第38話 灰色の雪辱と四色の協奏曲
人間という生き物は、驚くほど単純にできている。
ほんの二ヶ月前まで、斉藤健太の世界は絶望的なまでに灰色だった。だが、今はどうだ。世界は色と音と、そして確かな手応えに満ちている。
昼間、学校の教室で浴びる気怠い西日は、来るべき夜の戦いに備えよと告げるゴングの残響のように聞こえた。夜、狩り場で浴びる冷たい月光は、ステージ上の主役を照らす厳かなスポットライトのように感じられた。
彼は、もはや灰色の風景の一部ではない。この色づき始めた世界の紛れもない中心に、彼は立っていた。
「――詩織、回復を! 田中、前線を維持しろ! 鈴木、右翼から回り込んで奴の体勢を崩せ!」
健太の声が、夜の静寂を切り裂いて響き渡る。その声には、もはや以前のような自信のなさや虚勢の響きはない。幾多の戦闘を潜り抜け、仲間からの信頼を勝ち得た者だけが持つ、冷静でしかし揺るぎない「指揮官」の声音だった。
彼らの目の前で、巨大な影が咆哮を上げる。Tier4『鉄甲ムカデ』。その鋼鉄の鱗で覆われた巨体は、戦車のように突進し、コンクリートの壁を紙屑のように薙ぎ倒していく。
だが、その進路上に一人の少年が、まるで仁王像のように立ちはだかっていた。
「――来いよ、デカブツが!」
田中が不敵な笑みで叫ぶ。彼の全身が、カキンッと鈍い金属光沢を帯びた。SR『硬質化』。
ガギィィィィンッ!!
けたたましい金属音。鉄甲ムカデの突進を、田中はその小柄な身体一つで正面から受け止めてみせたのだ。衝撃で地面が砕け、彼の足がアスファルトにめり込む。だが、彼は一歩も引かなかった。
「ぐ……っ! 重てぇ……!」
「田中君!」
その背後から、詩織の祈るような声が響く。彼女の両の手のひらから温かい緑色の光が放たれ、田中の身体を包み込んだ。『継続治癒』。田中の、軋みを上げる全身の筋肉と骨格を、内側から癒し、補強していく。
その僅か数秒の拮抗。
「――今だ、鈴木!」
健太の指示が飛ぶ。
その瞬間、戦場の側面から風のような速さで、もう一つの影が躍り出た。鈴木(同級生)だ。彼は SR『身体能力強化(中)』によってブーストされた脚力で壁を蹴り、三角飛びで鉄甲ムカデの巨体の側面へと取り付いた。
そして、その勢いのまま、手にした強化金属バットをムカデの無数の足の一つへと渾身の力で叩き込んだ。
バキィッ! と硬いものが砕ける鈍い音。ムカデの巨体が、ぐらりと大きく傾いた。
――その一瞬だけ生まれた、完璧な好機。
「――貰った」
戦場を俯瞰していた健太の目が、冷たく光った。
彼の周囲に浮かんでいた五つのバスケットボール大の鉄塊。それらが彼の意思に応え、まるで一つの生き物のように滑らかな軌道を描き始めた。
一つはムカデの頭上へ。
一つはその背後へ。
そして残りの三つは、体勢を崩したことによって僅かに剥き出しになった装甲と装甲の隙間、その柔らかい腹部へと。
「――『五月雨』」
呟きは、死の宣告だった。
五つの鉄塊が、時間差で、そして異なる角度から寸分の狂いもなく、それぞれの目標地点へと弾丸となって突き刺さった。
ギシャアアアアアアアアッ!!!
