第36話 灰色の教鞭と二羽の雛鳥
駅前の喫茶店『カフェ・ド・レンガ』。
その名の通り、内装が古めかしいレンガ調で統一された、昭和の香りが色濃く残るその場所は、本来、近所の老人たちの憩いの場であり、あるいは時間を潰すサラリーマンのための避難所であるはずだった。だが今この瞬間、店の最も奥まったボックス席だけは、周囲の穏やかな空気とは完全に隔絶された、異質な緊張感に包まれていた。
五人の高校生。
その中央のテーブルには、湯気の立つコーヒーカップと色鮮やかなクリームソーダが、まるでこれから始まる何かの儀式の供物のように、行儀よく並べられている。
「あ、あの……! 神楽坂さんだよな? メッセージもらったんだけど……。そ、その、相談したいことって……?」
口火を切ったのは、クラスの中でも比較的陽気なグループに属しているはずの田中だった。だがその声は緊張でひどく上擦っており、その視線は、目の前に座る神楽坂瑠璃という、人間離れした美貌の少女に完全に釘付けになっていた。隣に座る、少し気弱そうな鈴木(こちらの鈴木は、名字が同じだけのただの同級生である)も、緊張で石像のように固まっている。彼らにとって瑠璃は高嶺の花。いや、もはや同じ高校に通っているとは思えない、別次元の存在だった。
健太は、そんな彼らのあまりにも分かりやすい反応を、冷めた目で見つめていた。だが内心では、彼ら以上に、あるいは彼らの百倍は緊張していた。
(……クソ。なんで俺がこんなことを……)
心臓が、まるでバスケットボールのように胸の中で激しく跳ねている。テーブルの下で握りしめた拳は、汗でじっとりと濡れていた。彼の視線が、助けを求めるように、斜め前に座る悪魔の元凶――神楽坂瑠璃へと向けられる。
瑠璃は、そんな彼の視線に気づいているのかいないのか。ただ、にこりと完璧なまでの営業スマイルを浮かべると、まるで女王が謁見を許すかのように、優雅に口を開いた。
「ええ、そうよ。わざわざ来てもらってごめんなさいね。……でも、今日あなた達に話があるのは私じゃないの」
彼女は、その白魚のような指先で、隣に座る健太をすっと示した。
「――彼よ」
その瞬間。
田中と鈴木の二人の視線が、初めて健太という存在を明確に「認識」した。
「……え? 斉藤……?」
「……なんで斉藤が……?」
彼らの表情には、困惑と不審の色がありありと浮かんでいた。無理もない。クラスメイトである斉藤健太は、彼らにとって、その他大勢の風景の一部でしかなかった。物静かで暗くて、特に何の取り柄もない陰キャグループの一人。そんな彼がなぜ学園のアイドルである神楽坂さんと一緒にいるのか。そして、なぜ自分たちがこんな場所に呼び出されなければならないのか。
健太は、そのあまりにもあからさまな「なんでお前が?」という視線に、ぐっと言葉を詰まらせた。
無理だ。
やっぱり無理だ。
俺なんかが、こいつらに一体何を言えというのだ。
喉はカラカラに乾ききっていた。何かを言おうとしても、ただ意味のない空気がひゅう、と漏れるだけ。
その絶望的な沈黙。
見かねた隣の詩織が、「け、健太さん……!」と心配そうに、彼の腕を小さくつねった。
そして正面の瑠璃の目が、すっと氷のように冷たく細められたのを、健太は見逃さなかった。その目は明確にこう言っていた。
――それでもあなたがやるのよ。これはあなたのための「訓練」なのだから、と。
「……お」
健太の喉から、ようやく声にならないような、か細い音が漏れた。
彼は意を決して、顔を上げた。
「――おっほん!」
わざとらしい咳払い。
それは、彼がこの人生で初めて、自らの意思で誰かの前に「立とう」とした、か細くも、しかし確かな産声だった。
「――お前らを呼び出したのは、俺だ」
健太は、できるだけ声が震えないように、そしてできるだけ尊大な態度を装って、そう言い放った。裏サイトで見た、あの「ジャガーノート」という男の、ふてぶてしい態度を必死で真似ていた。
「……さいとう……? お前が……? どういうことだよ」
田中が、ますます混乱したように聞き返す。
