第45話 灰色の家族会議と親の心子知らず
日曜日。夕食後の斉藤家のリビング。
普段であれば、父親はソファでプロ野球中継を見て晩酌し、母親はキッチンで洗い物を片付けながら翌日のお弁当の下ごしらえをしている、至って平和な時間帯。テレビの音がBGMのように流れている、どこにでもある家庭の風景だ。
だが今日だけは違った。
テレビの電源は切られ、父親は新聞をたたみ、母親もエプロンで手を拭きながらダイニングテーブルの前に座っていた。そして、その向かいに座る息子の顔を、心配そうに見つめている。
斉藤健太は、生まれて初めて味わう種類の緊張感に、心臓が潰れそうだった。Tier4の怪異と戦った時よりも、遥かに胃が痛い。喉が渇いて、言葉が出てこない。
「……ふぅ」
彼は一度大きく息を吸い込んだ。そして、覚悟を決めたように、目の前に座る両親の顔を交互に見た。
「……あのさ。二人とも、忙しいところごめん。ちょっと真面目な話があるんだ」
「なんだ健太。改まって」
父親が缶ビールを置いた。普段はあまり息子に干渉しないタイプだが、今日はただならぬ雰囲気を感じ取っているようだ。
「『将来のこと』について相談があるって言ってたけど……進路のことか?」
「……うん。まあ、そうなんだけど」
「なんだ。大学なら心配しなくていいぞ」
父親は安心させるように笑った。
「お前もそろそろ受験生だ。どこの大学に行きたいか決まったか? うちも裕福とは言えんが、大学に行かせるくらいの蓄えはある。金の心配はするな」
「そうよ健太」
母親も横から口を挟む。
「あんた、この前の模試、数学の成績上がってたじゃない。頑張れば国立だって狙えるかもしれないわよ?」
両親の目には、息子への純粋な期待と、ごく普通の将来への展望しか映っていない。それはあまりにも真っ当で、そして眩しいほどの「親心」だった。
その期待を、今から自分は、とんでもない言葉で打ち砕こうとしている。
健太は胸が痛むのを感じながら、それでも言わなければならない言葉を探した。
「……ありがとう。二人の気持ちは、すごく嬉しいよ。でも……」
彼は膝の上で拳を握りしめた。
「……相談したいのは、大学に行くかどうかって話じゃないんだ。もっと根本的なことというか……」
「……?」
両親が怪訝な顔をする。
「なんだ? 大学の話じゃないのか? 就職する気か?」
父親の声が、少し厳しくなった。
「お前、高校は普通科だろう? 悪いが、今のご時世、何の実務経験も資格も持ってない高卒のガキに、まともな就職先なんてないぞ? それこそブラック企業で使い潰されるのがオチだ」
「そうよ! 就職するにしても、せめて大学を出てからにしなさい。大卒の資格があれば、選択肢だって広がるんだから」
正論の集中砲火。その通りだ。健太も、普通の高校生だったら迷わず頷いていただろう。
「いやー……だから、そうなんだけど……」
健太は頭を掻いた。説明が難しい。
「相談したいことが、そういう一般的なルートの話じゃなくて……。もっとこう……特殊なというか……」
「特殊?」
母親が心配そうに眉を寄せる。
「……もしかして健太。あんた、変な夢でも持っちゃったの? ミュージシャンになりたいとか、YouTuberで食っていくとか……」
「いや違うって!」
「じゃあなんだ? まさか改まって『彼女ができました』とか、そういう報告か?」
父親がニヤリと、からかうように言った。
「ははぁ!? か、彼女なんかじゃ……!」
健太は顔を赤くして否定した。
まあ、気になる子(詩織や瑠璃)はいるけれど、今話したいのは、そんな浮ついた話ではない。
「いやー……。彼女っていうか、まあそういうんじゃないんだけど……。正直、今から俺が言うこと、二人が信じてくれるとは思えないし、理解できるとも思えないんだけど……」
彼は言い淀んだ。その歯切れの悪さに、両親の心配そうな視線が、徐々に不安げな色を帯びていく。
「なんだなんだ? 借金か? いじめか?」
「いいから、はっきり言いなさい。お父さんもお母さんも、ちゃんと聞くから」
その真剣な眼差しに押され、健太はついに意を決した。
(……言うしかねぇ)