鉄甲ムカデの断末魔の絶叫が夜空に響き渡った。その巨体は痙攣するように数秒間身悶えた後、やがて動きを止め、ゆっくりと光の粒子となって風の中へと消えていった。
【クエストを完了しました!】
四人のスマートフォンが、同時に無機質な勝利を告げた。
「……はぁ、はぁ……。やったな……」
田中がその場にへたり込み、荒い息をついた。
「やりましたね、先輩! 私たちの勝ちです!」
鈴木が、興奮冷めやらぬ様子で拳を突き上げる。
健太は何も言わなかった。ただ、目の前の仲間たちの姿と、静けさを取り戻した夜の戦場を、静かに、そして確かな満足感と共に見つめていただけだった。
これが、今の彼らの戦い方だった。
司令塔の健太、盾役の田中、遊撃手の鈴木、そして回復役の詩織。四つの異なる能力、四つの異なる個性。それらが一つの目的の下に組み合わさった時、個の力の総和を遥かに超える「力」が生まれる。
彼らは、もはや単独のハンターではない。一つの完璧な「パーティー」として機能し始めていた。
「――まあ、及第点といったところかしらね」
その水を差すような冷ややかな声は、彼らが陣取っていた廃ビルの屋上から聞こえてきた。
四人が見上げると、そこには神楽坂瑠璃が腕を組み、まるで高みから下々の者の働きぶりを評価する女王のように、彼らを見下ろしていた。
「……見てたのかよ」
健太が忌々しげに呟く。
「当たり前でしょう。あなた達だけで行かせろと言ったのはあなた達自身。だが、それを監督するのが私の仕事よ」
瑠璃は、ふわりと猫のように軽やかに屋上から飛び降りてきた。
「連携は、まあ悪くなかったわ。特に田中君。あなたは『盾』としての自分の役割を、ようやく理解し始めたようね。評価してあげる」
「あ、あざっす……!」
突然褒められ、田中が少しだけ照れたように頭を掻いた。
「鈴木君。あなたのスピードも、なかなか面白いわ。ただ、まだ動きに無駄が多い。もっと最短距離で相手の急所を突く動きを意識なさい」
「は、はい!」
「桜井さん。あなたは回復のタイミングは完璧ね。でも、もっと戦場全体を俯瞰しなさい。誰が次に危険になるのか。それを予測するのよ」
「は、はい! 頑張ります!」
そして最後に。
瑠璃は、この即席チームのリーダーである健太の前に立った。
「……なんだよ」
「斉藤健太。あなたよ」
彼女の目は、いつになく真剣だった。
「あなたの指揮は悪くなかった。戦況を読み、的確に指示を出す。その才能は認めます。……でもね」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
「――あなたは、まだ本当の『恐怖』を知らない」
「……は?」
「今のあなたは、いわばシミュレーションゲームをプレイしているだけ。駒の動かし方が少し上手くなったに過ぎないわ。本当の意味で、仲間の命をその両肩に背負う覚悟が、あなたにはまだない」
その、あまりにも核心を突いた言葉に、健太はぐっと言葉を詰まらせた。
「……そんなこと……!」
「あるわよ」
瑠璃は即座に、そして断言した。
「だから、あなた達には最後の『試験』を受けてもらう。……あなた達が本当の意味で過去を乗り越えられたかどうかを見極めるためのね」
「……最後の試験……?」
瑠璃の口元に、いつもの悪魔のような美しい笑みが浮かんだ。
「ええ。――リベンジマッチよ。あの、あなたを殺しかけた『指揮官ゴブリン』とのね」
その名前を聞いた瞬間、健太の背筋を冷たいものが走り抜けた。
指揮官ゴブリン。
あの夜の屈辱的な敗北。脇腹を貫かれた焼けるような痛みと、死の恐怖。それは彼の心に今もなお、深く、そして醜い傷跡として残り続けていた。
「……奴がまた現れたのか……?」
「ええ。しかも以前よりも遥かに規模を拡大してね」
瑠璃はスマートフォンの画面を健太に見せた。そこに表示されていたのは、見覚えのあるあの巨大な貨物ターミナルの地図だった。だが、そこに表示されている怪異の反応は、以前とは比較にならないほど濃密で、そして巨大な一つの群れを形成していた。
