第35話 灰色の教壇と瑠璃色のスパルタ教育
斉藤健太の高校生活における、ささやかなオアシス。
それは、昼休みの屋上だった。
施錠されているはずのドアを、彼は毎日のように、誰にも気づかれぬよう念動力で内側の閂を外し、ここを半ば私物化していた。金網のフェンスに囲まれ、空だけが広がるこの場所は、教室の喧騒から逃れ、一人で物思いに耽るには最適な聖域だった。
コンビニで買った、味気ない焼きそばパンを齧りながら、彼はスマートフォンの画面に映る裏サイト『奈落の淵』のチャットログを眺める。狂人たちの血生臭いが、しかしレベルの高い情報交換。その一つ一つが、今の彼にとっては、どんな教科書よりも価値のある生きた知識だった。
――そう、あの日までは。
「……少し場所を詰めてくれるかしら。狭いわ」
鈴を転がすように、しかし一切の遠慮を含まない声に、健太は現実に引き戻された。
見上げると、神楽坂瑠璃が、まるでそれが当然であるかのように、彼がいつも座っている特等席のすぐ隣に腰を下ろそうとしていた。手には、上品な風呂敷に包まれた、恐らくは高級料亭の職人が手掛けたであろう美しい二段重の弁当箱。
「……なんであんたがここにいんだよ。ここは俺の場所だ」
「あら心外ね。屋上は生徒全員に解放された共有スペースのはずよ? それに、鍵が壊れているようだったから、私が用務員さんに言って直してもらったわ」
瑠璃は、にこりと完璧な笑みを浮かべてみせた。
その笑みの裏に、有無を言わせぬ「ここはもう私とあなたの共有スペースよ」という絶対的な宣告が込められているのを、健太は見逃さなかった。
こうして彼の聖域は、この瑠璃色の侵食者によって、いとも容易く蹂躙されてしまったのだった。
それから数日。奇妙な習慣が二人の間に生まれていた。
昼休みになると、どちらからともなく屋上へ向かい、一言も交わすことなく、互いに距離を置いてそれぞれの昼食をとる。健太はコンビニのパン。瑠璃は毎日寸分の狂いもなく、完璧に詰められた彩り豊かな弁当。
傍から見れば、それは学校カーストの最上位に君臨する美少女と、その対極にいる陰キャ男子という、あまりにも不釣り合いでシュールな光景だっただろう。だが二人の間には、他の誰も立ち入ることのできない濃密な緊張感と、奇妙な共犯関係のような空気が常に流れていた。
その日も健太は、焼きそばパンのビニールを無心で引き裂きながら、どうやって瑠璃から気配遮断の術の次のステップを盗んでやろうかと、そればかりを考えていた。
彼女との鬼ごっこは、あれから毎夜のように続いている。健太も少しずつではあるが、気配を消すコツを掴み始めていた。昨夜は最長記録である「五分間」も、彼女から逃げ切ることに成功したのだ。もちろんその後すぐに見つかって、屈辱的なデコピンを食らうことになったのだが。
(……あの女、マジで手加減を知らねぇ……)
額に残る微かな痛みを思い出し、健太は忌々しげに顔をしかめた。
だがその時。
「――気づいたかしら?」
不意に、瑠璃の方から静かに話しかけられた。
健太は訝しげに顔を上げた。彼女の目はいつものように、彼を値踏みするような冷たい光を宿していた。
「……え? 何にだよ」
「クラスメイトのことよ。……あなたのすぐ前の席の田中君と、その隣の鈴木君」
田中と鈴木。クラスの中でも特に目立つわけではない、ごく普通の二人組。確かバスケ部だったか。健太にとっては、名前と顔が一致する程度の、その他大勢の一人だった。
「……あの二人がどうかしたのか?」
「昨日までとは明らかに違うわ。彼らの身体から、微弱だけれど確かな『能力の気配』がする」
その言葉に、健太は息を呑んだ。
彼は言われて初めて、教室にいるその二人へと意識を集中させた。念動力を索敵モードへと切り替える。普段は他人になど全く興味がなかった。だが瑠璃に指摘され、注意深く観察してみると、確かに分かった。
彼らの魂が、ほんのわずかだが発光している。それは健太や詩織が放つ光量とは、比べ物にならないほどか細く、そして不安定な輝きだった。だが、間違いなくそれは「こちら側」の人間の気配だった。
「……まさか。あいつらも『KAII HUNTER』を……」
「そのようね。おそらく、ここ数日の間にアプリがインストールされたのでしょう。」
「……え、まじかよ。どうするんだ、これ……」
健太の心に動揺が走った。自分と同じ力を持つ者が、こんなにも身近に現れた。それは、仲間が増えたという安堵感よりも、自分のテリトリーに見知らぬ他人が土足で踏み込んできたかのような、不快感と焦燥感を彼にもたらした。
もしあいつらが学校で迂闊に力を使ったら?
もしそのせいで、自分の秘密までバレてしまったら?
