第60話 沈黙の掃討戦(サイレント・クリーニング)
梅雨明けの湿った熱気が、街を包み込むある日の深夜。
東京・六本木にそびえ立つ、高級タワーホテル『アルテミス』。
その地上四十階にあるエグゼクティブ・フロアは、今、外部から完全に隔絶された密室となっていた。
ホテルの外周には規制線が張り巡らされ、警視庁のパトカーが物々しく取り囲んでいる。
だが、彼らにできるのはそこまでだ。
ビル全体を覆う、薄紫色に発光する見えない壁――「多重隔離結界」によって、突入はおろか、中の状況を探ることすら阻まれているのだから。
「――状況は?」
鈴木太郎の声が、インカムのノイズ混じりに響いた。
彼はホテルの向かいにある商業ビルの屋上から、夜闇に紛れて現場を俯瞰していた。
その隣には、瑠璃色の光を帯びた刀の柄に手をかけた神楽坂瑠璃と、緊張で顔を強張らせている斉藤健太たち鈴木班のメンバーが控えている。
「最悪ですね」
オペレーターを務める日向葵の声が、震えている。
「敵は武装集団、数は推定三十名。能力者と非能力者の混成チームです。
彼らは『KAII HUNTER』のアングラコミュニティで勢力を伸ばしていた PK 集団『紅い牙』……そして、背後には海外の傭兵団がついています」
「人質は?」
「宿泊客と従業員、合わせて約百名。四十階の宴会場に集められています。
……さらに敵は、人質の体に微弱な『呪印』を刻んでいます。
もし外部から強引な攻撃があれば、連鎖的に爆破する仕組みのようです」
「……趣味の悪い首輪だな」
鈴木は、冷たく吐き捨てた。
典型的なテロリズム。
だが、能力を使ったそれは、従来の対処法では手が出せない。
八咫烏の SAT-G ですら突入を躊躇う状況だ。
「――健太。お前ならどうする?」
唐突に話を振られ、健太は一瞬たじろいだ。
「え? お、俺ですか?」
「ああ。今の戦力で、最も効率的に人質を救い出し、敵を殲滅するプランを立てろ。十秒以内にな」
試されている。
健太は、脳をフル回転させた。
「……田中と鈴木(同級生)を囮にして一階から陽動をかけます。
敵の意識が下に向いた隙に、俺と瑠璃さんで上から結界を破壊し突入。
詩織は人質の安全確保を最優先に……」
「30点だな」
鈴木は、食い気味に冷酷に採点した。
「陽動をかけた時点で、敵は警戒レベルを最大にする。
呪印が起動すれば、人質は全滅だ。
結界を破壊する時の衝撃で、ビルが崩れるリスクもある。
……お前は能力を使って『ぶっ飛ばす』ことしか頭にない。それがお前の限界だ」
「くっ……!」
健太は悔しげに唇を噛んだ。
図星だったからだ。
瑠璃に師事し、力をつけた自負があった。
だが、こういう複雑な状況下では、自分の「念動力」がいかに大雑把で乱暴な力であるかを、痛感させられる。
「じゃあ、どうすれば……」
「簡単だ」
鈴木はスーツのネクタイを緩め、ふぅと小さく息を吐いた。
「――誰にも気づかれなきゃいいんだろ?」
「は?」
「お前らはここで待機だ。俺の合図があるまで、指一本動かすな。
……瞬きもするなよ?」
鈴木はそれだけ言い残すと、屋上の縁から暗闇の中へとその身を躍らせた。
「す、鈴木さんっ!?」
健太が叫ぶが遅かった。
鈴木の姿は、闇に溶け込むように消えていた。
ホテル『アルテミス』。
地上百五十メートルの空中に張られた結界の外壁。
そこに鈴木は、まるで重力がないかのように吸い付いていた。
彼は掌をガラスのような結界に当て、『天理の眼』でその構造を一瞬で解析する。
