第5話 二年目の退屈と副業はじめました
土御門晴明二歳。彼の生活圏は、今や広大な屋敷の一室を丸ごと改造して作られた、最高級のプレイルームが中心となっていた。
床には転んでも怪我をしないよう、特殊な柔らかい素材が敷き詰められ、壁際には世界中から集められた、ありとあらゆる玩具が、まるで博物館の展示物のように整然と、しかし大量に並べられている。
(ニ歳児のふりをするのも、だいぶ板についてきたな……)
彼はスイス製の高級木材で作られた積み木を手に取りながら、そんなことを考えていた。この一年で彼は、完璧な二歳児を演じる術を身につけていた。意味もなく笑い、些細なことでぐずり、時折天才の片鱗(と周囲が勝手に解釈するもの)を見せる。その緩急自在の演技は、前世で培われた「上司の前でだけ有能なふりをする」処世術の応用だった。
(まあ、これだけちやほやされるのは楽しいから良いんだけど)
彼の自己肯定感は、この家に来てからうなぎ登りだった。
最近、彼がハマっている遊びは、積み木に霊力を込めて室内を飛ばすことだった。
「えい」
彼が短い腕を振るう。その手から放たれた立方体の積み木は、物理法則を完全に無視した軌道を描き、部屋の対角線上にある籠の中へと、吸い込まれるように着地した。
ただ投げるだけではない。一度放った後も、彼の意思通りに空中で急停止したり、直角に曲がったり、錐揉み回転したりする。霊力を込めれば、物体はある程度、意のままに操作できる。この発見は、退屈な彼の日常における数少ない娯楽の一つだった。
(お、今の軌道はなかなか良かったな。……あれ? 俺、精神まで子供に戻ってきてないか?)
純粋に今の遊びを楽しんでいる自分に気づき、彼は少しだけ焦った。前世の記憶があるとはいえ、この幼児の身体と、それに最適化された脳に、精神が少しずつ引っ張られているのかもしれない。
(……まあいいか。楽しいならそれで)
深く考えるのをやめ、彼は次の積み木を手に取った。
そんな彼の元へ、母親の美咲が穏やかな笑みを浮かべてやってきた。その傍らには、控えめに、しかし嬉しそうな表情を浮かべた父・泰親の姿もある。
「晴明。あなた、もうすぐお兄ちゃんになりますよ」
「……あう?」
彼は首を傾げて見せた。完璧な二歳児の演技だ。だが、その頭の中では、両親の言葉を正確に反芻していた。
(お兄ちゃん? ……なるほど。どうやら弟か妹ができるらしい)
美咲のお腹は、まだ目立たない。だが彼女の纏う霊力が、優しく温かく、そして守るように、その内側にある小さな生命を包み込んでいるのを、『天理の眼』は正確に捉えていた。
「元気な子が生まれると良いな、晴明」
「あなたが守ってあげるのですよ」
両親は口々にそう言って、彼の頭を優しく撫でた。
(守ってあげるねぇ……。まあ、面倒じゃなければな)
彼はそんなことを考えながら、それでも、ほんの少しだけ胸が温かくなるのを感じていた。
(……できれば妹が良いなぁ)
前世では一人っ子だった。弟や妹という存在に、少しだけ憧れがあったのかもしれない。
並行して。彼の退屈しのぎは、さらにエスカレートしていた。きっかけは些細なことだった。日雇い労働で稼いだ金で漫画喫茶に通う日々。様々な物語を、彼は『天理の眼』で片っ端から記憶していった。
そして多くの物語に共通して登場する、ある存在に彼は興味を惹かれた。化物、怪異、人ならざる邪悪な存在。――この世界にも、そういったものが本当に存在するのだろうか。
(……暇だし、探してみるか)
その日の昼寝の時間。彼はいつものように式神ボディを廃工場に生成すると、早速調査を開始した。『天理の眼』を最大範囲で起動する。彼の意識は再び肉体を離れ、上空数千メートルからの視点を得た。霊力の流れを読む。その中に、淀みや澱のような不自然な塊がないかを探していく。
すると、すぐに見つかった。都心に点在する黒く淀んだ霊力の溜まり場。そのほとんどは、廃ビルや再開発から取り残された古い雑居ビル、人の寄り付かない暗い路地裏といった場所だった。
(……いるな。思ったよりたくさん)
彼はその中から、最も近く、そして最も霊力の反応が小さい場所をターゲットに定めた。場所は駅から少し離れた、建設が途中で止まった五階建ての雑居ビル。式神の身体は、すでに日雇い労働でその超人的な性能を実証済みだ。
彼はビルの壁を、まるで忍者のように駆け上がると、窓ガラスの割れた三階のフロアから、音もなく内部へと侵入した。
