第37話 灰色の相談室と鋼の拳
一週間後の同じ喫茶店。
同じボックス席には、もはや見慣れた光景となった四人の高校生が、再び顔を揃えていた。だが、その空気は先日のような一方的な講義と緊張に満ちたものとは、明らかに違っていた。
テーブルの上にはコーヒーと、それぞれの好みのジュース。さらに数種類のケーキが、まるで小さな祝賀会のように並べられている。――それは神楽坂瑠璃が「これも経費で落ちるから」と、どこか楽しげに注文したものだった。
四人の間には、緊張ではなく、共通の秘密を分かち合う者たちだけが持つ、独特の連帯感と穏やかな興奮が、心地よく流れていた。
「――やりましたよ、斉藤先輩!」
その均衡を破ったのは、いつもはおとなしいはずの鈴木(同級生の方)の、珍しく大きな声だった。彼の目は、達成感と寝不足による疲労とで、らんらんと輝いていた。
「ついに……! ついに来ました! SRです!」
彼は、まるで宝物でも見せるかのように、自分のスマートフォンのガチャ結果画面を、テーブルの中央に突き出した。そこに表示されていたのは、銀色の、少しだけ豪華なフレームに縁取られた一枚のカード。
【SR:身体能力強化(中)】
「おおっ!」
健太は、まるで自分のことのように、素直に感嘆の声を上げた。
「すげぇじゃん、鈴木! やったな!」
「はいっ! いやー、もう全然出なくて……! 五日間、寝る間も惜しんでリセマラし続けて、マジで心が折れるかと思いました……! Rの『発毛促進』とか、Nの『爪が早く伸びる』とか、嫌がらせみたいな能力ばっかりで……!」
鈴木は、この数日間の苦行を思い出したのか、がっくりと肩を落として愚痴をこぼした。その必死な様子に、詩織が「あはは……。お疲れ様でした」と、労うように微笑んだ。
「まあ、何はともあれおめでとう」
健太は、すっかり「先輩」の顔で、鷹揚に頷いてみせた。
「Rの『跳躍力強化』に比べりゃ、SRの『身体能力強化(中)』は大当たりだ。戦闘における全ての基礎になる能力だからな。腐らせるなよ」
「はいっ! ありがとうございます!」
鈴木は、まるで尊敬する師からの言葉を授かったかのように、深々と頭を下げた。その、あまりにも純粋な尊敬の眼差しが、健太の自尊心を最高にくすぐった。
「それで? 田中の方はどうなんだ?」
健太は次に、もう一人の「生徒」である田中へと視線を移した。彼はリセマラを選ばず、初期能力であるSR『硬質化』を、そのまま使い続ける道を選んでいた。
「へへん。まあ、見ててくださいよ、斉藤先輩」
田中は自信満々の笑みを浮かべると、おもむろにおしぼりの下に隠していた「あるもの」を取り出した。それは、長さ三十センチほどの角材の切れ端だった。
「おい田中。何持ち込んでんだ、お前」
「まあまあ。で、これがこうです!」
田中はそう言うと、右の拳をぐっと握りしめた。
「――『硬質化』!」
彼の拳が、カキン、と。まるで金属にでも変化したかのように、鈍い光を放った。皮膚の質感が、明らかに変わっている。
そして彼は、その拳を一切の躊躇なく、テーブルの上の角材へと振り下ろした。
バキィッ!!