「どうするですって?」
瑠璃は、そんな健太の狼狽を心底おかしいというように、鼻で笑った。
「決まっているでしょう。――接触して『教育』するのよ」
「……教育!?」
「ええ。あなた達のように、危険な玩具を手に入れて浮かれているだけの赤ん坊を、これ以上野放しにしておくわけにはいかないわ。力の正しい使い方、そしてこの世界のルールを、誰かが教えてやる必要がある」
その言葉は正論だった。健太自身、最初の頃は何も知らずに、ただ万能感に酔いしれていたのだから。
「……じゃあ、あんたがあいつらに話をつけてくれるのか?」
健太が少しだけ期待を込めて尋ねた。
この面倒な交渉事を、この有能すぎる女が代行してくれるというのなら、それに越したことはない。
だが、瑠璃の答えは、彼の期待を完璧に、そして無慈悲に裏切るものだった。
「いいえ。――あなたがやるのよ」
「…………は?」
健太の口から、完全に思考が停止したことを示す、間の抜けた声が漏れた。
「あなたが彼らの『先生』になるのよ、斉藤健太君」
瑠璃は楽しそうに目を細めた。
それは、面白い実験を思いついたマッドサイエンティストのような、残酷な笑みだった。
「なっ……! なんで俺が! 無理だろそんなの! 俺は人に何かを教えるなんてやったこともねぇし、そもそも人と話すのだって苦手なんだぞ!」
健太は激しく狼狽した。冗談ではない。自分が先生? 教壇に立って誰かに何かを教える? それは、彼がこの世で最も苦手とする行為の一つだった。
「あら、良い機会じゃない」
だが瑠璃は、そんな彼の抗議など、柳に風と受け流した。
「人に何かを『教える』という行為は、自分自身の知識や技術を改めて客観的に見つめ直し、体系化する最高の訓練になるのよ。あなたもまだ、自分がどれだけ未熟で、感覚だけで戦っているのか、身をもって知ることになるでしょうね。……自己を振り返る良い機会だわ」
「……そ、そんな無茶苦茶な……。大体、俺はまだあんたに鍛えられてる生徒の身だろうが!」
「あらあら、言い訳ばかりね。だからあなたは、いつまで経っても三流なのよ。……それに」
瑠璃は、そこで決定的な一言を付け加えた。
「私は『顧問』をしてあげるわ。あなたがちゃんと先生役をこなせるように、隣で厳しく指導してあげる。……光栄に思いなさいな」
「……強制かよ……」
健太は、がっくりと肩を落とした。もはや逃げ道は完全に塞がれてしまっていた。
この女の前では、どんな抵抗も無意味なのだ。
「ええ、強制よ。決定事項だわ」
瑠璃は満足げに頷くと、まるで手慣れた秘書のように段取りを説明し始めた。
「じゃあ今日の放課後、彼らを呼び出しましょう。私が少しだけ『不思議な力』を使って、私の名前で彼らのスマートフォンに『相談したいことがあるから駅前の喫茶店に来てほしい』とメッセージを送っておくわ。あなたももちろん来るのよ。……いいわね?」
その有無を言わせぬ宣告。
健太は、もはや諦めたように、深々とため息をつくことしかできなかった。
彼の平穏な狩猟生活は、この日を境に、さらに面倒で、そして胃の痛い新人教育という名の、新たなステージへと強制的に移行させられてしまったのだった。
その日の放課後。駅前の、少しだけ古びた喫茶店。
一番奥の目立たないボックス席で、健太は緊張で冷たくなった自分の手を、何度も握りしめていた。彼の正面には、涼しい顔で優雅に紅茶を啜っている、悪魔のような女教師――神楽坂瑠璃。そして彼の隣の席には、何が何だか分からず、ただオロオロしている善良な共犯者――桜井詩織。
「……なあ。本当に俺がやるのかよ……」
健太が最後の抵抗とばかりに、小声で瑠璃に問いかけた。
「当たり前でしょう。言ったはずよ。これはあなたのための訓練でもあるのだから」
「……俺、絶対失敗するぞ。脅して終わりになるのがオチだ」
「それもまた一興ね。その時は私が物理的に『教育』してあげるから、安心していいわ」
瑠璃の目は、全く笑っていなかった。
その時、カラン、と。喫茶店のドアベルが、来客を告げる軽やかな音を立てた。
入ってきたのは、二人の見慣れた制服姿の男子生徒。田中と鈴木だった。店内をキョロキョロと見回し、やがてボックス席に座る瑠璃の姿を見つけると、少しだけ緊張した面持ちで、こちらへと歩いてきた。
(……来たか)
健太の心臓が、まるで怪異と対峙した時のように、激しく鼓動を始めた。
「あ、あの……! 神楽坂さんだよな? メッセージ、もらったんだけど……」
田中の方が代表して、少しだけ上擦った声で瑠璃に話しかけた。視線は、健太や詩織のことなど全く目に入っていないかのように、ただひたすらに目の前の絶世の美少女へと釘付けになっている。
まあ、無理もないだろう。
「ええ、そうよ。よく来てくれたわね。さあ、そこに座って」
瑠璃は、完璧なアイドルのような営業スマイルを浮かべると、彼らの向かいの席を指で示した。
田中と鈴木は、まるで操り人形のように、ぎこちない動きでその席へと腰を下ろした。
こうして――四人の高校生と、一人の悪魔(という名の顧問)による、奇妙で、そして危険な個人面談が始まろうとしていた。
健太は、テーブルの下で汗ばんだ自分の手を、強く、強く握りしめた。
灰色の教室のその他大勢だった自分が、今、初めて誰かの人生に関わる「教壇」に立たされようとしている。
その重圧に、彼は押し潰されそうになっていた。