(……多重構造か。だが継ぎ目が甘い。三時の方向に 0.01 秒の周期でノイズが走る……)
彼は指先から針のように細い霊力を放ち、その「ノイズ」の隙間に外科手術のような精密さで割り込ませた。
パキンと小さな音がしただけで、人が一人通れるほどの「穴」が音もなく開いた。
侵入成功。
ホテル内部は、非常灯の赤い明かりだけが点滅する、不気味な静寂に包まれていた。
廊下には、自動小銃を持った迷彩服の傭兵と、手のひらから火球を出して威嚇する能力者たちが巡回している。
鈴木は壁に背をつけて息を殺し、心拍数を極限まで落とし、気配を「無」にする。
巡回の二人が近づいてくる。
「……おい、何か音がしなかったか?」
「気のせいだろ。ネズミでもいるんじゃねぇの」
彼らが鈴木の潜む曲がり角を通り過ぎようとした、その瞬間。
――フッ。
風のような音がしただけだった。
鈴木の手刀が、二人の首筋にある急所を正確無比に捉えていた。
骨も折らず、神経だけを麻痺させる「気絶」の一撃。
二人の男は、悲鳴を上げる間もなく崩れ落ちるように、その場に倒れ伏した。
鈴木は、倒れる体を無音で支え、音を立てずに床に横たえる。
(……1階クリア)
彼はインカムのスイッチを切り、ただ独白するように脳内でカウントを進めた。
屋上で待つ健太たちは、固唾をのんでモニター(葵が飛ばした偵察用式神の映像)を見守っていた。
「……何も聞こえない……」
健太が呟く。
「当たり前よ」
隣で瑠璃が涼しい顔で、しかしその瞳には畏敬の色を浮かべて答えた。
「今の彼は『音』そのものを殺しているのよ」
「音を殺す……?」
「ええ。彼自身の足音、心音。そして倒した敵が床に倒れる音。
空気の振動を極限まで圧縮した『重力』のような力で、その場に縫い止めているの。
……信じられないわ。こんな芸当、退魔師協会の達人クラスでも、そうそうできることじゃない」
モニターの中で、鈴木はまるで亡霊のように廊下を進んでいた。
敵に出くわすたび、彼は一瞬だけ動く。
次の瞬間には、敵は倒れている。
殴るのでも、斬るのでもない。
ただ触れるだけ。あるいは、すれ違うだけ。
魔法のような派手なエフェクトは、一切ない。
そこにあるのは、圧倒的な「静寂」と、機械のような「正確さ」だけだった。
それは健太が知っている「戦い」とは、あまりにもかけ離れたものだった。
熱気も高揚感もない。
ただ淡々と行われる、掃除のような作業。
(……これがプロ……。これが Tier……いくつなんだ、あの人は……?)
健太の背中に、冷ややかな戦慄が走った。
「――メイン・フロア(四十階)到着」
鈴木は、宴会場の重い両開き扉の前で立ち止まった。
中には百名近い人質と、彼らを見張る十数名のテロリスト。
そしてステージ上には、リーダーと思しき男が悠々と座っていた。
「……おい、八咫烏どもはまだ動かないのか?
痺れを切らして一人くらい、見せしめに殺してもいいんだぞ?」
リーダーが人質の一人である若い女性の髪を掴み、ナイフを突きつける。
女性の悲鳴。
「やめろ……!」
他の人質たちが怯えながら、身を寄せ合う。
鈴木は扉の隙間からその光景を確認し、溜息をついた。
(……さて、フィナーレだ)
彼は懐から一枚の呪符を取り出した。
それは彼が式神としての霊力を込めた特製の『閃光符』。
「3、2、1……」
鈴木は扉をわずかに開け、その隙間から符を滑り込ませた。
――カッッ!!!!
