第42話 最強四歳児と飛翔する幼稚園
京都左京区。
古き良き都の面影を残す閑静な一角に、一般の地図には決して載ることのない、一つの特殊な施設が存在する。
『私立・御霊幼稚園』。
重厚な築地塀に囲まれ、門には古めかしい注連縄が飾られたその場所は、一見すると格式高い寺院か神社のようにも見える。
だがそこは、日本退魔師協会に名を連ねる名門中の名門、由緒ある陰陽師や神職、あるいは古武術の家系の子供たちだけが入園を許される、超エリート専用の教育機関だった。
いわば、日本の裏社会を将来背負って立つ「英才教育」の場。
そして今、この閉ざされた園庭に、歴史を揺るがす一人の「神の子」が降臨していた。
土御門晴明、四歳。
(……なるほどな。これが上流階級ってやつか)
彼は園庭の砂場のど真ん中にある、小さな滑り台の上から、眼下の光景を見下ろしていた。
彼の視線の先では、可愛らしい園児たちが、それぞれに遊び興じている。
だがその「遊び」の質が、明らかに常軌を逸していた。
ある子は泥団子を作る代わりに、地面に複雑な幾何学模様を描き、その上にお行儀よく小石を並べている。
それは間違いなく、簡易的な『結界術』の練習だった。
またある子は、折り紙で作った手裏剣を投げて遊んでいるのだが、その手裏剣が不自然な軌道を描いて空中でカーブしたり、急停止したりしている。『念動』の初歩だ。
そして何より驚くべきは、彼らの態度だった。
「かーせーてー」
「いいよー。じゃあ僕の式神ちゃんと君の式神ちゃん、どっちが強いかお相撲させようよ」
「わあ楽しそう! 壊さないように気をつけて遊ぼうね」
なんという民度の高さ。なんというお行儀の良さ。
喧嘩をする子もいなければ、理不尽に泣き叫ぶ子もいない。
おもちゃの取り合いになれば、じゃんけんならぬ『呪符の早書き対決』で、平和的に解決を図る。
(……すげぇな。前世の俺が通ってた保育園とは、えらい違いだ)
鈴木太郎としての記憶にある、鼻水を垂らし意味もなく大声を上げ、泥にまみれて取っ組み合いをしていた「クソガキ」たちの姿は、ここにはどこにもなかった。
皆、育ちが良すぎるのだ。さすがは千年の歴史を持つ名家の子女たち。DNAレベルで「品格」が刻まれているらしい。
晴明自身も、この生活を意外なほど楽しんでいた。
当初は「また面倒な集団生活かよ……。一人で家で寝てたい」と登園拒否寸前だったのだが、いざ通ってみると案外居心地が良い。
何せ周りが賢い。言葉が通じる。
「ねえねえ晴明君! 今日の星読み、西の方角に凶兆が出てたんだけど、どう思う?」
「ああ。あれはおそらく、来週の給食に嫌いなピーマンが出る予兆だろうな。気にすんな」
「さっすが晴明君! 天才!」
こんな風に多少ひねくれたことを言っても、彼らは「神童・土御門晴明様のお言葉」として、全てを肯定的に受け止めてくれるのだ。
彼は気づけば、この「桜組」の、いや幼稚園全体の影の支配者……もとい、カリスマ的リーダーとして崇め奉られる存在になっていた。
「晴明君が言うなら間違いないよ!」
「今日は何をして遊ぶの? 私たち何でも従うわ!」
きらきらとした瞳で彼を見つめる、未来のエリートたち。
(……ふっ。悪くない。前世では万年平社員だった俺が、今世では幼稚園児にして組織のトップとはな)
滑り台の上で彼はご満悦だった。退屈しのぎには、ちょうど良い箱庭だ。
そんなある日のこと。
園庭で子供たちの間で「鬼ごっこ」が始まった。
「鬼決め誰がやるー?」
「はいはーい! 私やりたーい!」
ごく普通の子供らしい光景。
だが、この幼稚園において「鬼ごっこ」はただの遊びではない。
それは、自らの身体能力と霊力を競い合う、実戦さながらの「演習」なのだ。
「逃げろー!」
「待てー!」
一斉に散らばる子供たち。その足が速い。速すぎる。
ただ走っているだけではない。彼らは無意識のうちに足の裏に微弱な霊力を集中させ、『瞬足』の術を使っているのだ。
四歳児とは思えないスピードで園庭を縦横無尽に駆け回る。砂埃が舞い上がり、先生たち(もちろん彼女らも退魔師協会の熟練術師だ)が「こらこらー、あまり本気を出して結界を壊さないでー!」と、結界の強度を上げながら叫んでいる。
(……元気だなぁ、お前ら)
晴明はそれを、滑り台の上から高みの見物と決め込んでいた。参加するのは面倒だ。
だが鬼になった子供が息を切らして彼を見上げ、こう言った。
「あ、晴明君みっけ! 逃げてよー! 捕まえちゃうぞー!」
その挑戦的な瞳。
