、全身にくまなく、しかも均一な強度で維持し続けるというのは、常に全力疾走しながらパズルを解き続けているようなものだ。
脳の処理能力が、凄まじい勢いで削られていく。
「きついのは分かる。
だがそれが出来れば、お前は『不沈艦』になる。
お前の念力スペックなら、可能なはずだ。……ほら、休憩終わりだ。次行くぞ」
鈴木は、無慈悲に告げた。
彼の合図と共に、訓練場の隅で待機していた田中と鈴木(同級生)、そして数体の自律型訓練ドローンが一斉に動き出す。
「うおぉぉ! 悪いな斉藤先輩、手加減なしで行きますよ!」
田中の拳が『硬質化』によって、鋼鉄のような輝きを帯びる。
鈴木(同級生)が『身体能力強化』で床を蹴り、残像を残して左右に展開する。
さらに上空からは、ドローンがペイント弾の掃射を開始する。
四方八方からの同時攻撃。
健太は歯を食いしばり、薄れゆく意識を必死に繋ぎ止めた。
「――来やがれ!」
乱戦の火蓋が切られた。
田中の重い拳が、正面から迫る。
鈴木(同級生)が、死角である背後へ回り込む。
頭上からは、雨のような弾丸。
通常の思考ならパニックに陥る状況だ。
どこから防ぐ? 誰から倒す?
「(焦るな……! 敵が何人いようと……!)」
健太の脳裏に、直前の鈴木の教えが蘇る。
『――いいか、敵が十人いようが百人いようが、同時に自分に攻撃が届く“射線”の数には物理的な限界がある』
鈴木の声が、リフレインする。
『人間の身体のサイズ、攻撃のリーチ。それらを考えれば、同時に相手をしなきゃならんのは、せいぜい三、四人だ。
それ以外の敵は、後ろで順番待ちをしてるに過ぎん』
健太は、目をカッと見開いた。
視界に入る田中の拳。気配で感じる、背後の鈴木(同級生)。そして上空のドローン。
それらの攻撃線を、瞬時に読み取る。
全てを個別に迎撃する必要はない。
最も脅威度の高い攻撃、そして最も多くの敵を巻き込める一点を見極める。
「――そこだっ!!」
健太は叫びと共に、自身の周囲全方位に向けて、爆発的な念動力を解放した。
――全方位念力衝撃波。
ドンッ!! という、空気が破裂する重低音。
不可視の衝撃がドーム状に広がり、迫りくる田中と鈴木(同級生)を、そして降り注ぐペイント弾をまとめて弾き飛ばした。
「うわっ!?」
「ぐぇっ!」
二人がボールのように吹き飛び、マットの上に転がる。
ドローンはバランスを崩し、壁に激突した。
「……はぁはぁ……!」
健太はその場に立ち尽くし、荒い息をつく。
防いだ。そして、散らした。
「悪くない判断だ」
鈴木が静かに評価する。
「お前の念力の総量は、こいつらが束になっても底をつかない。
スタミナ切れさえ起こさなきゃ、いくらでも相手ができる。……だが、ただ弾くだけじゃジリ貧だぞ。攻めに転じろ」
鈴木の言葉が終わらないうちに、タフな田中がすぐに起き上がり、再度突進してくる。
今度は単調な攻撃ではない。ジグザグに動き、的を絞らせない動きだ。
「ちっ……! 元気だな田中!」
健太は反射的に距離を取ろうと、バックステップを踏む。
彼の得意な戦法は、距離を取っての遠距離攻撃だ。
だが――。
「下がるな! 前に出ろ!」
鈴木の怒声が飛ぶ。
「お前の悪癖だ。すぐに安全圏に逃げようとする。
だがな、本当の殺し合いじゃ、距離を取らせてくれない相手もいる。……近接戦闘で制圧しろ!」
無理難題だ。
健太の念動力は、基本的には「手」の延長だ。離れた場所にある物を動かす、あるいは飛ばす。
だがそれを近距離で、しかも格闘戦の中で使うとなると、話は別だ。
「(触れて……撃つ……!)」
健太は、迫りくる田中の懐へと、勇気を振り絞って飛び込んだ。
田中の驚いた顔が、目の前に迫る。
鋼鉄の拳が振り下ろされる。それを、常時展開しているバリアで受け流す。
衝撃が骨に響くが、耐える。
そして健太の掌を、田中の腹部へと押し当てた。
「――終わりだ!」
接触点(ゼロ距離)からの収束念動砲。
ドォン!!
派手な動きはない。
だが田中の身体が「く」の字に折れ曲がり、肺の中の空気を全て吐き出しながら、後方へと水平にかっ飛んでいった。
壁に激突し、ずるずると崩れ落ちる田中。
「……がは……ッ」
田中は白目を剥いて、気絶した。
「そうだ。それが隠密攻撃だ」
鈴木が頷く。
「念動力ってのは見えない手だ。
だが、実際の手と重ねることで、予備動作なしの強力な打撃になる。
相手からすりゃ、ただ触れられただけなのに、トラックに撥ねられたような衝撃を受けるわけだ。……初見殺しには最適だろ?」
「……えぐいですねこれ……」
健太は、自分の掌を見つめる。
手応えはあった。これなら、格闘戦に持ち込まれても勝機はある。
「慣れてきたら、触れずに数センチの距離で撃てるようになれ。所謂『寸勁』の原理だ。
そうすりゃお前の身体能力の低さも、カバーできる」
鈴木は、休む間を与えない。
「次! 鈴木(同級生)、距離を取って遊撃しろ! 健太、切り替えだ!」
号令と共に、今度は鈴木(同級生)が大きく距離を取り、訓練場の端にあるコンテナの陰から、瓦礫を投擲してくる。
遠距離戦。健太の得意分野だ。
だが今の健太は、「近接モード」に意識が切り替わっていた。
脳のスイッチを、瞬時に「広域制圧モード」へと切り替えなければならない。
「(くっ……! 思考が重い……!)」
この切り替えの「ラグ」。それが今の健太の最大の課題だった。
近距離で集中している意識を、一瞬で遠距離へと拡散させる。
そのコンマ数秒の遅れが、命取りになる。
飛来する瓦礫。
健太は反応が遅れた。バリアで弾くが、衝撃で体勢が崩れる。
「遅い! ラグを無くせ! 思考を止めるな!」
鈴木の檄が飛ぶ。
「遠距離になったら即座に浮遊! 三次元的な機動で、的を絞らせるな!