ビルの中は静まり返っていた。床には埃とコンクリートの破片が散らばっている。彼はゆっくりと奥へと進んでいく。
――いた。
フロアの最も奥、暗がりの中心に、それはいた。身長は一メートルほど。緑色の、醜くたるんだ皮膚。頭には一本の歪んだ角が生えている。手には錆びついた鉄パイプのようなものを握っていた。ゲームでよく見たゴブリンや小鬼といった類の、いわゆる雑魚モンスターだ。
(へえ……。本当にいるんだな、こういうの)
彼はどこか感心したように、その化物を観察する。化物の方はすでに彼の存在に気づいていた。低い唸り声を上げ、血走った目で彼を睨みつけている。
次の瞬間、化物は奇声を発しながら鉄パイプを振り上げ、彼へと突進してきた。
(さてと。どうやって倒すかな)
武器はない。素手で殴り倒してもいいが、後始末が面倒そうだ。彼はふと、漫画で読んだあるヒーローの姿を思い出した。指先からビームを放つというもの。
(あれ、できないかな)
彼は自分の右手の人差し指と中指を、すっと前に突き出した。銃のようなかたち。そして**『五行創元』**の力にアクセスする。五行思想において「火」は、破壊と浄化を司る。彼は自らの霊力から純粋な「火」の気を抽出し、それを極限まで圧縮して、指先に集めるイメージを描いた。
(出力は抑えめに……。ビルを壊したら面倒だしな)
指先に小さな、しかし眩い光の点が灯る。そして――。
シュッ!
甲高い音と共に、一条の白い光線が彼の指先から放たれた。それはレーザーのように直進し、突進してくる化物の、ちょうど眉間に命中した。化物の動きがぴたりと止まる。
そして次の瞬間には、その身体は内側から発光するように輝き、塵となって音もなく崩れ落ちていった。後には、焦げ付いた匂いすら残らなかった。
「……おおお」
彼は自分の指先と、化物がいた場所を交互に見比べた。
(……レイガンじゃん。超便利だな、これ……)
あまりにもあっけない幕切れ。初めての化物退治は、こうして驚くほど簡単に、あっさりと終わった。
それから、彼の「副業」が始まった。日雇い労働で日銭を稼ぎ、漫画喫茶で知識を蓄え、そして夜の街で人知れず化物を狩る。
それは、退屈な赤ん坊の日常とは真逆の、スリリングで刺激的な日々だった。
その日も彼は、いつもと同じように化物退治に勤しんでいた。ターゲットは、新宿の繁華街から少し外れた、閉鎖された古い映画館。ここには比較的強い反応があった。
彼は式神ボディで裏口から内部へと侵入する。メインホールには五体の小鬼がいた。どうやら群れで行動するタイプらしい。彼は物陰に隠れ、冷静に一体ずつ、指先からのレイガンで的確に処理していく。
シュッ、シュッ――。光線が放たれる度に、一体、また一体と小鬼たちが塵となって消えていく。最後の五体目を処理し終えた時だった。
「――見事な腕前ですね」
静かな、それでいてよく通る声が、彼の背後からかけられた。
ゾクリと。晴明の背筋に悪寒が走った。いつの間に!? 気配が全くなかった。彼がビルに侵入してから今まで、自分以外の生命反応は、あの小鬼たちだけだったはずだ。
彼はゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは一人の男だった。歳は三十代半ばだろうか。仕立ての良い黒いスーツを隙なく着こなしている。髪は短く刈り込み、フレームの細い眼鏡の奥の瞳は、まるで鷹のように鋭く、そして冷静に彼を射抜いていた。男の手には何も持っていない。だが、その全身から発せられる雰囲気は、そこらのチンピラや、ましてや先ほどの小鬼たちとは比較にならないほどの「圧」を放っていた。
「……誰だ、あんた」
晴明は警戒を最大レベルに引き上げながら、問いかけた。
「失礼。私は内閣情報調査室、特殊事象対策課の者です。……八咫烏と申し上げた方が、通りが良いかもしれませんね」
男は丁寧な口調で、そう名乗った。ヤタガラス。
その名を聞いた瞬間、晴明の脳裏に、祖父と父が書斎で交わしていた会話が蘇った。『あの老獪なカラス共めが』。政府筋の秘密組織。土御門家とも浅からぬ因縁があるらしい連中。
(……マジかよ。一番面倒くさいのに見つかった……)
彼は内心で悪態をついた。
「少しお話をお伺いしたいのですが。よろしいでしょうか?」
「……何の用だ」
