第41話 深海の王と灰色の指揮官
戦場と化したお台場の砂浜は、歓声と怒号、そしておびただしい数の能力の光で埋め尽くされていた。
Tier5の眷属たちとの乱戦は、プレイヤー側の圧勝と言ってよかった。
最初は統制の取れていなかった有象無象のハンターたちも、次々と湧き出てくる経験値を前に、一種の集団催眠のような高揚感に包まれ、競い合うように敵を殲滅していく。
「っしゃあ! 二十体目ェ!」
「そこだ! 氷結の槍!」
空を飛び交う火炎弾。大地を隆起させる土の壁。
それはまるでフィナーレを迎えた花火大会のように鮮やかで、そして暴力的な光景だった。
斉藤健太もまた、その熱狂の中心にいた。
「田中、下がるな! 鈴木、左翼のケアだ!」
「了解!」
的確な指示。仲間との連携。
自らの念動力で敵を弾き飛ばし、詩織を守る。
全てが瑠璃との訓練の通りに機能していた。
余裕という二文字が彼の脳裏を掠める。Tier2といえども、この数千人のプレイヤーを前にしては恐るるに足らないのではないか。
だが。
その慢心は、世界を揺るがすような轟音と共に打ち砕かれた。
『――GRRRROOOOOOOOOOOAAAAAAA!!!!』
耳をつんざく、地底の底から響いてくるような咆哮。
瞬間、お台場の海が真ん中から裂けた。
盛り上がった海面から、天を衝くような巨大な黒い影が、その醜悪な姿を月光の下へと現した。
Tier2『深海の厄災』。別名、リヴァイアサン・モドキ。
全長は百メートルを超えているだろうか。巨大なイカとタコ、そして人間を無秩序に混ぜ合わせて練り上げたようなおぞましい肉塊。
その表面はヌメヌメとした黒い粘液で覆われ、無数の赤い目がぎょろぎょろと周囲を見下ろしている。
「……嘘だろ……」
誰かが呆然と呟いた。
巨神は、まるで虫を払うかのような緩慢な動作で、その太い触腕を一本、軽く振り払った。
ただそれだけで。
バァンッ!!
大気が破裂する音と共に、触腕が薙ぎ払った砂浜の一角が物理的に吹き飛んだ。
そこにいた数十人のプレイヤーたちは、防御魔法を展開する暇もなく、悲鳴を上げる間もなく、海藻のように宙を舞い、遥か後方のコンクリート壁に叩きつけられた。
静寂。
そして、パニック。
「に、逃げろぉぉぉ!!!」
「無理だ! 勝てるわけねぇ!」
先ほどまでの熱狂は嘘のように霧散し、砂浜は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うプレイヤーたち。だが結界に阻まれ、外へは出られない。
「チッ、化け物め!」
果敢にも立ち向かったのは、あのジャガーノートたち、アングラ勢の上位ランカーたちだった。
彼らはTier3相当の強力な攻撃スキルを、ボスの巨体めがけて一斉に放つ。
爆炎と閃光が、巨神の身体を包む。
「やったか!?」
だが煙が晴れた後、そこにいたのは、無傷のまま悠然と佇む怪物の姿だった。
表面の粘液が攻撃を無効化し、傷ついた部分も驚異的な速度で再生している。
「……回復持ちかよ。反則だろ、クソ運営!」
絶望的な実力差。
健太たちもその場に釘付けになっていた。足が震える。
これがTier2。瑠璃が言っていた、命のやり取りをする領域。
「……健太さん、どうします!? 撤退しますか!?」
詩織が震える声で叫ぶ。田中も鈴木も顔面蒼白だ。
逃げる? どこへ?
