第39話 灰色の祭典と五色の思惑
斉藤健太の一日は、今や『KAII HUNTER』と共にあった。
朝目覚めて、最初に確認するのは、アプリのログインボーナスとデイリークエストの内容。
通学の電車の中では、裏サイト『奈落の淵』に潜り、ランカーたちの血生臭い武勇伝や高度な戦術論を読み漁る。
退屈な授業中は、脳内で昨夜の戦闘を反芻し、スキルコンボのシミュレーションを繰り返す。
そして、放課後は、彼の「本当の学校」が始まる。
瑠璃という、悪魔のように厳しく、しかし神のように的確な教師の下、詩織、田中、鈴木と共に、地獄の基礎訓練と実戦形式の「狩り」に明け暮れる。
灰色だったはずの日常は、寸分の隙間もなく、この危険で刺激的な「ゲーム」によって埋め尽くされていた。
もはや彼にとって、どちらが現実でどちらが虚構なのか、その境界線は曖昧になりつつあった。
いや、むしろ彼にとっては、こちら側こそが揺るぎない「現実」だったのかもしれない。
その日も、健太は昼休みの屋上で、いつものように焼きそばパンを齧りながら、アプリを起動した。
ルーチンワーク。
クエスト内容の確認、スキルポイントの残高チェック、そして何となくお知らせのタブを開く。
いつもなら、「軽微なバグを修正しました」といったどうでもいい通知しか来ていない、その場所。
だが、その日に限って。
そこには、今まで見たことのないけばけばしい赤色の【!】マークが、不気味に、そしてどこか誘うように明滅していたのだ。
「……なんだ?」
健太は、訝しげにその通知をタップした。
瞬間、画面が暗転し、まるで何かの開戦を告げるかのような、重々しいファンファーレが鳴り響いた。
そして、画面中央に禍々しい筆文字が、炎を纏いながら踊り出た。
【――緊急告知――】
近日中に、『KAII HUNTER』史上初となる大規模イベントの実施が決定!!!
選ばれし狩人たちよ、己が力を示す時は来た!
詳細なルール、開催日時、そして豪華報酬は、後日改めて発表する!
刮目して待て!
――乞うご期待!!!――
「……イベント……?」
健太は、呆然とその文字を呟いた。
今まで、このアプリは、ただ淡々とクエストと報酬を提示するだけの、無機質なシステムに過ぎなかった。
そこに初めて、運営側からの明確な「意志」が介在してきたのだ。
彼の心臓が、どくんと大きく脈打った。
それは恐怖か、あるいは興奮か。
彼は居ても立ってもいられなくなり、授業が始まるチャイムの音も耳に入らないまま、すぐさま『奈落の淵』へと意識をダイブさせた。
この巨大な爆弾の投下に、あの狂人たちはどう反応しているのか。
『奈落の淵』のチャットルームは、健太がログインした瞬間、すでに祭りのような騒ぎになっていた。
龍神: 『おいおいおい! 見たかお知らせ! イベントだってよ! マジかよ!』
月詠: 『見てる見てるー! 超びっくりしたんだけど! 初めてじゃない? こういうの!』
ジャガーノート: 『フン。ようやく神様も重い腰を上げやがったか。面白くなってきたじゃねぇか』
名無しのハンターA: 『ええイベントって何やるんですかね!? みんなで協力してすごい強い怪異とか倒すんですかね!?』
チャットログが、凄まじい速度で流れていく。
健太も、その熱気に浮かされるようにスマホを叩いた。
KENTA: 『皆さんお疲れ様です。俺も今お知らせ見ました。……一体何が始まるんでしょうかね……?』
龍神: 『おおKENTAか! 俺もそれが気になってたとこだ。知る限りこのクソアプリでイベントなんざこれが初めてだぜ』
月詠: 『だよねー! なんか景品とか出るのかなぁ! 限定スキルとかSSR確定ガチャ券とか! 超欲しい!』
ジャガーノート: 『景品なんざどうでもいい。問題は内容だ。PvEなのかPvPなのか……。そこが一番重要だろうが』
ジャガーノートのその冷静な一言に、チャットルームの空気がわずかに緊張した。
PvE――プレイヤー対エネミー。
つまり、プレイヤーたちが協力して強力な怪異に挑むタイプのイベント。
PvP――プレイヤー対プレイヤー。
つまり、プレイヤー同士がその力を競い合う、殺し合いのイベント。
月詠: 『うーん……。でもPvPだとさすがに波乱すぎない? 死人が出たら運営もヤバいだろうし……。普通に考えて参加者も少なくなりそうだからPvEなんじゃないかなぁ? 怪異の討伐数を競うランキングイベントとか』
龍神: 『いやPvPも捨てがたいぞ。例えば参加賞として全員にレアアイテムを配るとか。あとはジャガノさんが前に言ってたみてぇに死んでも怪我とかしない仮想空間みたいな場所を用意してそこでバトルさせるとかどうよ? これなら安全だしみんな参加するんじゃね?』
名無しのハンターB: 『そもそも東京限定のイベントなんですかね? 俺が聞いた話だと『KAII HUNTER』って他の地方でもかなり流行ってるって聞きますけど……』
月詠: 『ああそれね! 私のフレンド(ネットの)も言ってた! 特に関西エリアはもうチーム組んで抗争みたいなことになってるとこも多いらしいし……。そういう他地域との対抗戦とかじゃない?』
飛び交う憶測と願望と、そしてほんの少しの恐怖。
誰もその答えを知らない。
