第58話 増殖する影と街角のざわめき
【Scene 1: 深夜のファミレス『ジョイフルガーデン』練馬店】
午前2時。
店内に客はまばらだ。
数組の酔っ払いたちと、テスト勉強をしているのか、突っ伏して寝ている学生らしき姿がいくつか。
その片隅、ドリンクバーに一番近いボックス席に、四人の大学生グループがたむろしていた。
彼らはここ一時間ほど、周囲を警戒するように小声で話し続けている。
「……で、どうなんだよ、タカシ。本当なのか?」
茶髪の男が、向かいに座る友人に詰め寄った。
「だ、だから本当だって。マジなんだよ」
タカシと呼ばれた青年は、黒いキャップを目深にかぶり、少し怯えたような声で答えた。
彼はポケットから自分のスマートフォンを取り出し、テーブルの上に置いた。
画面は暗い。
だが、彼が指でタップすると、ホーム画面に見慣れない、禍々しい黒いアイコンが一つだけ浮かび上がった。
「……これが『KAII HUNTER』……」
仲間たちが、ゴクリと唾を飲む。
「一昨日、夜中にトイレに起きたら、勝手にインストールされてたんだ。
消そうとしてもエラーが出て消えなくて……。それで、試しに起動してみたら……」
タカシは、周囲をもう一度見渡した。店員は奥で作業中だ。
「……見てろよ」
彼はそう言うと、テーブルの隅に置いてあったスティックシュガーに、右手をかざした。
「はっ! お前、何する気だよ!」
「静かにしろって。……いいか、集中するぞ……」
彼が目を閉じて、深く呼吸をする。
額に、じわりと汗が滲む。
数秒の沈黙。
やがて。
カタ、と。
テーブルの上のスティックシュガーが、小さく震えた。
「……っ!?」
仲間たちが息を呑む。
振動は止まらない。
カタカタカタカタと、まるで意志を持った虫のように震え続け、そして次の瞬間。
フワッ。
スティックシュガーが、テーブルから数ミリだけ浮き上がったのだ。
「うおぉっ!?」
「ま、マジかよ!?」
思わず、大きな声が出る。
タカシは慌てて「シーッ!」と口に人差し指を当てた。
シュガーは力を失って、パタリと落ちた。
「……見ただろ? これが俺の『能力』だ」
タカシは、興奮と恐怖がないまぜになった顔で、言った。
「アプリには『SR:微弱念動』って書いてあった。
まだこれくらいしかできないけど……。でも、レベルを上げればもっと凄いことができるって書いてあるんだ」
「すげー……。マジですげーよ、お前……」
仲間たちは、羨望の眼差しで彼を見た。
「なあ、それ俺らにもインストールできないの? 招待とかないわけ?」
「ないよ。選ばれた奴にしか来ないんだってさ」
「チェッ、つまんねーの」
彼らの会話は、その後も続いた。
だが、その空気は確実に変わっていた。
退屈な深夜のファミレス。
ただ時間を浪費するだけだった日常の中に、突然「非日常」への入り口がポッカリと口を開けたのだ。
タカシの目には、これまでとは違う、暗く熱っぽい光が宿っていた。
「俺、このアプリ続けてみるわ。……なんか変われそうな気がするんだ」
彼の指が、スマートフォンの画面を愛おしげに撫でる。
その姿を、ドリンクバーの陰から、一人の清掃員の老婆が無表情で見つめていたことに、彼らは誰も気づかなかった。
老婆の影が、店内の照明とは逆の方向に、異様に長く伸びていたことにも。
【Scene 2: 丸の内のオフィス街・昼下がり】
高層ビルが立ち並ぶ、日本のビジネスの中心地。
ランチタイムの終わりかけ、カフェのオープンテラスで、二人のサラリーマンがコーヒーを飲んでいた。
一人はベテラン風の課長、もう一人は若手社員だ。
「――で、どうしたんだ? 鈴木(※別人)。急に呼び出して」
課長が、タバコの煙を吐き出しながら尋ねた。
「いいえ。ちょっと気になる噂を聞きまして……」
若手社員は、声を潜めた。
「課長、ご存じないですか? 『能力者』の話」
「はあ? なんだそりゃ。アニメの見過ぎか?」
課長は、呆れたように笑う。
「いえ、違うんです。うちの取引先の……A社の新人君、いるじゃないですか。急に退職した」
「ああ、いたな。優秀だったのにもったいない」
「彼、実は『引き抜かれた』らしいんですよ」
「引き抜き? どこにだ? 外資か?」
「いえ……。『裏の組織』にです」
若手社員は、スマートフォンの画面を見せた。
