第49話 灰色の給料日と瑠璃色の初任給
斉藤健太たちの放課後の風景は、少しだけ様変わりしていた。
かつては『カフェ・ド・レンガ』でのだべりだけが活動の中心だったが、今や週に一度、八咫烏本部での定期的な訓練と報告会が加わり、より実務的でプロフェッショナルな空気を帯び始めていた。
彼らはまだ高校生でありながら、国の裏側を支える組織の末端の歯車として、確実に組み込まれつつあったのだ。
「――ふぅ。今日の座学、ちょっと難しくなかったですか?」
訓練の帰り道。最寄駅までの道すがら、詩織が小さく溜息をついた。
彼女の手には『呪術理論基礎』と書かれた分厚い教本が抱えられている。
「まあな。霊的パスの効率化とか、正直眠くなるわ」
健太も肩を回しながら同意する。
「でも瑠璃先生……神楽坂さんに怒られるからな。あの人、座学の時だけ妙にスパルタだし」
「ですね……。私、小テストで赤点取ったら補習確定って言われました……」
そんな高校生らしい愚痴をこぼしながらも、彼らの表情には以前のような不安の色はなかった。
やるべきことが明確にある。それだけで迷いは消えるものだ。
「――よう、お疲れさん」
その時、駅前のロータリーに停まっていた黒塗りの車から、鈴木太郎が顔を出した。
「お、鈴木特務官! お疲れ様です!」
田中と鈴木(同級生)が元気に挨拶をする。
「どうだ? もう一ヶ月経つが、訓練には慣れてきたか?」
「そうっすねー……。まあ、週一で放課後に集まるだけですから。あとは自主練メインですし」
「まだまだですよ。昨日の模擬戦でも蓮さんにボコボコにされましたし……」
謙遜する二人だが、その身体つきは明らかに以前より引き締まり、立ち姿にも隙がなくなっている。
一ヶ月前の、ただの素人能力者だった彼らとは、もはや別人だった。
「ふん、よくやってるよお前らは」
鈴木はぶっきらぼうに、しかし確かに彼らを認めるように頷いた。
「……そういや明日だな」
「え? 明日? 何がですか?」
健太が首を傾げる。
「給料日だよ」
その一言に、四人の時間が一瞬止まった。
「……きゅうりょう……」
「マジか! 明日か!」
「お、前ら口座チェックしとけよ? 契約通りなら、手取りで30万くらいは振り込まれてるはずだ」
「「ささささ30万んんんん!?」」
田中と鈴木(同級生)が、駅前だというのに絶叫した。
「マジかよ……! 学生のバイト代レベルじゃねえぞ……! 普通に新卒の手取り超えてるじゃんか……!」
「うわぁ……。美味しい……。美味しすぎる……」
「……あの、すみません鈴木さん」
詩織が恐縮したように身を小さくした。
「私たち、まだ訓練しかしてないのに……。そんな大金いただいちゃって良いんでしょうか……?」
「いいんだよ。これは『手付金』みたいなもんだ。将来お前らが八咫烏の主力として働いてくれることへの先行投資だ。……それに、一度旨い汁吸わせとけば辞めにくくなるだろ?」
鈴木はニヤリと、悪役のような笑みを浮かべた。だが、その目は優しかった。
「……ま、そういうことだ。好きに使え。親に渡すなり貯金するなり、彼女へのプレゼント買うなりな」
「はいっ! ありがとうございます!」
「一生ついていきます、鈴木特務官!」
現金なもので、高校生たちのテンションは最高潮に達していた。
金。それは何よりも分かりやすい「労働の対価」であり、自分たちが社会の一員として認められたという「証明」でもあったのだ。
「――それよりだ」
鈴木は車のドアを開けて、手招きした。
「明日金が入るからって、調子に乗って無駄遣いすんじゃねぇぞ。……その代わりと言っちゃなんだが」