だが、一つだけ確かなことは、このイベントが、この『KAII HUNTER』というゲームの、そしてプレイヤーたちの運命を大きく左右する、重大な転換点になるだろうということだった。
健太は、その熱狂的なログを眺めながら、自分のパーティーメンバーたちの顔を思い浮かべていた。
――俺たちは、この祭りにどう参加すべきなんだろうか。
その日の放課後。
いつもの喫茶店『カフェ・ド・レンガ』には、五人の高校生の姿があった。
健太、詩織、田中、鈴木(同級生)、そして彼らの絶対的な支配者である、神楽坂瑠璃。
テーブルの中央には、すでに五つの、それぞれ異なる種類のケーキが並べられている。
今日の「部費」は、健太たちが昨夜のTier4怪異討伐で得たドロップアイテムの換金額から出ていた。
「――で? イベントですって?」
瑠璃は、モンブランを小さなフォークで上品に切り分けながら、まるで興味がなさそうにそう言った。
彼女の元にも、八咫烏経由で、すでにその情報は届いていたらしい。
「ああ。まだ詳細は不明だがな。……裏サイトの連中はPvPだのPvEだの勝手に盛り上がってるが」
健太は、昼間のチャットルームでのやり取りを、掻いつまんで報告した。
「ふぅん。PvP……。対人戦ね」
瑠璃の目が、きらりと面白そうに輝いた。
「……私は八咫烏の人間だから表立っては参加できないけれど。あなた達は参加なさい。絶対にね」
「……やっぱりか」
「当たり前でしょう? これほど実戦経験を積むのにうってつけの機会はないわ。特にあなた達に絶望的に足りていない対人経験をね。願わくばPvPであることを祈るわ」
そのあまりにも物騒な言葉に、詩織と田中たちが、ひっと顔を引きつらせた。
「まあ心配しなくても今のあなた達ならそう簡単には負けないでしょうけど」
と瑠璃は続けた。
「治癒能力者の桜井さん。鉄壁の防御役の田中君。攪乱役として意外と筋の良い鈴木君。そして司令塔兼主砲のあなた斉藤健太。攻防と支援のバランスが取れたなかなかのパーティーよ。案外優勝候補にだってなれるかもしれないわよ?」
その、彼女にしては珍しい、ほとんど賛辞に近い言葉。
だが、健太は素直に喜ぶことはできなかった。
「……そもそもパーティー単位で参加できるかどうかも分からないけどな。個人戦だったら俺たちバラバラに戦うことになる」
「それもまた一興ね。あなた達が一人でどこまでやれるのか。見ものだわ」
瑠璃は、どこまでも楽しそうだった。
その時、今まで黙ってケーキを頬張っていた桜井が、「それより!」と大きな声で割って入った。
「ゆうしょーしょーひん! 賞品は何なんですかね!?」
そのあまりにも現実的で、そして最も重要な問いかけに、場の空気は一転した。
「おおっ! たしかに!」
田中が、目を輝かせる。
「やっぱ金ですかね!? 優勝したら百万円とか!」
「……でも金をもらってもなぁ……」
鈴木が、困ったように眉をひそめた。
「そんな大金急に入ったら親に絶対怪しまれるだろ……。なんて説明すればいいんだよ……」
「ああ……。それは確かに……」
「『ネットの懸賞で当たった』はもう古いしな……」
高校生ならではの、あまりにも切実な悩み。
その、あまりにもレベルの低い会話を、瑠璃は心底つまらなそうに聞いていた。
「あなた達本当に俗物なのね……。もっとこう名誉とか最強の称号とかには興味がないの?」
「ないです!」
三人が、見事にハモった。
「だったら何が嬉しいのよ」
「そりゃあやっぱ……」
健太は、真剣な顔で言った。
「……新しい『能力』とかですかね。SSR能力貰える! とか」
「おおっ! それはアツい!」
「確かに! 金よりよっぽど嬉しいかも……!」
「俺身体能力強化のスキルツリーもうほとんど解放しちゃったから新しい技が欲しいんですよねー」
「だよな! 金は最悪ドロップアイテム売れば何とかなるし……。でも能力だけはガチャ運がないとどうにもならないからな」
「そうだそうだ!」
雑談は、盛り上がっていた。
未知のイベントへの期待と不安。
手に入るかもしれない豪華な報酬への夢と欲望。
健太は、仲間たちと笑い合いながら、ふと不思議な感覚に包まれていた。
ニヶ月前。
いや、あの敗北を経験する前の自分なら、きっとこんな風に誰かと未来の話をして笑い合うことなど、できなかっただろう。
一人で、ただひたすらに力を求め、孤独な戦いを続けていただけのはずだ。
だが、今は違う。
隣には、自分の背中を預けられる仲間がいる。
自分の未熟さを叱咤し、導いてくれる師がいる。
『KAII HUNTER』。
この忌々しくも魅力的なアプリは、彼から灰色の日常を奪い去り、代わりに、血と硝煙の匂いがする危険な戦場を与えた。
だがそれと同時に、彼に「仲間」という、かけがえのない宝物を与えてくれていたのだ。
(……悪くない)
健太は、自分のケーキの最後の一口を、ゆっくりと味わいながら、そう思った。
どんなイベントが来ようとも、どんな強敵が現れようとも。
この仲間たちと一緒なら、きっと乗り越えられる。
そんな、今まで抱いたことのない確かな自信が、彼の胸の奥で静かに、しかし力強く芽生え始めていた。
灰色の祭典の開幕を告げるファンファーレは、すぐそこまで迫っていた。