そこには、SNSの鍵垢(鍵付きアカウント)のスクリーンショットが映っている。
退職した新人の裏アカウントだ。
投稿されている写真は、明らかに異常だった。
高級外車の運転席からの自撮り。
背景には、見たこともないデザインの黒いカードキー。
そして、夜景をバックに、彼の手のひらから『青い光の玉』が浮かび上がっている動画。
『ついに来た。新しい仕事給料良すぎワロタ。一般社会の皆さんサヨウナラ』
そんなコメントが添えられている。
「……なんだこれは。CGか?」
課長が、眉をひそめる。
「そう思うでしょ? でも、これを見てください」
若手社員は、別のニュースサイトの記事を表示させた。
『都内深夜原因不明の発光現象多発。目撃者「プラズマのようなものが空を飛んでいた」』
「日付と場所、この動画と一致するんです」
「……」
課長は、言葉を失った。
「噂じゃ、選ばれた人間だけが入れるアプリがあって、そこで能力を開花させた奴は、政府公認の秘密組織にスカウトされるとか……。
給料も破格で、俺たちみたいなサラリーマンが一生かかっても稼げない額を、一晩で稼ぐらしいですよ」
「……馬鹿な。そんなことが」
「でも、現に彼は……」
ビルの谷間を、一陣の風が吹き抜ける。
サラリーマンたちが忙しなく行き交う日常の風景。
だが、その足元には、すでに見えない亀裂が走っていた。
「課長。もし……もしですよ」
若手社員は、課長の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「もし、課長のスマホにそのアプリが来たら……どうしますか?」
課長は、答えられなかった。
吸いかけのタバコの火がフィルターまで燃え尽き、彼の指先を熱く焼いた。
【Scene 3: 放課後・都立S高校の駐輪場】
夕暮れのチャイムが鳴り響く。
自転車置き場の隅で、三人の女子高生たちが、深刻な顔で話し込んでいた。
「……ねえ、やっぱりミカおかしくない?」
ショートカットの子が言った。
「うん。今日も休んでたし……。これで一週間だよ?」
ミカとは、彼女たちのグループの一人だ。
先週から、突然連絡が取れなくなり、学校にも来なくなっていた。
「LINE送っても既読つかないし。家に行っても、お母さんが『今は会わせられない』って……」
「病気かなぁ?」
「でもさ」
ロングヘアの子が、怯えたように口を開いた。
「私、見たんだ。先週の金曜日の夜……ミカが一人で、学校の裏山に入っていくの」
「えっ? 夜に?」
「うん。なんか、スマホ見ながらブツブツ言ってて……。あと、彼女の周りだけ空気が変だったの」
「変って?」
「……歪んでた。陽炎みたいに。で、彼女が指をパチンって鳴らしたら……、近くにあった枯れ木が、いきなりボッ! って燃え上がって……」
「うそっ!?」
「本当だって! 怖くなって逃げちゃったけど……。あんなの絶対普通じゃないよ」
沈黙が落ちる。
夕日の朱色が、コンクリートの地面を、どす黒く染め上げている。
「……ねえ」
一人が、震える声で言った。
「最近、TikTokとかで流れてくる『怪異ハンター』ってやつ……知ってる?」
「知ってる。能力者とかいう……」
「もしかしてミカも……」
「やめてよ! 怖いじゃん!」
彼女たちは、抱き合うようにして、身を縮こまらせた。
日常が壊れる。
昨日まで一緒に笑い合っていた友達が、ある日突然、手の届かない「あちら側」の住人になってしまう。
「……私たちの学校にも『いる』のかな」
誰かの呟きが、冷たい風に乗って、消えていった。
ふと、駐輪場の屋根の上に、一羽の黒いカラスが止まった。
カラスはじっと彼女たちを見下ろすと、カーッと一声鳴き、西の空へと飛び去っていった。
まるで、誰かに何かを報告するかのように。
ネットの深淵から湧き上がった噂は、もはや止めようのない勢いで、現実の世界を侵食し始めていた。
深夜のファミレスで。
昼下がりのオフィス街で。
そして、放課後の学校で。
誰もが、その影に怯え、そして心のどこかで、その力を渇望している。
「選ばれたい」。
その甘く危険な囁きが、灰色の日常を覆う薄皮を、少しずつ、しかし確実に突き破ろうとしていた。
世界は変わろうとしている。
その変化の中心にいるのが誰なのか、彼らはまだ知らない。
ただ、漠然とした予感だけが、都市の喧騒の下で、低く唸りを上げていた。