乾いた、耳障りな破壊音。
角材は、まるでビスケットのように、あっけなく真っ二つにへし折れた。だが田中の拳には傷一つない。それどころか、まるで豆腐でも殴ったかのような、涼しい顔をしている。
「「おおー……!」」
健太と鈴木、そして詩織からも、同時に感嘆の声が漏れた。
「どうです? すごいでしょう!」
田中は得意満面に胸を張った。
「この一週間、斉藤先輩に言われた通り、ひたすら能力を使いまくってたらスキルポイントが貯まって! 『硬度上昇LV.5』と『部分硬質化・精密操作』ってスキルを取ったんすよ! おかげで今じゃ木材くらいならパンチ一発で簡単に壊せるし! この前、試しに工事現場にあった鉄板を殴ってみたら、ちゃんとへこませましたぜ!」
「……マジかよ。すげえな、田中」
健太は素直に賞賛した。あのひ弱な田中が、わずか一週間で超人の領域へと足を踏み入れている。その事実に、彼は自分のことのように興奮を覚えていた。
「へー……! いいなー田中君は! 俺も早く、身体能力強化していろいろできるようになりたいなー……!」
鈴木は、羨望の眼差しで田中の鋼鉄の拳を見つめている。
その、まるで部活の後の反省会のような、和やかで微笑ましい光景。
――それを、一人だけ、全く違う次元から観察している者がいた。
「……愚かね」
氷のように冷たい、しかし蜂蜜のように甘い声。
神楽坂瑠璃は頬杖をつきながら、まるでレベルの低い演劇でも見せられているかのように、心底退屈そうな目で彼らを見下ろしていた。
「……は? 何がだよ」
健太が、不快感を隠そうともせずに聞き返す。
「全てよ。あなた達の、そのお粗末な“戦略ごっこ”全てが、滑稽で見ていられないわ」
「……んだと?」
「まずあなた。鈴木君だったかしら」
瑠璃の射るような視線が、新米プレイヤーの鈴木へと突き刺さる。鈴木の身体が、びくりと跳ね上がった。
「リセマラごときで五日も費やすなんて、時間の無駄もいいところだわ。それに『身体能力強化』ね。確かに汎用性の高い、悪くない能力よ。でも、それだけじゃ、ただの『少しだけ頑丈で、少しだけ素早いサンドバッグ』にしかならない。あなたに、それを使いこなすだけの『技術』はあるのかしら? 例えば、そうね。その力で音速を超える踏み込みができる? 鉄をも断ち切る手刀が放てる?」
「……いいえ……。そんなこと……」
「できないでしょうね。あなたには、その力を活かすための『基礎』が何もないのだから」
瑠璃の、容赦ない言葉の刃。
次にその矛先は、得意満面だった田中へと向けられた。
「そしてあなた、田中君。『硬質化』。防御に特化した優れた能力だわ。でもね、あなたは根本的な勘違いをしている。その力は『殴る』ためにあるのではないわ。『受け止める』ためにあるのよ。あなたは、パーティーにおける敵の攻撃を引きつけ、仲間を守る『盾』役になるべき存在。なのに、あなたはその貴重な能力を、ただの『硬い拳』としてしか使えていない。宝の持ち腐れも甚だしいわね」
「……っ!」
田中は顔を真っ赤にして、俯いてしまった。
そして最後に。瑠璃の目は、この即席教室の「先生」である健太を捉えた。
「……なんだよ」
「身体能力強化ね。……『とりあえず木刀あたり使って戦うと良いんじゃないか?』ですって? 笑わせてくれるわね」
彼女は、健太が先ほど鈴木に言った、あまりにも浅はかなアドバイスを、正確に、そして嘲るように繰り返してみせた。
「あなた、本当に何も分かっていないのね。彼の能力の、本当の価値を」
「……何が言いたいんだよ」
「いいこと? 『身体能力強化』とは、全ての『技』の威力を“乗算”で引き上げるための、最高の『触媒』なのよ。ただ闇雲に木刀を振り回したって、それは子供のチャンバラごっこ。でも、そこに例えば“一撃必殺”の『剣術』が加われば? 相手の急所を的確に突く『暗殺術』が加われば? その一撃は、Tier3、いやTier2の能力者ですら屠ることのできる“必殺の一撃”と化すわ。――重要なのは、力そのものではない。それをどう『使う』かという技術と知識。あなた達には、そのどちらもが、絶望的に欠けているのよ」
その言葉は、まるで絶対的な真理のように、三人の心を重く、そして深く抉った。
彼らがこの一週間で積み上げてきた、ささやかな自信と達成感。――その全てが、目の前の少女の、たった数分の言葉によって、脆くも崩れ去っていった。
「……じゃあ、どうしろって言うんだよ……!」
沈黙を破ったのは田中だった。彼は悔しさを滲ませながらも、食い下がるように瑠璃に問いかけた。
「……俺のこの『硬質化』のスキルツリーには、『硬化中、身体能力強化(弱)を発動する』っていう複合スキルがあるんだ。でも、身体能力強化(弱)なんて、弱いスキル取るだけ無駄だって、サイトにも……」
「そうね。確かに弱いスキルだわ。それ単体では、何の役にも立たないでしょうね」
瑠璃は、あっさりとそれを認めた。
「でも――」
彼女の目が、きらりと。まるで悪戯を思いついた子供のように輝いた。
