第48話 灰色のバッティングセンターと父の教え
日曜日。郊外のバッティングセンター。
金属音が定期的に響き渡る、どこにでもある平和なその場所は、今の斉藤健太にとって、自分と向き合うための神聖な修練場となっていた。
彼は一番奥の打席に立ち、手にはバットを持っていなかった。代わりにポケットに手を突っ込み、飛んでくるボールをただ鋭い眼光で睨みつけていた。
傍から見れば不審者か、あるいはバッティングマシン相手にガン飛ばしをしている痛い高校生である。だが、その真剣さは本物だった。
「――よし健太。準備はいいか?」
打席の外、ネット越しに父親が声をかけてきた。今日は父親が運転手兼付き添いとしてここまで連れてきてくれたのだ。能力のことをカミングアウトして以来、父親は以前よりも健太の「活動」に対して協力的……いや、もっと率直に言えば興味津々だった。息子の超能力を親として見守り、サポートしたいという不器用な愛情だ。
「うん。大丈夫。……まずは一番遅い球速で試してみる」
「了解。じゃあセットするぞ」
父親がコントロールパネルを操作する。マシンのランプが赤く点滅し、機械的な予備動作音が響く。
健太は深呼吸をした。葵との模擬戦での敗北。あの時の、手も足も出なかった無力感がまだ記憶に新しい。
(……反応速度。予測。そして瞬発力。ここで掴むんだ)
彼は意識を集中させる。視野を狭めすぎず、空間全体を把握するイメージで。
ヒュンッ。
白い球体がマシンから射出された。時速80キロ。プロ野球選手から見れば止まって見えるほどの遅球だ。だが、今の健太にはそれが弾丸のように感じられた。
ボールが目の前に迫る。
(――今だ!)
彼は脳内で「弾く」というコマンドを打ち込む。念動力をボールの軌道上へと叩きつける。
だが。
ブンッ、という風切り音と共に、彼の念動力はボールの僅か後ろの空気を叩いただけだった。ボールは彼の横をすり抜け、キャッチャーミット代わりのネットへと吸い込まれていく。
「……っ! くそっ……!」
健太は舌打ちをした。遅い。間に合わない。自分の思考から、実際の念動力が物理干渉を起こすまでに、コンマ数秒の「ズレ」がある。
「ムズいな、やっぱり……!」
「……能力なんて使えん父さんには、何がどう難しいのかさっぱりだが……」
父親が苦笑いしながら腕を組む。
「どうした? やっぱり反応しきれんか?」
「うん。……なんていうか、頭では『今だ』って分かってるんだけど、能力が発動するまでのタイムラグがあって……。ボールが通り過ぎてから、やっと力が働く感じなんだ」
「ふーむ……。タイムラグか」
父親は顎を撫でながら少し考え込んだ。そして、何かを思い出したように口を開いた。
「……なあ健太。お父さんは能力のことは専門外だが、野球のことは少し知ってる」
「野球?」
「ああ。プロのバッターと、今の悩みは似たようなもんかもしれんと思ってな」
父親は熱を込めて語り始めた。
「いいか? 時速150キロの剛速球なんてのは、マウンドからホームベースまでコンマ何秒で到達する。人間の目で見て『あ、ボールが来た』って認識して、それから脳が筋肉に命令を出してバットを振ってたんじゃ、どうあがいても間に合わんのだ」
「……じゃあどうやって打ってるんだよ?」
「予測と無意識だ」
父親は人差し指を立てた。
「バッターはな、ボールを見て打ってるんじゃない。『感じる』んだ。ピッチャーの投球フォーム、腕の振り、指先のリリース。それらの情報から、ボールが来る『軌道』と『タイミング』を本能的に予測する。そして、ボールがまだ手元に来ていない段階で、すでに身体はバットを振り始めているんだ」
「……見てから振るんじゃ遅いってことか……」
「そうだ。無意識の反射で食ってる世界なんだよ。お前の能力も、それと同じなんじゃないか? 『ボールがここに来てから発動』じゃなく、『ボールが来るであろう場所』に、あらかじめ力を置いておくイメージだ」
父親のアドバイスは、意外なほどに健太の胸にすとんと落ちた。
「予測……。先読み……」
「それとな」
と父親は付け加えた。
「一番大事なのは、ビビらないことだ」
「ビビらない?」
「ああ。どんなに速い球が顔面に向かってこようとも、絶対に目を逸らさず、恐怖に身体を強張らせない。『平常心』だ。心が縮こまれば反応も遅れる。ただ、来るものを淡々と打ち返す。……それが極意だ」
「平常心……」
健太はその言葉を何度も反芻した。
確かに自分は焦っていたのかもしれない。「速い」「当てなきゃ」という焦燥感が思考を鈍らせ、タイムラグを生んでいたのかもしれない。
(……よし、もう一回だ)
健太は父親の言葉を胸に刻み、再び構え直した。
肩の力を抜く。呼吸を整える。ボールを「見る」のではなく、空間全体を「感じる」。
マシンのアームが動く。リリース。
白い球が飛んでくる。
(……あそこだ)
彼はボールそのものではなく、ボールが通過するであろう未来の一点を、ただ静かに見据えた。
恐怖はない。焦りもない。ただそこに来るものを弾く。
(――弾けろ)
パァンッ!!
乾いた破裂音。
見えないバットで打ったかのようにボールが鋭角に弾き飛ばされ、バッティングセンターの天井のネットに激突した。
「――やった!」
健太は思わずガッツポーズをした。
「おおお! すげぇ! 本当に弾いたぞ!」
父親もネット越しに大興奮している。
「父さん! 今の感覚だ! 父さんの言った通りだったよ! 『見てから』じゃなくて『置いておく』感じ!」
「そうかそうか! 役に立って良かった!」
息子と父親。二人の間に共通の「勝利」の実感が共有された瞬間だった。
能力なんてない父親のアドバイスが、超能力者の息子の壁を壊したのだ。
「よーし、じゃあ次はどうする? もう少し球速を上げてみるか?」
父親が、まるで少年のような顔でコントロールパネルに手をかけた。
「……ああ、頼む。次は100キロだ」
「おう! 変化球も混ぜてみようか? カーブとかフォークとか。いつも同じように真っ直ぐ来るとは限らんからな」
「……鬼かよ。でも実戦的でいいな。お願い!」
「よし任せとけ! お父さんの選球眼(パネル操作)を見せてやる!」
ガコン。ヒュンッ。パァンッ!
その日バッティングセンターには、不思議な親子連れの姿があった。
バットも持たず、ただ飛んでくるボールを次々と空中で弾き飛ばす息子。
そしてそれをネット裏で嬉しそうに操作し、アドバイスを送る父親。
「――いいぞ健太! その調子だ!」
「くっそ、今のは変化した! 読み間違えた!」
「ドンマイだ! 修正しろ! お前ならできる!」
傍から見れば、それはやはり奇妙な光景だったかもしれない。だが、そこには確かな親子だけの絆と、そして成長のドラマがあった。
灰色の日常から始まった物語は、いつしかこんなにも温かく、そして熱い色を帯びていた。
バッティングセンターの薄暗い照明の下で、斉藤健太はまた一つ、大きな階段を登っていた。父の教えと自分自身の才能を武器にして。