晴明の中に、ほんの少しだけ悪戯心が芽生えた。
(……逃げろか。普通に走って逃げるのも芸がないな)
彼はゆっくりと立ち上がった。
「捕まえられるもんなら、捕まえてみな」
そう言って彼は、滑り台の頂上から、ひょいと虚空へと足を踏み出した。
「――!?」
見ていた子供たちや先生たちが息を呑む。
落下する、そう思った瞬間。
晴明の身体は落ちなかった。
ふわん。
重力を完全に無視して、彼の身体は宙に浮いたまま、まるで水の中を泳ぐように優雅に空へと上昇していったのだ。
「……えっ?」
「……う、浮いてる……?」
園庭の動きがぴたりと止まる。
全員がポカーンと口を開けて、頭上を見上げている。
晴明は地上五メートルほどの高さであぐらをかき、腕を組んで悠々と下界を見下ろした。
「ここまでおいで。捕まえたら、俺の負けでいいぞ」
絶対的な安全圏からの挑発。これぞ神の子の余裕。
数秒の静寂の後。
「すっげぇえええええ!!!」
「晴明君、空飛んでる!! カッコいいいい!!」
爆発的な歓声が園庭を揺るがした。
尊敬、驚嘆、そして強烈な「憧れ」。
「僕も! 僕もやりたい!」
「私だって飛べるもん!」
子供たちの負けず嫌いに火がついた。
一人の男の子が顔を真っ赤にして踏ん張り、「ぬうぅぅぅ!」と念じながらジャンプする。
すると彼の身体が普段より高く舞い上がり、一瞬だけ、ふわっと滞空した。
「あ! 今、ちょっと浮いた!」
「すごい! 健太君(※クラスメイト)、才能あるかも!」
それを見た他の子供たちも、我先にと真似を始めた。
「とべ! とべー!」
「えいっ! ……あ、ダメだ落ちちゃった」
園庭のあちこちでピョンピョンと飛び跳ね、空を飛ぼうと必死になる子供たち。
中には才能があるのか、数センチ浮くことに成功する子も現れ始めた。
「……あれ? これもしかして……」
空の上で晴明は、少し焦り始めた。
ただの暇つぶしのつもりだったが、どうやら彼はこの幼稚園に「とんでもないブーム」を巻き起こしてしまったらしい。
それから一週間後。
御霊幼稚園の風景は一変していた。
朝の登園風景。門をくぐる園児たちの足は、地面についていない。
全員が地上数十センチ、上手い子は一メートルほどの高さを、ふわふわと浮遊しながら「おはよーございます!」と登園してくるのだ。
「あ、晴明君! 見て見て! 今日は昨日より高く飛べるようになったよ!」
「すごいな高志。でもまだ重心がブレてるぞ。お尻に力を入れろ」
「うん! 分かった!」
昼休み、園庭の上空はカオスだった。
鬼ごっこはもはや、三次元機動バトルと化していた。
空中で高速移動し、木の枝や遊具を足場にして飛び交う子供たち。
「あー! ずるい! 理沙ちゃん、高いところ行き過ぎー!」
「ここまでおいでー! べー!」
砂場遊びすら空中で行われている。
念動力で砂を空中に固定し、空飛ぶ城を作ろうとする猛者まで現れた。
そして最も大変なのは、先生たちだった。
「ちょっ、こらー! 園舎の屋根に乗っちゃダメー! 危ないでしょー!」
「ああっ! そっち行ったら結界の外に出ちゃう! 戻ってきなさーい!」
保母さんたちは必死だった。
彼女たち自身もまた退魔師としてのプライドと意地で、『飛行術』を展開し、空を飛び回りながら、自由奔放に飛び交う園児たちを捕獲し、指導し、安全を確保しなければならないのだ。
空には、パニックになりながら空中浮遊する先生と、キャッキャと逃げ回る園児たちの群れ。
まさに地獄絵図ならぬ、天国絵図。
その中心で晴明は、全ての元凶として、一番高い場所からその光景を満足げに眺めていた。
(……いやー、すまんすまん。まさかここまで流行るとはな)
彼は少しだけ反省しつつも、内心ではほくそ笑んでいた。
だって楽だから。
地面を歩くよりも浮いたほうが、断然楽だし視界もいい。
「晴明君! 今日の給食カレーだよ!」
空飛ぶクラスメイトが報告に来る。
「よし。全速力で食堂へ向かうぞ。一番乗りだ」
「おーっ!」
一斉に食堂へ向かって滑空を始める『桜組』の編隊。
御霊幼稚園の伝統ある歴史の中で、この世代は後にこう呼ばれることになる。
『黄金の飛翔世代』と。
あるいは『一番手がかかった空飛ぶ悪魔の世代』と。
俺の世代だけ、空中浮遊がデフォルトになる。
そんな予感を確信に変えながら、最強の四歳児は今日も優雅に京都の空を泳ぐのだった。
平穏なスローライフ?
いや、これはこれで存外悪くない「空の旅」なのかもしれなかった。