「奴はあの後、周辺のゴブリンの群れを次々と吸収し、今や百体を超える『軍団』を作り上げているわ。そしてその中心にいる奴自身も、他の怪異を喰らったのか、Tier4 上位クラスにまでその力を増大させている。……もはやただの突然変異種ではない。明確な意志を持った『王』よ」
「……ひゃ、百体……!?」
詩織が青ざめた顔で、悲鳴に近い声を上げた。
「そんなの無理ですよ! いくらなんでも……!」
「そうね。今のあなた達の実力では、正面からぶつかれば十分も経たずに全滅するでしょうね」
瑠璃は、あっさりとその絶望的な事実を認めた。
「……だがな」と、健太は震える声で、しかし強い意志を目に宿して言った。「俺があいつに負けたのは、一人だったからだ。油断して、慢心して……。だが、今の俺は違う」
彼は、自分の後ろに立つ三人の仲間たちの顔を振り返った。
緊張で顔を強張らせながらも、まっすぐに自分を見つめ返してくる田中と鈴木。
不安そうに、しかし確かな信頼をその目に浮かべている詩織。
「――今の俺には、こいつらがいる」
「ほう?」
「……だからやる。やらせてくれ。あいつは……俺が、俺たちの手でケリをつけなきゃいけない相手なんだ」
その、覚悟の決まった言葉。
瑠璃はしばらく黙って健太の顔を見つめていた。そして、やがて心底楽しそうに声を立てて笑った。
「ふふ……。ふふふ、面白い! 言うようになったじゃない、斉藤健太! いいわ、許可します!」
彼女は、まるで舞台役者のように芝居がかった仕草で手を広げた。
「ただし! 私の指示には絶対に従ってもらう。そして、もしあなた達が危険だと判断した場合は、私が即座に介入し、奴を排除する。……いいわね?」
「……ああ。それで構わない」
「結構よ。じゃあ明日の夜、決行しましょうか。……あなたの、そしてあなた達の本当の『覚醒』を、この目で見届けてあげるわ」
瑠璃はそう言って、夜の闇の中へとその姿を消していった。
後に残されたのは、重い沈黙と、決戦を前にした四人の若者たちだけだった。
決戦の夜。
貨物ターミナルの錆びついたクレーンの上から、四人は眼下の敵陣を見下ろしていた。
瑠璃が言った通りだった。倉庫を中心に百体を超えるゴブリンの軍勢が、まるで統率された軍隊のように各所に配置され、周囲を警戒していた。弓を持つ者、粗末な盾を持つ者、そしてその中を、一回り大きな体躯を持つ小隊長クラスのゴブリンが巡回している。
そして、その軍勢の中央――最も厳重に守られた倉庫の屋根の上に、あの忌まわしき「王」――指揮官ゴブリンが腕を組み、泰然と鎮座していた。
「……やべぇな。マジで軍隊じゃねぇか……」
田中が、ごくりと喉を鳴らした。
「どうするんですか、健太先輩……。正面から突っ込んだら瞬殺されますよ……」
鈴木も青ざめた顔で尋ねる。
健太は何も答えなかった。ただ、じっとその敵陣を睨みつけていた。
恐怖はある。だが、それ以上に彼の心の中では、燃え盛るような闘志の炎が燃え上がっていた。
『――あなたの指揮は悪くなかった。でも、あなたはまだ本当の恐怖を知らない』
瑠璃のあの言葉が、彼の脳裏をよぎる。
そうだ。これはただの復讐戦ではない。これは、自分が、そして自分たちが本当の「チーム」になるための、最後の「試験」なのだ。
「……詩織」
彼は静かに、相棒の名を呼んだ。
「はい」
「お前の治癒能力、広範囲に薄く広げることはできるか?」
「え? えっと……やったことはありませんけど……。たぶん『癒しの霧』っていうスキルがあったはずです」
「よし。それを使え。このエリア一帯に、可能な限り広く、そして薄く霧を撒け。……鈴木、田中」
「「うす!」」
「お前らは霧に紛れて、左右から同時に敵の側面を叩け。目的は敵を倒すことじゃない。注意を引きつけ、混乱させることだけを考えろ。深入りは絶対にするな」