「……俺の名前は斉藤健太。まあ、お前らも名前ぐらいは覚えてるよな?」
「ああ、まあ……」
「今日、お前らを呼んだのは他でもない」
健太は、そこで一度大きく息を吸い込んだ。
「――『KAII HUNTER』。……この名前に、覚えはあると思うが……?」
その禁断の単語が口にされた瞬間。
田中と鈴木の顔色が変わった。彼らの目に浮かんでいた困惑の色は、瞬時に驚愕と、そして明確な「警戒」の色へと塗り替えられた。それは、秘密を共有する者だけが互いに発する、特殊な信号のようなものだった。
「……なんでお前がその名前を……」
「……お前もなのか……?」
二人の声が震えている。
健太は、彼らが完全に動揺しているのを見て、ほんの少しだけ心の余裕を取り戻していた。そうだ。これでいい。最初から主導権を握るのだ。
「ああ。……まあな」
彼は、ふっと。まるで全てを知る上位者のように、ニヒルな笑みを浮かべてみせた。
「少し、面白いものを見せてやるよ」
健太は、テーブルの上に置かれていた自分のコーヒーカップへと意識を集中させた。カップの中身は、すでにほとんど空だったが、問題はない。
(――浮け)
次の瞬間。
コーヒーカップが、かたり、と小さな音を立てると、まるで見えない糸で吊り上げられたかのように、ふわりと宙に浮かび上がったのだ。
「「――なっ!?」」
田中と鈴木の口から、同時に、信じられないというような驚愕の声が漏れた。喫茶店の、ごくありふれた日常風景の中で、あまりにも唐突に、そしてあまりにも明確に提示された超常現象。
健太は、浮かべたカップを、ゆっくりと空中を滑らせるように動かして見せた。右へ、左へ。そして、まるで挨拶でもするかのように、二人の目の前で、こくりと軽く傾けてみせる。
「――これが俺の能力。SSRの『念動力』だ」
そう言って、カップを静かにテーブルの上へと戻した。
店内は相変わらず、気だるいボサノバと、老人たちの穏やかな談笑に包まれている。だが、このボックス席の中だけは、完全に異次元の空気に支配されていた。
「……す、すげぇ……」
「……マジかよ、斉藤……。お前、そんなとんでもない力を……」
二人の見る目は、もはやクラスメイトの「斉藤」を見る目ではなかった。未知なる力を持つ自分たちと同じ、しかし遥かに先にいる「先輩」を見る畏敬の眼差し。
その純粋な尊敬の光を浴びて、健太の心は、どうしようもないほどの快感に満たされていた。
(……悪くない)
いや、最高だ。
人に何かを教える。人の上に立つ。
それはこんなにも気持ちの良いことだったのか。
彼は、すっかり「先生」役になりきっていた。
「……さて。話の続きだが」
健太は、完全に主導権を握ったことを確信し、尊大な態度で話を続けた。
「俺が能力を手に入れて、もうすぐ二ヶ月になる。まあ、お前らにとっては『先輩』ってところだな」
彼は、裏サイトの古参プレイヤーたちがよく使う言い回しを、そのまま拝借した。
「お前たちが最近、能力を手に入れたらしいってのは、気配で分かってる。それで少し心配になって、こうして声を掛けたというわけだ。……まさか、何も知らずにいきなり怪異に喧嘩を売ったりはしてないだろうな?」
「い、いや……。まだ能力で遊んでるだけで……」
「そうか。なら良い」
健太は、まるで百戦錬磨のベテランのように、深く頷いてみせた。
「……ちなみに、お前らの能力はなんだ?」
「お、俺は……SRの『硬質化』……。自分の身体を、鉄みたいに硬くできる……」
田中がおずおずと答えた。
「俺は、Rの『跳躍力強化』……。高くジャンプができるだけ……です」
鈴木が、さらに小さな声で付け加えた。
「……ふぅん。そうか」
健太は内心では(SRとRかよ。雑魚だな)と思いながらも、顔には出さず、あくまで冷静に分析するそぶりを見せた。
「まあ、悪くない能力だ。使い方次第ではどうとでもなる」
彼は再び、先輩風を吹かせた。
「いいかお前ら。まず最初にやるべきことは一つだ。――とにかく能力を使いまくれ。アプリのデイリークエストにあるだろ、『能力を100回使用せよ』ってやつが。あれを毎日、絶対にこなせ」