自分は安全圏から、一方的に物をぶつけろ!
お前の得意な『卑怯な戦い方』を思い出せ!」
「卑怯って言わないでくださいよ!」
健太は叫びながら、念動力で自らの身体を浮上させる。
一度空中に逃げれば、こちらのものだ。
彼は訓練場に散らばる無数のパイプ椅子や机を浮かせ、鈴木(同級生)めがけて雨あられと降らせる。
「うわあああ! 弾幕濃すぎっすよ先輩!」
鈴木(同級生)が悲鳴を上げて、逃げ回る。
「いいか健太。お前の強みは『万能性』だ。
近距離でも戦えて、遠距離なら圧倒できる。
だがその二つをスムーズに繋げなきゃ、ただの器用貧乏だ。
近接から遠距離へ、遠距離から近接へ。呼吸をするように、戦術を切り替えろ!」
訓練は続く。
泥のように疲労が溜まっていく。
だが健太の目は、死んでいなかった。
やればやるほど、新しい発見がある。
自分の身体の中に眠っていた回路が、焼き切れそうになりながらも、太く強靭に繋ぎ直されていく感覚。
そして訓練は、最終段階へと移行した。
「よし。最後だ。……俺が相手をする」
鈴木が上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくりながら前に出た。
その瞬間、場の空気が凍りついたように変わった。
田中も鈴木(同級生)も、這うようにして訓練場の隅へと退避する。
ここから先は、次元が違う。
「……お願いします!」
健太は、残る全霊力を振り絞って構えた。
「今度は『感知』の訓練だ」
鈴木は、だらりと両手を下げた自然体で立つ。
「お前の念動力は、物を動かすだけじゃない。……いいか、自分の周囲に、薄い膜を張るイメージを持て」
「膜……ですか?」
「そうだ。さっきの防御バリアを、もっと薄く、もっと広く、蜘蛛の巣のように周囲の空間に広げるんだ。
物理的な防御力はなくていい。ただ、空気に溶け込ませるように」
健太は言われた通りに、意識を拡散させる。
半径五メートル。十メートル。
自分の念動力が、薄い霧となって周囲の空間を満たしていくイメージ。
「……な、なんとなく……」
「その膜に触れるものの動きを感じろ。目じゃなくて、肌で感じるんだ」
鈴木が、すっと動いた。
速い。目で追うと、残像しか見えない。
だが――。
「(……分かる!)」
健太は目を見開いた。
鈴木が動いた瞬間、空気が動き、その振動が自分の展開した「膜」を揺らす。
右か左か。突きか蹴りか。
その「意志」のようなものが、視覚情報よりも早く、直接脳内に流れ込んでくる。
「(右……!)」
健太は、鈴木の右拳が繰り出されるその刹那、そこへ向けてピンポイントで念動力を放った。
全力で弾き飛ばすのではない。
ほんの少しタイミングをずらすように。着弾点を数センチ逸らすように。
フッ。
鈴木の拳が、健太の顔面の横をすり抜けた。
「……ほう」
鈴木が、面白そうに口角を上げた。
「出来たな。それが『干渉』だ」
「……はぁはぁ……!」
「大きな力でねじ伏せるだけが能じゃない。
相手の攻撃の軌道を、指先一つでクイクイっと引き寄せてやるだけで、必殺のパンチも空を切る。
タイミングをコンマ一秒ずらすだけで、相手はバランスを崩す」
鈴木は、構えを解いた。
「大きい動きじゃなく、小さい動きを覚えろ。
最小のコストで最大の効果を生む。……それがプロの戦い方だ」
その言葉に、健太は膝から崩れ落ちた。
限界だった。
だがその顔には、今までで一番確かな手応えを感じた、満足げな笑みが浮かんでいた。
「……勉強になりました……」
「ふん。まあ、及第点だな」
鈴木はポケットから缶コーヒーを取り出し、プルタブを開けた。
「今日の訓練はここまでだ。……おい田中、鈴木。倒れてる場合じゃねぇぞ。健太を医務室へ運んでやれ。詩織に回復してもらわんとな」
「ううっす……」
ボロボロになった二人が、さらにボロボロになった健太を担ぎ上げる。
「(……化け物じみてきやがったな)」
彼らの背中を見送りながら、鈴木は一口、苦いコーヒーを啜った。
SSR『念動力』。
そのポテンシャルは、やはり計り知れない。
防御、攻撃、移動、そして索敵。
全ての領域において高水準で対応できる、万能の力。
だがそれを支えているのは、もはやアプリの恩恵だけではない。
この地獄のような訓練に耐え抜き、貪欲に吸収しようとする、斉藤健太という少年自身の「芯」の強さだ。
「……さて。俺も少しは身体を動かしておくか」
鈴木は、誰もいなくなった訓練場で、一人静かに構えを取った。
彼の周囲の空間が、ピリリと震える。
来るべき本当の危機に備えて。
最強の社畜もまた、その牙を研ぎ続けていた。
灰色の特訓場に響くのは、やがて来る嵐の前の、静かな胎動の音だけだった。