強烈な閃光が、宴会場全体を白く染め上げる。
「うわああっ!?」
「目がぁッ!」
敵も味方も全員が視力を奪われ、混乱する数秒間。
その刹那の時間こそが、鈴木にとっての永遠だった。
彼は扉を蹴り開けるのではなく、音もなく潜入した。
目にも止まらぬ高速移動。
だが、足音はしない。
一人、二人、三人……。
彼は見張りのテロリストたちの背後に一瞬で移動し、その意識を刈り取っていく。
敵が何が起きたのかを理解する前に、全員が床に沈黙する。
そして最後に。
「……な、なんだ!? 誰かいるのか!?」
まだ目が眩んで状況が掴めていないリーダーの男の、その手首を、万力のような力で掴み上げた。
「ガッ!? ぎゃあああッ!!」
ナイフが手から落ちる。
鈴木は男の腕を背中にねじり上げ、そのまま冷たい床に顔面から押し付けた。
「――騒ぐな。子供が起きるだろ」
鈴木は耳元で低く囁いた。
その声は、地獄の底から響いてくるように男の恐怖心を鷲掴みにした。
閃光が収まり、人質たちが目を開けた時。
そこには十数名のテロリストたちが全員気絶して転がり、その中心で、一人のくたびれたスーツ姿の男がリーダーを制圧して立っている姿があった。
あまりにも現実離れした、しかし圧倒的な安心感を与えるその背中に、誰もが言葉を失った。
「……制圧完了」
鈴木はインカムに向かって、短く告げた。
「……すご……」
「なんなんですか、あれ……」
ビルからその様子を見ていた健太たちは、モニターの前でただ呆然とするしかなかった。
開始から、わずか五分。
銃声一つ、爆発音一つさせることなく。
人質全員無傷で、敵対組織を壊滅させたのだ。
健太は自分の手を見つめた。
SSR念動力。強大な力、それを手に入れて自分は無敵になったような気でいた。
だが、あの鈴木という男が見せたのは、力ではない。「技術」と「経験」、そして「胆力」の結晶だった。
「……俺、まだまだだな」
健太は心の底から、そう思った。
悔しさはない。
ただ、清々しいまでの敗北感と、そして新たな目標を見つけたことへの高揚感があった。
「……いつか俺も。あんな風になれるのかな」
彼の独り言に、隣の瑠璃が珍しく優しく答えた。
「なれるわ。……ただし、死ぬ気で努力すればね」
彼女の目もまた輝いていた。
かつて見た「晴明様」の幻影を、今、確かにその目で見届けたかのように。
現場処理班と救急隊が到着し、ホテルの封鎖が解除された頃。
鈴木はパトカーの回転灯の明かりを背に、ゆっくりとビルから出てきた。
ネクタイは少し曲がっているが、その表情はいつものように気怠げだ。
「――お疲れ様です、鈴木特務官!」
「先輩、かっこよすぎますよ!」
「鈴木殿、見事な手際だった!」
健太、詩織、田中、鈴木(同級生)、葵、蓮。そして瑠璃。
全員が彼を囲み、賞賛の言葉を浴びせる。
「……うるせぇな。単なる残業だよ」
鈴木は照れ隠しのように頭を掻いた。
「ほら、健太」
彼は健太に向き直った。
「お前が考えた『正面突破』のプランも間違いじゃない。
場合によっては、それが正解の時もある。
だがな……」
彼は健太の肩を、ポンと叩いた。
「戦いには『正解』は一つじゃない。
力を抜いて周りを見ろ。
お前の持ってる手札は、お前が思ってるよりずっと多いはずだ」
その言葉は、健太の胸に深く刻み込まれた。
「……はい! ありがとうございます!」
健太は深々と頭を下げた。
鈴木太郎。
この冴えない社畜のおっさんこそが、自分たちが超えるべき、最も高くて最も大きな壁なのだと、彼は知った。
静寂の掃討戦。
それは、灰色の少年たちが「プロフェッショナル」という名の大人の世界の色を知った夜でもあった。