「了解!」
「で、健太さんは……?」
「俺は――」
健太の目が鋭く、中央の「王」を捉えた。
「――ただ、真っ直ぐ、奴の首だけを狙う」
あまりにも無謀で、そして単純すぎる作戦。
だが、その言葉には不思議なほどの力がこもっていた。
「……いいか。俺たちの今の力じゃ、この軍勢を殲滅することは不可能だ。だがな、頭を叩けば蛇は死ぬ。……俺を信じろ」
三人は顔を見合わせた。そして、同時に力強く頷いた。
「――作戦開始!!」
健太の号令と共に、四つの影が同時に動いた。
詩織がクレーンの上から、祈るように両手を広げる。彼女の身体から、柔らかな緑色の光が霧となって溢れ出し、夜の貨物ターミナルを、幻想的な、そして不気味な静寂の中へと包み込んでいった。
視界が急速に奪われていく。ゴブリンたちの軍勢に、動揺が走った。
その一瞬の隙。
「――行くぞ、鈴木!」
「応っ!!」
田中と鈴木の二人が左右から、霧を切り裂くようにして敵陣へと突っ込んでいった。
「『硬質化』!!」
田中の拳が、外周を警備していたゴブリンの一体を豪快に殴り飛ばす。
「らああっ!」
鈴木が、強化された脚力で壁を駆け上がり、上空から別のゴブリンの群れへと奇襲をかけた。
敵陣は混乱に陥った。左右からの予期せぬ攻撃。そして、視界を奪うこの不気味な霧。
だが、それこそが健太の狙いだった。
全ての敵の注意が左右に引きつけられた、その瞬間。
彼は動いた。
クレーンの上から一直線に、ただひたすらに中央の倉庫へと、最短距離を翔けたのだ。
彼の身体は念動力のアシストを受け、もはや人間の目では捉えることのできない黒い弾丸と化していた。
「――なに!?」
倉庫の屋根の上、指揮官ゴブリンが、ようやく中央を突破してくる健太の存在に気づいた。だが、遅い。
健太はすでに、その目の前まで肉薄していた。
「ガアアアッ!」
指揮官ゴブリンが驚愕の声を上げ、手に持った巨大な戦斧を健太めがけて振り下ろす。
だが、健太はもはやあの夜の無力な彼ではなかった。
彼は振り下ろされる戦斧を最小限の動きで紙一重でかわすと、その勢いを逆に利用し、敵の懐へとさらに深く潜り込んだ。
そして、彼の右手に、いつの間にか握られていた鋭く尖った一本の鉄筋が閃いた。
それは、彼がこの日のために瑠璃から叩き込まれた、唯一にして必殺の「技」。
――カウンター。
「――終わりだ」
低い呟き。
鉄筋は、まるで吸い込まれるかのように、指揮官ゴブリンのがら空きになった心臓部へと深々と突き刺さった。
「……ガ……ハ……」
指揮官ゴブリンの目から光が急速に失われていく。その巨体はゆっくりと後ろへと傾き、やがて屋根の上から力なく落下していった。
そして、光の粒子となって消滅した。
その王の死を、残されたゴブリンたちは瞬時に理解した。
統率者を失った軍勢は、もはやただの烏合の衆だった。彼らは恐慌状態に陥り、蜘蛛の子を散らすように四方八方へと逃げ惑い始めた。
「……やった……のか……?」
健太は荒い呼吸を繰り返しながら、敵の総大将がいた場所をただ呆然と見つめていた。
勝ったのだ。
あの絶望的なまでの力の差を、仲間との連携と、ほんの少しの戦術で覆して。
「――健太さん!」
「先輩!」
霧の中から田中と鈴木が駆け寄ってくる。その身体は傷だらけだったが、その表情は歓喜に満ちていた。
「……見事だったわ、斉藤健太」
いつの間にか彼の背後に瑠璃が立っていた。その声には、初めて――ほんのわずかだが――素直な「賞賛」の色が含まれていた気がした。
斉藤健太は、この日、確かに過去の自分を乗り越えた。
灰色の敗北の記憶は、今、仲間たちと共に掴み取った確かな勝利の輝きによって上書きされたのだ。
だが、彼の本当の戦いはまだ始まったばかりだった。
この勝利が、やがて彼らをさらに深く、そしてさらに危険な世界の裏側へと導いていくことになるということを、高揚感に包まれた彼らは、まだ誰も知らなかった。