彼は深く深呼吸をした後、震える声で告げた。
「……実は、日本政府の機関からスカウトされててさ」
リビングに、数秒間の沈黙が落ちた。
冷蔵庫の駆動音だけが、やけに大きく響く。
「…………は?」
父親がポカンとした顔で聞き返した。
「にほんせいふの……きかん?」
「……そう」
「なんだ、研究所とかってことか? お前、そんなに頭良かったっけ? いや、成績は普通だよな……。まさか隠れてネットで論文でも発表したのか? それが政府の偉いさんの目に留まったとか?」
親馬鹿にも程があるが、必死に息子の言葉を肯定的に解釈しようとする父親の姿が、健太には少し切なかった。
「……いや違うんだ。俺がスカウトされたのは、研究とかじゃなくて……」
健太は、一言一句慎重に言葉を選びながら続けた。
「その日本政府の機関っていうのが、『内閣情報調査室・特殊事象対策課』ってところで……」
「……ないかく? じょうほうちょうさしつ? とくしゅじしょうたいさくか?」
母親が、まるで宇宙人の言葉でも聞くかのように、一語一語復唱する。
「うん。まあ通称、『八咫烏』って言われてる組織なんだけど……」
「やたがらす……」
両親の顔には、「一体息子は何を言っているんだ?」という困惑と、「頭でも打ったんじゃないか?」という不安が、まざまざと浮かんでいる。無理もない。あまりにも突拍子もない話だ。
「はぁ……」
父親が大きくため息をついた。
「……健太。お父さんは、お前の冗談につきあうほど暇じゃないぞ。それとも何か? 今流行りの『ライトノベル』の設定の話でもしてるのか?」
「違うよ父さん! 真面目な話なんだって!」
健太は身を乗り出して反論した。
「えーと、そこなんだけど。……父さん、母さん。『能力者』とか『超能力』とかって、信じてる?」
その問いに、両親は顔を見合わせた。そして揃って、苦笑いを浮かべた。
「……超能力? ユリ・ゲラーとかか?」
「まあテレビのバラエティ番組で見るくらいなら面白いとは思うけど……。現実にいるかって言われたら、信じてはいないわねぇ」
常識的な大人の反応だった。
「……まあそうだよな。俺もそうだったし」
健太は頷いた。
「でも、その八咫烏って組織は、そういう超能力とか、オカルトみたいな現象を、国として管理・対処してる部署なんだ。……そして俺には、その『能力者』としての才能があるから、採用したいって言われてるんだ」
言い切った。ついに言った。
彼は心臓が口から飛び出そうなほど緊張しながら、両親の反応を待った。
父親はしばらく黙って缶ビールを見つめていた。そして、ゆっくりと顔を上げ、健太を真っ直ぐに見つめた。
「……分かった。とりあえず話を整理しよう」
父親の声は、意外にも冷静だった。だがその冷静さは、健太の話を信じたからではない。息子の「妄言」をどうやって論理的に諭すべきかを考えている、大人の冷静さだった。
「お前の言い分はこうだ。『自分には超能力がある。だからその力を見込まれて、国の秘密機関に就職を誘われている』。……こういうことだな?」
「……うん、そう」
「で? そこで働けば給料も出るし、将来も安泰だと言いたいわけか?」
「……そう」
父親は、ふぅとため息をつくと、厳しく言い放った。
「……悪いが健太。お父さんには、それが『本物の政府機関』だとは到底思えない」
「えっ?」
「考えてもみろ。そんなSF映画みたいな組織が本当にあると思うか? しかもお前のような普通の高校生をスカウトするなんて」
「で、でも実際に瑠璃先生……神楽坂さんとかもそう言ってたし……!」
「騙されてないかお前」
父親の目が鋭くなった。
「『能力者としての才能がある』なんておだてられて、変なセミナーに連れて行かれたり、高額な商品を売りつけられたりしてないか? 詐欺じゃないのかそれ」
「ち、違うよ! お金なんか取られないし、逆に給料くれるって言ってるんだよ! 初任給400万だって!」
「400万!?」
母親が素っ頓狂な声を上げる。
「そ、そんなの……尚更怪しいじゃない! 高卒の新人にそんな大金を出すなんて……絶対裏があるわよ! 犯罪の片棒を担がされるとか……!」
