第4話 最強ニートへの道は遠い
一歳児のふりをするのは、控えめに言っても疲れる。土御門晴明は、今日も今日とて母親である美咲や、世話係の女中たちが差し出す木製の玩具を、さも楽しげに(その実、無心で)握りしめながら、内心で深々とため息をついていた。
(ああ疲れる……。精神的に、ものすごく……)
言葉が通じない相手に、ひたすら笑顔と意味のない音でコミュニケーションを取らなくてはならない。この状況は、前世で最も話の通じなかった取引先の頑固な部長と、一対一で交渉させられた時の徒労感に酷似していた。しかも相手はこちらを「神の子」だと信じきっているのだからタチが悪い。彼が偶然「あー」と声を発すれば「なんと神々しいお声!」と感涙され、偶然寝返りを打てば「晴明様が動かれたぞ! 吉兆じゃ!」と屋敷中が大騒ぎになる。もはや一種の宗教だった。
それでも、と彼は思う。この生活にも慣れてはきた。そして、悪いことばかりではないということも。
(まあ、これだけちやほやされるのは、正直楽しいから良いんだけど)
前世では決して得ることのできなかった、絶対的な肯定感。それが、彼の乾いた自己肯定感を満たしていくのは事実だった。
最近、彼のお気に入りの移動方法は「空中ハイハイ」である。ずり這いをマスターした彼はすぐに気づいた。床を這いずるよりも、浮いた方が圧倒的に楽で速いと。彼は地上十センチほどの高さにふわりと身体を浮かべ、まるで水中を泳ぐように手足をばたつかせて空中を進む。その姿は傍から見れば、赤ん坊が楽しげに空中でハイハイしているようにしか見えない。
「まあ若様! なんとお上手なこと!」
「その方がお楽なのでございましょう。さすがは晴明様でございます」
女中たちは、そんな彼の奇行すらも「天才の所業」として手放しで褒め称える。その度に彼は「そうだろうそうだろう」と内心で得意満面になるのだった。もちろん普通のハイハイをすることもある。人間社会に溶け込むための擬態の一環だ。だが、一人の時や、気の置けない式神の小雪の前では、ほとんどこの空中ハイハイで移動していた。だって、その方が圧倒的に楽なのだから。
そして、彼の日常は、もはやこの赤子の身体だけに留まらなくなっていた。
(よし、だいぶ慣れてきたな。同時並行処理)
彼のもう一つの身体――前世の鈴木太郎の姿を模した式神。最初は、赤子の本体が眠っている間にしか、その身体を動かすことはできなかった。だが、この一年、彼は地道な訓練を続けていたのだ。彼の魂の本質は、無限の処理能力を持つ量子コンピュータ。ならば、二つの身体(OS)を同時に並列で動かすことなど、造作もないはずだ。
彼はそれを「オート操作」と名付け、少しずつその精度を高めていった。最初は、式神の身体に「真っ直ぐ歩け」という単純な命令を与え、自分は赤子の身体で玩具を握る、といった簡単な作業から。次第に「人混みを避けながら指定の場所まで移動せよ」「特定の品物を購入せよ」といった複雑な命令も、無意識下で実行できるようになった。そして今では、式神ボディが日雇い労働に勤しみ汗を流している間、赤子ボディの彼は女中と積み木遊びに興じることすら可能になっていた。まさに完璧なデュアルライフ。最強ニートへの道が、また一歩近づいた瞬間だった。
「晴明、良い子にしていますか?」
「まあ、美咲様、泰親様」
穏やかな午後の昼下がり。女中たちと遊んでいた彼の元へ、父・泰親と母・美咲が様子を見にやってきた。二人とも公務で忙しいらしく、こうして揃って顔を見せるのは久しぶりのことだった。
「お二人とも、お忙しいのでは?」
「うむ。少し時間が空いてな。息子の顔くらい見ておきたかった」
泰親はそう言って、不器用ながらも優しい手つきで晴明の頭を撫でた。その瞬間、晴明は自らの能力を無意識のうちに両親へと向けていた。『天理の眼』。彼の視界が通常の色と形を失い、情報の世界へと切り替わる。
(……どれどれ。ウチの父さんと母さんのスペックは、どんなもんかなっと)
まず父・泰親。彼の内にある霊力は、まるで鞘に収められた抜き身の刀のようだった。静かで冷徹。だが、その刀身に秘められた切れ味は尋常ではない。無駄な装飾も余分な揺らぎもなく、ただ一点、斬るという目的のためだけに、極限まで研ぎ澄まされている。並の術師が束になってかかっても、おそらく鞘から抜く間もなく両断されるだろう。
次に母・美咲。彼女の霊力は父とは対照的だった。それは、深く静かに水を湛えた湖のよう。表面は穏やかで波一つない。だが、その湖の底には、途方もない水圧が秘められている。一度その均衡が崩れれば、全てを飲み込み押し流す巨大な濁流と化すだろう。防御と広範囲の制圧に特化した、大いなる母性にも似た力。
(……なるほどな。二人とも相当強いな。この世界のトップクラスなのは、間違いない)
彼は冷静に分析する。前世であれば社長と専務といったところか。有能な経営者であることは間違いない。だが。
(……俺には及ばないけど)
