第53話 灰色のリビングと瑠璃色の食卓
日曜日の夜、斉藤家のリビングには、テレビのバラエティ番組の笑い声と、食欲をそそる肉じゃがの匂いが満ちていた。
ダイニングテーブルを囲んでいるのは、斉藤健太とその両親。
かつてのような張り詰めた緊張感は、ここにはもうない。
あるのは、どこにでもある、しかし少しだけ特別な会話を楽しむ家族の風景だった。
「――でさ、その中学生の子が、最初ポルターガイストが止まらなくて泣きそうになっててさ。
部屋中漫画本とかお菓子が浮いてて、大変だったんだけど……」
健太は箸で白米をかき込みながら、昨日の『出張説明会ツアー』の出来事を話していた。
「俺が百円玉を浮かせて見せたら、パッと顔が明るくなってさ。
『自分だけじゃないんだ』って安心したみたいで……。
最後は佐藤さん……カウンセラーの人なんだけど、その人に任せて一件落着って感じ」
「へええ……。中学生でも、そんなことになっちゃうのかい?」
母親が、驚いたようにお茶碗を置いた。
「うん。なんか学校での人間関係とか、部活のプレッシャーとかが原因みたいで。
……誰にでもある悩みなんだけど、それがきっかけで『回路』が繋がっちゃうことがあるんだってさ」
「回路ねぇ……。難しいもんだな」
父親もビールを一口飲みながら、しみじみと頷く。
「それにしてもお前、そんなカウンセラーみたいなことまでやらされてるのか。
八咫烏ってのは、もっとこう、テレビに出てくる特殊部隊みたいに、銃を持って走り回ってるもんだと思ってたが」
「あはは。俺も最初はそう思ってたよ」
健太は苦笑いした。
「でも、実際に入ってみると、意外と地味な仕事が多いんだよな。
昨日みたいに、能力に目覚めちゃった一般人のケアをして回ったり、変な噂がないかネット掲示板を監視したり……。
あと、報告書の作成とか経費精算とか」
「経費精算まであるのかい?」
母親が笑い声を上げる。
「あるよ。上司の鈴木さんが、そういうのにめちゃくちゃ厳しくてさ。
『電車代は最短ルートで計算しろ』とか、『領収書の但し書きは具体的に書け』とか、口うるさいんだ」
「ハハハ! そりゃあ公務員だからな。税金を使ってる以上、そこはきちんとしてもらわんと困るぞ」
父親が我が意を得たりとばかりに笑う。
「そうそう。それと訓練も、結構ハードなんだよ。
身体動かすだけじゃなくて、座学もあるし」
「座学? 勉強もするのか?」
「うん。呪術の歴史とか、因果律の理論とか……。
あと、この前なんて漢字テストまであったんだぜ?
『魑魅魍魎』とか『跋扈』とか、読めるけど書けないって!
神楽坂先生……俺の教育係の子なんだけど、その子に赤ペンでバッテン付けられて、再テスト食らっちまった」
「ハハハ! そりゃあいい薬だ!」
父親は愉快そうに肩を揺らした。
「超能力が使えたって、漢字の一つも書けなきゃ社会じゃ通用せんということだな」
「うっ……。返す言葉もございません……」
健太は肉じゃがのじゃがいもを口に放り込み、もぐもぐと咀嚼した。
平和だ。
心の底からそう思う。
つい数ヶ月前までは、自分が超能力者だなんて知られたら、親に拒絶されるんじゃないか、精神病院に入れられるんじゃないかと、一人で怯えていた。
それが今ではこうして、夕食の食卓で、まるで「部活の話」や「バイト先の愚痴」を話すように、怪異や組織のことを話せている。
(……変わったな、何もかも)
それは八咫烏に入ったことによる変化であり、何より両親が「理解しようとしてくれた」ことによる変化だった。
「……正直、お父さんもお母さんも、まだ驚いてるんだ」
ふと父親が、真面目な顔で言った。
「能力者なんてものは、映画や漫画の中だけの話だと思ってた。
まさか自分の息子が、その一人になるなんてな」
「うん……」
「でも、お前の話を聞いてると……。
そういう『特別な力』を持った子たちも、悩みは普通の子と同じんなんだなって思うよ」
父親は、空になったビール缶を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「ストレスで力を持て余して、誰にも言えずに孤立して……。
お前が昨日会った子たちも、みんなそうなんだろ?」
「うん。そうだと思う。……みんな普通のいい子たちだったよ。
ただ、ちょっとだけ運命の歯車が噛み合わなくて、力が溢れちゃっただけで」
「……そうか」
父親は深く頷いた。
「ストレス社会だからな……。大人だって、いつ自分がそっち側になるか分からん世の中なのかもしれん」
「ええ、怖い世の中ねぇ」
母親も溜息をつく。
「でも、だからこそ健太たちがいるんじゃない?」
彼女は、優しい目で息子を見た。
「そういう急に放り出されて、困ってる人たちを見つけて助けてあげる。
……それが今のあんたの仕事なんでしょ?」
「……まあ、そうかな」
「なんだかお母さんが思ってた『怪異ハンター』のイメージとは、ずいぶん違うわね。
もっとこう、毎日化け物と戦って傷だらけになって……って心配してたけど。
……そういう地道な『人助け』の活動をしてるんだって聞くと、少し安心したわ」
「そうだな、お父さんも意外に思ってるよ。
……お前がそんなに真剣に、誰かのために働ける男になってたなんてな」
両親の温かい言葉。
それが健太の胸に、じわりと染み渡る。
Tier4の怪異を倒した時の高揚感とも、チャットルームで称賛された時の優越感とも違う。
もっと静かで、根源的な「認められる」という安心感。
(……そうだよな)
戦うことだけが全てじゃない。
あのポルターガイストに怯えていた中学生が、最後に浮かべた安堵の笑顔。
不登校の女子高生が「相談に乗ってくれてありがとう」と、小さな声で言ってくれたこと。
それらを守ることこそが、今の自分に課せられた本当の「使命」なのかもしれない。
「……ありがとな。二人とも」
健太は、少し照れくさそうに小声で言った。
「心配かけてるけど……。俺ちゃんとやるから。
大学も行くし、八咫烏の仕事も頑張るから」
「おう。期待してるぞ」
「ご飯、おかわりあるわよ?」
「うん、もらう」
お茶碗を差し出す息子。
受け取る母。
それを見守る父。
リビングの照明が、三人の姿を優しく照らし出していた。
外の世界には怪異が跋扈し、組織の思惑が渦巻く危険な夜が広がっている。
だが、この小さな家の食卓だけは、絶対的な「日常」の防壁によって守られていた。
そしてその日常を守るために、明日もまた少年は灰色のコートを羽織り、戦場へと向かうのだ。
親子三人の、何でもない、しかし何よりも大切な雑談は、夜更けまで穏やかに続いていった。