「違うんだってば!」
健太は頭を抱えた。予想通りの反応だ。やはり言葉だけで説得するのは無理なのか。
「……詐欺じゃないんだよ。本当に俺に才能があるから、採用したいって言われてて……。でも俺だって大学は大事だと思うから、そこは譲れないって思ってる。だから!」
健太は必死に食い下がった。
「大学には行く! ちゃんと受験して合格する! ……その上で、大学に通いながら、そこの仕事も手伝いたいんだ! 両立させてみせるから! お願いだから信じてくれよ!」
彼の必死な訴えに、両親も少しだけ動揺したようだった。息子のここまで真剣な顔を見たのは、久しぶりだったからだ。
「……健太」
母親が心配そうに言った。
「あんたが本気だってことは分かったわ。でもね……。超能力なんて、お母さんにはやっぱり信じられないのよ」
「そうだな。……百歩譲って、その組織が実在するとしてもだ」
父親が腕を組んだ。
「お前が言う『能力』とやらが、本当にあるのかどうか。それを証明してもらわんと話にならんぞ」
「……証明?」
「ああ。もし本当にあるなら、今ここで見せてみろ。そうすりゃ少しは信じてやる」
父親の言葉は挑発というより、むしろ「これで見せられなければ諦めてくれるだろう」という優しさを含んだものだった。
だが。
健太にとって、それは願ってもないチャンスだった。
(……やるしかねぇ!)
彼はごくりと唾を飲み込んだ。
「……分かった。見せるよ」
彼は立ち上がり、テーブルの上の、まだ中身が入っている父親の缶ビールを指差した。
「父さん、そのビール。……手で持たないで、そのまま見ててくれ」
「? ……ああ、いいぞ」
父親は怪訝な顔で頷いた。
健太は右手を缶ビールに向け、目を閉じて意識を集中させた。
いつものように。
呼吸をするように。
彼の脳内で、不可視の「手」が缶ビールの冷たい感触を掴むイメージを描く。
(――浮け)
次の瞬間。
カタと。テーブルの上の缶ビールが、小さく音を立てた。
両親の目が釘付けになる。
そして。
ふわっ。
缶ビールがテーブルから離れ、ゆっくりと、しかし確かに空中に浮き上がったのだ。五センチ、十センチ、二十センチ。
父親の目の高さまでそれは上昇し、そこでぴたりと静止した。
「「…………」」
両親は言葉を失っていた。声も出ない。瞬きもできない。
目の前で起きている、物理法則を無視した現象。CGでもマジックでもない。自分たちの息子が、ただ手をかざしただけで、ビールが空を飛んでいる。
「……うそ……」
母親が口元を両手で覆った。
「……な、なんだこれは……」
父親の顔から血の気が引いていく。
健太は、浮かせたビールをゆっくりと父親の手元まで移動させ、そっとテーブルに戻した。
コトッという軽い音が、凍りついたリビングに響いた。
「……これが、俺の能力だ」
健太は静かに告げた。
「『念動力』。……これでもまだ信じてくれない?」
その問いに、父親は震える手でビールを掴み、一気に煽った。そうでもしないと、正気を保てなかったのかもしれない。
「……健太」
父親の声は、今まで聞いたことがないほど低く、そして震えていた。
「……お前、いつから……」
「……1年前くらいかな」
「そうか……。そうか……」
父親は何度も頷いた。そして深く息を吐くと、まるで別人を見るような目で息子を見た。
「……分かった。お前が普通の人間じゃないってことは分かった。そして、お前をスカウトしようとしてる組織が、ただの詐欺集団じゃないってことも、まあ理解した」
「じゃあ……!」
「……だがな」
父親は厳しい顔をした。
「だからと言って、『はいそうですか。じゃあ就職しなさい』とは言えんぞ。そんな危ない仕事、親として賛成できるわけがない」
「……っ!」
「だがお前の人生だ。……詳しい話を聞こう。その八咫烏とかいう組織の人間を、一度連れてこい。俺たちが直接話をする」
それは、最大限の譲歩だった。
健太はほっと息をついた。第一関門突破だ。
「……ありがとう父さん。母さん」
彼は深々と頭を下げた。
こうして斉藤健太の「家族会議」は、とりあえずの決着を見た。