彼の視界の中で、両親の霊力は確かに強大で美しい輝きを放っていた。しかし、彼自身の魂の中心で輝く「それ」は、次元が違っていた。両親の力がどれだけ研ぎ澄まされた「刀」であり、どれだけ広大な「湖」であったとしても、それはあくまでこの世界の物理法則という「鞘」や「器」の中にある。だが、彼の力はそれ自体が「法則」だった。鞘も器も必要としない。始まりであり終わり。無限に自己増殖する根源そのもの。もし本気で力を使えば、両親ですら赤子の手をひねるより容易く、無に還すことができるだろう。
(……赤ん坊でこれって……相当チートボディじゃないか? 大丈夫かこれ? 最強すぎるだろ……)
改めて自らの異常性を自覚し、彼は少しだけ不安になった。この力は、あまりにも過ぎたるものだ。
「どうした、晴明。難しい顔をして」
「あらあら、何か考え事でしょうか」
不思議そうに両親が彼を覗き込む。彼は慌てて「あーうー」と意味のない赤ん坊語を発し、その場を取り繕った。
両親が去った後、彼は一人、自らの力について考えを巡らせていた。今のところ彼が実用レベルで使える術は三つ。遠くの情報を得る「千里眼」。身体を浮かせ動かす「空中浮遊」。そして、外部にアバターを作り出す「式神操作」。どれも便利ではあるが、何か物足りなかった。
(別のこと、覚えたいよな……。特にこの本体を守るための何かが)
式神ボディは所詮は仮の姿。壊されても、また作り直せばいい。だが、この赤子の身体は唯一無二のオリジナルだ。まだ柔らかく脆く、あまりにも無防備。いつ何時、敵意ある何者かに狙われるとも限らない。祖父が過剰なまでに警護を固めているのが、その証拠だ。
(……となると、やっぱり防御手段だよな。体表面に自動で発動するバリアでも張るか)
思い立ったが吉日。彼は早速、新しい術の開発に取り掛かった。幸い周囲には誰もいない。昼寝の時間だと、女中たちも下がっている。彼は敷布団の上にごろりと寝転がると、意識を集中させた。
まずイメージする。自分の肉体を薄い不可視の膜で覆う。それは第二の皮膚のように、身体の隅々までぴったりとフィットしている。
(よし、次はプログラムだ)
彼は再び『五行創元』の力にアクセスする。防御に最適なのは「金」の性質だろう。あらゆるものを弾き、傷つけさせない絶対的な硬度。彼は自らの霊力から純粋な「金」の気を抽出し、それを極限まで薄く引き延ばし、自らの身体の表面にコーティングするイメージを描いた。
(服は……除外しないとゴワゴワして動きにくいな。よし、皮膚の表面、零コンマ一ミリの位置に展開するよう設定)
彼は術式に細かいパラメータを設定していく。前世でエクセルのマクロを組んでいた時の経験が、妙なところで活きていた。
(次は発動条件。常時展開だと、さすがにリソースの無駄か……。いや、俺の霊力は無限だから関係ないか。――でも、精神的な切り替えのためにトリガーは設定しておこう)
彼は少し考えて、発動条件を二つ設定した。一つは「術者(俺)が害意を感知した時」。もう一つは「術者の身体に、一定以上の運動エネルギーを持つ物体が、一定の距離まで接近した時」。これで不意打ちにも対応できる、自動迎撃型のバリアとなるはずだ。
(よし、できた! 名前は……そうだな、『金剛結界』とでもしておくか。厨二っぽいけど、まあ誰も聞かないからいいだろ)
彼は完成した術式を、自らの魂にインストールした。さて、問題はその効果だ。
(……試してみるか)
彼は枕元に置かれていた積み木に手を伸ばした。その中の一つ、三角形の角が尖った積み木を手に取る。そして、その尖った部分を、自らのぷにぷにとした柔らかい手の甲へと、ゆっくりと近づけていった。バリアは普段はオフになっている。まずは手動で起動する。彼の体表面を覆う不可視の霊力の膜が、密度を高めるのを感じた。
そして――。積み木の先端が彼の皮膚に触れる、まさにその寸前。こつん、と。まるで透明なガラス板にでも当たったかのように、積み木はそれ以上進まなくなった。どれだけ力を込めても、その角が彼の肌に触れることはない。
(うーん……。こんなもんか?)
彼は、あっけないほど簡単に成功した結果に、少し拍子抜けしていた。痛みも衝撃も、何もない。ただ進めないだけ。あまりにも地味な結果だった。
(俺のチートボディが凄すぎて、この術が普通なのか凄いのか、よく分からんなぁ……)
もっとこう、バチバチと火花が散ったり、派手なエフェクトが出たりするのかと、少しだけ期待していた自分が、少し恥ずかしい。
(まあいいや。護身用としては十分すぎる性能だ。普段はオフにしておこう)
彼はバリアを解除すると、積み木を元の場所に戻した。新しい玩具を手に入れた満足感と同時に、根本的な問題が何も解決していないという虚しさが、彼の胸をよぎる。
(……早く成長しないかなぁ……)
結局、この不自由な赤子の身体でいる限り、彼の望む本当の自由は手に入らない。彼は天井の木目を眺めながら、ただ時が過ぎるのを待つことしかできなかった。最強の力をその身に宿しながらも、世界で最も無力な一歳児として。