「……え、でも、あれ面倒くさくて……」
「馬鹿野郎!」
健太はテーブルを、ドン、と叩いて一喝した。
そのあまりの剣幕に、田中と鈴木の身体がびくりと跳ね上がる。隣にいた詩織ですら、驚いて彼の顔を見つめていた。
「……あれこそが、このゲームの一番の基本なんだよ!」
彼は、裏サイトで得た受け売りの知識を、さも自分の言葉であるかのように、熱弁し始めた。
「いいか。俺たちの力は、使えば使うほど熟練度が上がり、精度も出力も上がっていく。クエストをクリアしてスキルポイントを手に入れて、スキルツリーを解放する。最初は、ひたすらその繰り返しだ。怪異とドンパチやるのは、それからでも全く遅くない」
その言葉には、不思議なほどの説得力があった。なぜなら、彼自身がその道を通って強くなってきたのだから。
「……な、なるほど……」
「……そうだったのか……」
田中と鈴木は、まるでありがたい教えでも授かったかのように、神妙な顔でこくこくと頷いている。
その光景を、健太は言いようのない満足感と共に眺めていた。
そしてそのさらに隣で、神楽坂瑠璃が必死で笑いを堪えていることに、浮かれている健太は、全く気づいていなかった。彼女の肩が微かに、くくっと震えている。その目は完全に、面白い見世物でも見るかのような愉悦の色に染まっていた。
(……ふふ。案外様になってるじゃない、斉藤先生。……まあ、言ってることはひよっこの戯言レベルだけど)
健太の初めての「講義」は、その後も続いた。
「いいか。怪異には等級がある。お前らがいきなりTier4とかに手を出すのは自殺行為だ。まずはレーダーでTier5の反応を探せ。――それも、一体だけの奴をな」
「あ、あの! 質問いいですか?」
今まで黙っていた鈴木の方がおずおずと手を挙げた。
「なんだ?」
「ガチャでもっと良い能力って、手に入らないんですか? 俺、跳躍力だけだと正直あんまり使い道が……」
「ああ、それな。リセマラのことか」
健太は、待ってましたとばかりに頷いた。これもまた、裏サイトで仕入れた重要な情報だ。
「結論から言うと、できる。……ただし、かなり面倒だぞ」
「本当ですか!?」
二人の目が、きらりと輝いた。
「ああ。スマートフォンの設定画面から、この『KAII HUNTER』のアプリ情報に行け。そこに『ストレージとキャッシュ』って項目があるはずだ。そこから『ストレージを消去』を選ぶと、お前のユーザーデータが完全に初期化される」
健太は、まるで凄腕のハッカーのように淡々と説明を続ける。
「初期化すると、アプリを最初に起動した時の、あの状態に戻る。つまり、もう一度“初回無料の10連ガチャ”が引けるってわけだ。これで目当てのSSRが出るまで何度もやり直す。――これがリセマラだ」
「おおお……!」
二人の口から、感嘆の声が漏れる。
「ただし言っておくが、SSRが出る確率は天文学的に低いらしい。それに、一度データを消去したら、今持ってる能力もレベルも全部パーだ。それなりの覚悟を持ってやることだな」
「……なるほど……」
「ちなみに――」と、健太は知る限りの知識をさらに披露した。
「SSRなら、まあ何でも大当たりだ。俺の念動力とか、時間停止、空間転移あたりが特に最高評価だな。SRなら、田中、お前の硬質化は悪くない。あとは雷撃とか氷結とか、遠距離攻撃ができるやつが便利だ。逆に『植物会話』みたいな、戦闘に全く役立たないハズレSRを引いちまったら、即リセマラ推奨だ」
健太は得意満面だった。自分が完全に、この場の“知識の頂点”に立っているという揺るぎない実感。
灰色の教室の風景の一部だった自分が、今、クラスの中心人物になったかのような錯覚。
彼は、その甘美な毒に、完全に酔いしれていた。
彼の長く、そしてどこか歪んだ初めての教壇。
それは、まだ始まったばかりだった。
そして、この二羽の、何も知らない雛鳥を、自分と同じ血塗られた修羅の道へと引きずり込んでいるという自覚は、今の彼には、まだ微塵もなかった。
ただ、目の前の純粋な尊敬の眼差しが心地良い。
今は、それだけで十分だった。