「いえ、そう警戒なさらずとも。我々に、貴方と敵対する意思はありません。むしろ、協力関係を築きたいとさえ考えております」
男は穏やかな笑みを浮かべた。だが、その目は一切笑っていなかった。どうする。逃げるか? この式神ボディの性能ならば、おそらく可能だろう。だが、一度目をつけられた以上、必ず追ってくるはずだ。
戦うか? 目の前の男の実力は未知数。下手に手を出せば、思わぬ反撃を食らうかもしれない。何より――。
(……俺には身分証がない)
この鈴木太郎の姿は、この世に存在しない架空の人間だ。捕まれば、面倒なことになるのは火を見るより明らか。
(……仕方ない。アレでいくか)
彼は瞬時に、頭の中で自らの設定を構築した。前世で数々のプレゼンを乗り切ってきた、その応用力。
「……話ねぇ。あんたが誰だか知らんが、俺は何も知らないぞ」
「とおっしゃいますと?」
「俺は……記憶がないんだ」
晴明は、わざと少し虚ろな目で、そう言った。
「記憶喪失……ですか」
「ああ。気づいたらこの街にいた。自分の名前も歳も、何も思い出せない。ただ――」
彼は自分の右手を見つめた。
「……こういう妙な力だけが使えた。それだけだ」
男は黙って彼の言葉を聞いていた。その表情からは、信じているのか疑っているのか、全く読み取れない。
「それで、どうしてこのようなことを?」
「腹が減るからだ。生きるためには金がいる。だが、記憶も身分証もない俺を雇ってくれる場所なんて、どこにもなかった。そんな時、知ったんだ。こういう化物を倒すと、微量だが金になる“何か”を落とすことがあるってな」
もちろん、そんな事実はない。完全なハッタリだ。
「それで日銭を稼ぐために、夜な夜なこうして化物を狩って回っている……。そういうわけだよ」
完璧だと、晴明は思った。悲劇の記憶喪失の男。生きるために孤独な戦いを続けるダークヒーロー。これなら同情こそすれ、疑われることはないだろう。
「なるほど……。事情は理解いたしました」
男は静かに頷いた。そして、彼に予想外の言葉を告げた。
「貴方が“化物”と呼んでいるそれ。我々は『怪異』と呼称しています」
「かいい……?」
「はい。そして、その怪異の管理と討伐を公に担当している組織があります」
男は一呼吸置いて言った。
「『日本退魔師協会』。ご存じありませんか?」
その名を聞いた瞬間、晴明は仮面の下で大きく動揺していた。
(うちの……うちの協会じゃねえか!)
まさか、こんな形で自分の家の名前を聞くことになるとは。
「へえ……。そういう専門の組織があるのか」
彼はなんとか平静を装って相槌を打った。
「ええ。本来、怪異の討伐は彼らの管轄です。貴方のような、協会に所属していない方が独断で怪異を狩ることは、あまり感心できる行為ではありません」
「……そうかい。じゃあ、あんたは俺を捕まえに来たってわけか」
「いいえ、まさか」
男は首を横に振った。
「先ほども申し上げた通り、我々は貴方と協力したい。貴方ほどの能力を持つ方を野放しにしておくのは、社会にとってあまりにも大きな損失です。それに……貴方自身もお困りでしょう? その記憶と身分について」
男の言葉は、悪魔の囁きのように甘く響いた。
「我々と来ていただければ、貴方の身元を保証しましょう。衣食住も、もちろん提供いたします。そして、その力を人々のために正しく使う道をご用意できる。……悪い話ではないと思いますが?」
晴明は黙って男の言葉を聞いていた。これは罠か。あるいは、千載一遇のチャンスか。どちらにせよ、ここで断れば彼はこの男――そして八咫烏という組織に、本格的にマークされることになるだろう。それは、彼の望む「平穏」とは、最もかけ離れた未来だった。
(……乗るしかないか)
彼は観念して息を吐いた。
「……分かった。あんたについていこう」
「賢明なご判断です」
男は初めて、心からの笑みを浮かべたように見えた。
「では、こちらへ。我々の施設へご案内します」
男に促されるまま、晴明は映画館の外へと出た。夜の闇の中に、一台の黒いセダンが音もなく停車していた。彼が後部座席に乗り込むと、車は滑るように夜の街へと走り出す。
(さて……。どうなることやら)
彼は、窓の外に流れていく都会の夜景を眺めながら、自らの選択が吉と出るか凶と出るか、静かに思考を巡らせていた。平穏なスローライフへの道は、どうやら想像以上に険しく、遠いらしい。