この狭い結界の中、あんな怪物の暴威から逃げられる場所などない。このままでは全滅だ。
(……考えろ。考えるんだ)
健太は必死に自分に言い聞かせた。
『――流れを読みなさい。個の力ではなく、場全体の“意志”を操るのよ』
瑠璃とのあの夜の特訓の記憶が蘇る。
今、この戦場に足りないのは火力ではない。
数千人のプレイヤーの総火力は、間違いなくTier2にも届き得る。
足りないのは、それを一つに束ねる「意思」だ。
「……やるしかない」
健太は覚悟を決めた。
彼はスマートフォンを取り出すと、『奈落の淵』のチャットルームを開き、そして大音声拡張スキル(アプリの安っぽいアイテムだが)を使って、戦場全体に響き渡る声で叫んだ。
「――全員聞け!! このままじゃ全滅だ!! 死にたくなければ、俺の指示に従え!!」
最初は、誰も見向きもしなかった。「誰だあいつ」「何様のつもりだ」。罵声と嘲笑。
だが健太は諦めなかった。彼は念動力を最大出力で展開した。
ボスが逃げ遅れたプレイヤーの集団に、触腕を叩きつけようとしたその瞬間。
「――そこだ! 防げ!!」
健太の声と共に、無数の瓦礫が宙を舞い、即席の防壁となってプレイヤーたちの頭上を覆った。
ドォォン! 触腕の一撃を防ぎきる。
「あ、ありがとう……!」
「おい、『豪腕』使いのあんた! ボスの右足の付け根を狙え! 奴の再生が遅れてる場所だ! 『氷結』使いは波打ち際を凍らせて、奴の動きを鈍らせろ!」
健太の、フィールド全体を俯瞰(念動力による知覚)した的確な指示が、次々と飛ぶ。
そして、その指示通りに動いたプレイヤーたちが、確実に成果を上げ始めたのを見て、戦場の空気が変わった。
『龍神:おう、新人がなんか言ってるぞ。乗ってみるか!』
『月詠:KENTA君ね! OK、私も力を貸すわ!』
チャットルームの猛者たちが呼応し、それをきっかけに周囲のプレイヤーたちも、健太の声を頼りに行動を始めた。
バラバラだった数千の意思が、一つの巨大な奔流となって収束していく。
それはもはや烏合の衆ではない。一つの目的のために統率された巨大な「軍隊」だった。
斉藤健太は、今この戦場を支配する「フィールドコマンダー」として、完全に覚醒していた。
「――今だ!! 総員、全力攻撃!!!」
健太の喉が裂けんばかりの号令。
瞬間、お台場の空が、ありとあらゆる色彩の光で埋め尽くされた。
炎、雷、氷、風、そして純粋な魔力の塊。
数千人のプレイヤーが放つありったけのスキルが、深海巨神の一点――再生が追いつかなくなり露わになった、赤黒い核めがけて殺到する。
凄まじい爆音と閃光。
巨神が苦痛の絶叫を上げる。再生能力が飽和し、肉体が崩壊を始める。
だが、まだ足りない。核はまだ健在だ。あと一撃、決定的な一撃が必要だ。
「――私が道を空ける!」
いつの間にか健太の隣に、神楽坂瑠璃が立っていた。
彼女は誰にも見えない光の刃を構え、一閃。ボスを守ろうとした触腕の壁を、綺麗に斬り裂いた。
「……健太!! 行きなさい!!」
彼女の叫びが、背中を押す。
健太は吼えた。
彼は戦場に散らばる数多の瓦礫、鉄骨、コンクリート片――その全てを、残る念動力の全てを振り絞って空中に集結させた。
数千、数万の破片が渦を巻き、一つの巨大な「ドリル」の形状を成していく。
それは瑠璃との特訓で編み出した、彼だけのオリジナル秘奥義。
「――貫けぇぇぇぇぇッ!!! 『念動螺旋槍』!!!!」
巨大なドリルの切っ先が轟音と共に回転し、ボスの核めがけて射出された。
大気を切り裂き、残存していた粘液の防御膜を食い破り、そして。
ズガアアアアアンッ!!!!
ドリルは巨神の核を粉々に砕き、その向こう側へと貫通していった。
時間が止まったかのような一瞬。
そして巨神の身体が、内側から眩い光を放ちながら崩れ落ち、数多の光の粒子となって夜空へと還っていった。
【イベント終了 ―― 討伐完了】
無機質なアナウンスが響く。
一拍おいて。
「うおおおおおおおっ!!!」
お台場を揺るがすほどの大歓声が沸き起こった。
見知らぬ者同士が抱き合い、勝利を称え合う。
「やった……やったぞ……!」
田中が涙ぐみながらへたり込む。鈴木も詩織も、放心したように空を見上げている。
そして健太。
彼のスマートフォンの画面には、MVPとして『KENTA』の文字が誇らしげに輝いていた。
彼は震える手でそれを握りしめた。勝ったのだ。
自分の指揮で、自分の力で、あの絶望的な怪物を討ち果たしたのだ。
その充実感は、今まで感じたどんな「狩り」の喜びよりも、遥かに深く、そして重いものだった。
戦場の喧騒から少し離れた、とあるビルの屋上。
鈴木太郎はポケットに手を突っ込んだまま、眼下で喜びを爆発させるプレイヤーたち、そしてその中心にいる斉藤健太の姿を、静かに見つめていた。
「……やるじゃねぇか、あのガキ」
彼は口の端をわずかに歪め、ニヤリと笑った。
「借り物の力でも、磨けばここまで光るか。……ま、少しだけ見直したよ」
その言葉は、彼なりの最大の賛辞だった。
「さて、報告書作んのが面倒くせぇな……」
彼はいつものようにぼやきながら、夜の闇へとその姿を消していった。
一方。
誰にも気づかれない、デジタルな情報の深海。
アプリ『KAII HUNTER』の管理者権限を持つ謎の存在たちが交わす通信ログが、密かに生成されていた。
[ System : Phase 1 “Select” Complete. ]
[ Target : KENTA ... Grade S (Qualified). ]
[ Target : RURI ... Irregular Detected. ]
[ Next Phase ... “Integration” Initiated. ]
プレイヤーたちの勝利の歓声の裏で、冷酷なプログラムは次の「計画」を着実に進行させていた。
この祭典は、彼らにとって終わりではない。
世界を変えるための壮大な実験の、ほんの始まりに過ぎなかったのだ。