彼は、少しだけ声を潜めて言った。
「明日また焼肉行くか?」
「!!」
四人の目が、またしても釘付けになる。
「や、焼肉って……あの伝説の!?」
「烏沢係長御用達の、あの超高級店ですか!?」
「ああ。係長がな、『彼らも一ヶ月よく頑張った。初任給の祝いを兼ねて労ってやってくれ』だとさ。もちろん全額経費だ」
「うおおおおおおっ!! マジですか!!」
「やったぁぁぁぁ!!」
もはや祭りだった。
30万の給料に高級焼肉。こんなに素晴らしい職場が他にあるだろうか。いや、ない。
「ハハハ、元気でいいな」
鈴木も珍しく、声を立てて笑った。
「じゃあ明日の夜な。予定空けとけよ」
「了解です! 全力で空けます!」
「胃袋も空けときます!」
「……さて」
一通りの馬鹿騒ぎが終わると、鈴木はすっと真顔に戻り、仕事の顔になった。
「飯の話はここまでだ。……少し厄介な案件が入ってな」
彼はタブレットを取り出し、一枚の資料を表示させた。
「……お前らが通ってる私立K高校。その2年C組の生徒が、どうやら『能力』に目覚めたらしい」
「……えっ? 怪異ハンターですか?」
健太が表情を引き締める。
「いや違う。『怪異ハンター』アプリの反応はない。……こいつは『天然モノ』だ」
「天然……」
「ああ。所謂『突然覚醒型』ってやつだな」
鈴木は説明した。
「原因は十中八九、受験ストレスだ。この時期、特に進学校の生徒に多いんだよ。過度なプレッシャーや不安が引き金になって、休眠していた霊的回路が暴発しちまうパターンだ。昨日、その生徒がパニックを起こして教室で超常現象を引き起こした。幸い怪我人は出なかったが、警察や病院に相談がいってる」
「……なるほど」
「当然、警察の上層部から八咫烏に連絡が来て、うちの担当者が派遣されることになった。……が、俺はそこにお前らも混ぜようと思ってる」
「えっ? 俺たちもですか?」
「そうだ。見知らぬ大人のエージェントがいきなり乗り込んでも、相手は混乱するだけだ。精神的に不安定になってる人間に必要なのは『安心感』だ」
鈴木は健太たちを指差した。
「お前らは同じ学校の生徒だろ? 顔見知りじゃなくても、同じ制服を着た同年代がいるだけで相手の警戒心はずいぶん下がる。それに『自分と同じような力を持った仲間がいる』と知れば、孤独感も和らぐはずだ」
「……なるほど。メンタルケアも含めてってことですね」
詩織が納得したように頷く。
彼女の治癒能力や優しい雰囲気は、こういう場面でこそ真価を発揮するだろう。
「そういうことだ。……まあ、一種の実地研修だな。怪異を狩るだけが八咫烏の仕事じゃねぇ。力を持ちすぎてしまった『普通の人』をどう保護し、どう社会に順応させるか。それもまた重要な任務だ」
鈴木の言葉には、ベテランとしての重みがあった。
「じゃあ予定組んどくから。……瑠璃、あとは頼むぞ」
彼は車の奥、後部座席に座っていた瑠璃に声をかけた。彼女もまた、静かに頷く。
「承知いたしました。……彼らならきっと上手くやれるでしょう」
その信頼に満ちた言葉に、健太たちの背筋が伸びる。
「じゃあな。明日は焼肉だ。遅れんじゃねぇぞ!」
鈴木はそう言い残すと、黒塗りの車を颯爽と発進させた。
夕暮れの駅前に残された四人。その手には何もない。
だが、その胸の中には初任給への期待と焼肉への渇望、そして何より、明日待ち受ける「人助け」という新しい任務への静かな責任感が満ちていた。
「……よし。明日も頑張ろうな!」
健太のかけ声に、全員が笑顔で頷いた。
彼らの青春は、灰色から瑠璃色へ、そして黄金色へと、めまぐるしく、しかし鮮やかに、その色を変え続けていた。