「――あなたの『硬質化』と組み合わせれば、話は別よ」
「……え?」
「よく考えなさい。敵の攻撃を、その鋼鉄の腕で受け止める。――その衝撃が加わった、まさにその“瞬間”にだけ、『身体能力強化』でさらに腕の筋力をブーストさせたらどうなる?」
「……えっと……」
「ただ受け止めるのではなく、相手の攻撃を逆に『弾き返す』カウンター技として使えるかもしれない、とは思わない?」
その、あまりにも意外な、そして天才的な発想に、田中ははっとしたように目を見開いた。
「……あ……!」
「全ては“応用”よ。“組み合わせ”よ。弱いスキルなんて一つもないわ。ただ、弱い『使い方』しかできない、頭の固いプレイヤーがいるだけ。……今のあなた達のようにね」
瑠璃は、ふふ、と。楽しそうに笑った。
その姿は、もはやただの辛辣な批評家ではなかった。出来の悪い、しかし磨けば光る可能性を秘めた「原石」たちを前にして、指導欲を隠しきれない、優秀すぎる「教師」の顔そのものだった。
健太と田中と鈴木。
三人の少年たちは、その自分たちとは全く次元の違う、圧倒的な「格」を前にして、ただ呆然と、その瑠璃色の瞳に見入ることしかできなかった。
その日の夜。
健太はいつものように『奈落の淵』にログインしていた。だが、彼はもはやそこで先輩風を吹かせて、初心者にアドバイスをするようなことはしなかった。
彼はただ黙って、狂人たちの高度な戦術論や、スキルコンボの研究についてのログを、食い入るように読み漁っていた。
瑠璃に叩きつけられた言葉。
『弱いスキルなんて一つもない。ただ弱い“使い方”しかできない頭の固いプレイヤーがいるだけ』
その言葉が、彼の頭から離れなかった。
(……応用……。組み合わせ……)
彼は自らの『念動力』のスキルツリーを、もう一度、最初から見直した。
出力強化、操作精度向上、同時操作可能数増加……。今まで彼が、ただそれだけが正解だと思い込んでいた、直線的な強化ルート。
だが、その脇道には、彼が今まで全く見向きもしてこなかった、補助的なスキルがいくつも存在していた。
【念動フィールド:周囲の空間に念動力の不可視のフィールドを展開し、敵の動きをわずかに鈍らせる】
【運動エネルギー変換:物体に与えた運動エネルギーの一部を、自らの霊力として吸収する】
【記憶痕跡:物体に残された持ち主の残留思念を、映像として読み取る】
どれも直接的な攻撃力には結びつかない。地味で、使いどころの難しいスキルばかりだ。
だが、もしこれらを上手く組み合わせることができたなら?
例えば、念動フィールドで敵の動きを鈍らせ、その隙に背後から本体の攻撃を叩き込む。
例えば、敵が放ってきた飛び道具を念動力で受け止め、その運動エネルギーを自分の力に変換して、さらに強力な一撃として撃ち返す。
(……そういうことかよ……)
健太は愕然としていた。
自分はなんて浅はかだったのだろう。ただ目先の攻撃力ばかりに気を取られて、この力の本当の可能性に、全く気づいていなかった。
彼は、まるで初めて見るパズルを解くかのように、夢中になって、新たなスキルコンボの可能性を、脳内でシミュレーションし始めた。
それは苦痛な勉強ではなかった。――楽しくて仕方がない。
新しいおもちゃの、今まで知らなかった遊び方を、次から次へと発見していくような、純粋な知的好奇心。
彼はこの日、本当の意味で『KAII HUNTER』という底なしのゲームの深淵の、ほんの入り口に、ようやくその指先をかけたのかもしれないかった。
そして、その健太の劇的な変化を、誰よりも早く、そして正確に感じ取っていた者がいた。
喫茶店の窓際の席。
瑠璃は、健太たちとはすでに別れ、一人残っていた。彼女は、カップに残った冷たい紅茶をゆっくりと口に運びながら、スマートフォンの画面を静かに見つめていた。
それは、健太たちが使っている『KAII HUNTER』の画面ではなかった。黒を基調とした、よりシンプルで、より機能的な、八咫烏の特務官専用の情報端末。
画面には、斉藤健太の詳細なプロファイルと、彼の霊力パターンの変動を示すリアルタイムのグラフが表示されていた。
そしてそのグラフは今この瞬間も、今までとは比較にならないほど細かく、そして複雑に振動を繰り返していた。――それは、彼の脳が、彼の魂が、今、猛烈な速度で新たな回路を形成し、進化を始めていることを、明確に示していた。
「……ふふ」
瑠璃の口元に、満足げな、そしてどこか愉悦に満ちた美しい笑みが浮かんだ。
「……やっとスタートラインに立った、というところかしらね。……私の可愛い生徒さん?」
彼女は誰にともなく、そう呟いた。
その瞳は、もはやただの冷徹な監視者のものではなかった。
最高の才能を持つ自分だけの「作品」が、これからどんな美しい芸術品へと仕上がっていくのか。――それを心待ちにしている、偏執的なまでの「芸術家」の狂気を帯びた光に満ちていた。
灰色の相談室は、こうして鋼の意志を育む“教練の場”へと、その姿を変えた。
そして、健太たちの本当の「戦い」が、ここから始まろうとしていた。




